ショレの戦い ラ=ロシュジャクラン夫人他

 ショレの戦いに関する王党派側の記録、続き。相変わらずナントカ夫人の回想ばかりであるが、今回はブーエル伯夫人とラ=ロシュジャクラン侯夫人の文章を紹介しよう。まずはブーエル伯夫人から

「ショレの戦いは、ボープレオーを攻撃しようとしていた共和国軍が既にいたベロールの荒地で始まった。彼らを奇襲しようと望んでいたヴァンデ軍は、そこで彼らと遭遇した。ヴァンデ軍はその目的のため、一晩中行軍していた。
 すぐに混戦が繰り広げられた。王党派軍は捨て鉢で戦い敵をあらゆるところで退かせた。ボンシャンとデルベは危険なほどの怪我を負った。このニュースは軍内に広く伝わり、彼らを驚愕させた。特に彼が置かれた馬と、ボンシャンが乗せられた担架の背後に集まった将軍たちが通過するのを見た時がそうだった。恐怖から回復してきた共和国軍が勝利を得た。
 戦闘が行われていることを知っていた私たちは、何が起きているかを判断できるよう小高い場所に行った。砲声と銃声をよく聞けるよう私たちは地面に横たわり、そして同時に神様に祈った。ともにいた多くの女性たちもまた自分たちの家を捨ててきており、私たちは祈りの言葉を口にするたびにロザリオの鎖を数えた。
 銃声が近づき、私たちは戦いにまけたのだと考えて苦悩した…。とうとう、いつの間にか戦闘の騒音は鈍くなっていった。私たちはすぐに人々から我々の不運を確認する言葉を得た。戦闘の後にはいつも、特にそれが壊走につながった時には、兵士たちはとんでもない速さで自分たちの家へすぐ戻る心構えをしているものだ」
Souvenirs de la comtesse de la Bouere"http://lesacristain.ifrance.com/bouere/page_1.htm"

 戦いの経緯に関して書かれた部分はほとんど参考にならないほど短い。ボンシャン夫人の記録を思い切り短縮すればこんな感じになるだろうか。むしろ興味深いのは、戦闘中に女性たちが何をしていたかを書いている後半部分。地面に横になって音を聞き、その音から戦況を判断しようとしていたというのは、なかなか現代人には思い浮かばない光景である。
 生き別れた娘のことを気にかけていたサピノー夫人の話や、子供連れで動き回っていたボンシャン夫人の話などを見ても分かるように、女性にとっては戦争そのものよりそれに伴うトラブルの方が気にかかっていたようである。ブーエル夫人も回想の中で大勢の人が家を失って逃げ惑っていた様子を詳しく紹介している。そういう実情を知ろうとするうえでは、彼女たちの記録も大いに役立つだろう。ただ、男性主体だった戦場の様子を知るにはあまり適した史料ではない。

 もう一つは有名なラ=ロシュジャクラン夫人の記録。王党派側にとっては公式記録的な存在である。そしてこの史料は他の王党派側史料よりずっと詳しく戦闘の経緯を記している。といっても、共和国側の史料に比べれば圧倒的に短いのだが。

「17日朝、デルベ、ボンシャン、ラロシュジャクラン、ロワラン、私の父と他の全ての指揮官たちは4万人の部隊の戦闘に立ってショレへ向かった。共和国軍はブレシュイールの師団との合流を果たしていた。彼らは4万5000人に達していた。ショレ前面、ボープレオー側の荒地で両軍はぶつかった。ラロシュジャクランとストフレは激しく攻撃を始めた。ヴァンデ軍は初めて、常備軍のように密集した縦隊を組んだ。彼らは敵の中央を切り裂き、ショレ郊外へと壊走させた。共和国軍を指揮するボーピュイ将軍は、兵たちに再合流しようと試みている最中に、ちょうど2頭目の乗馬を切り倒された。捕虜にならないためには少しばかりの努力が必要だった。青[共和国軍]が壊走に陥った時、マインツ部隊の予備が到着した。ヴァンデ軍は彼らの最初の攻撃を支え、それを押し返した。彼らは再び突撃を行い、今度はより成功を収めた。我が軍は後退し、混乱に陥った。あらゆる指揮官は彼らを再編し奇跡に値することを成し遂げた。いくつかの部隊を呼び戻し、激しい戦いに巻き込み、敵の勝利を高くつくものにした。デルベとボンシャンは致命傷を負い、そしてとうとう味方は壊走した。しかしピロンがリロー師団の大半を率いて到着し、ヴァンデ軍の脱出を援護した。損害は多数に上った。さらに共和国軍も同様に損害を蒙ったため、彼らは追撃しようと考えなかった。彼らはショレへ戻り、市に火をつけ、一晩中彼らにとっては手慣れたものである恐怖を振りまいた。
Memoires de Madame la marquise de La Rochejaquelein, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=Hz8uAAAAMAAJ" p250-252

 他の王党派側にはない指摘がいくつかある。ヴァンデ軍が「常備軍のように密集した縦隊」を初めて組んだ話とか、ピロンが率いていた部隊の名称などがそうだ。問題は、文章中に共和国側の史料を参照したと思われる話(ボーピュイが2頭の乗馬を失ったこと)が載っていること。彼女が当時知っていたことをそのまま記したのではなく、後で他の史料を参照しながら書いたものである可能性が出てくるのだ。元々これは一次史料とは言いがたいものだが、他の史料を引き写していたとなると独自の史料としての価値がそれだけ薄れてしまう。
 共和国側の史料をまとめた人物からは、この記録に対する批判も浴びせられている。Jean-Julien-Michel Savaryは、この回想録の作者が1805年にブレシュイールの副知事だったと指摘したうえで、回想録に書かれた共和国軍がショレに火をつけたという部分を非難している。

「真実を知るにはショレの目撃者の話で十分である。テュロー将軍が命じた撤収の後、ショレに火をつけたのはストフレだった」
Guerres des Vendeens et des Chouans contre la Republique francaise, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=35QFAAAAQAAJ" p271

 サヴァリーの指摘が事実なら、そもそもこの回想録の著者は女性ではない可能性が高い。ナポレオン法典下の1805年において女性がブレシュイールの副知事になり得たとは思えないからだ。また、ストフレが火をつけたという話が本当なのかどうかも気にかかるところではある。そもそもテュロー将軍が撤収を命じた時というのがいつなのかも不明だ(ショレの戦い前後ではない)。
 一体どこまでが事実でどこからがウソなのか、これだけでは正直よく分からない。とりあえず、一つ言えること。所謂ラ=ロシュジャクラン夫人の回想録も、ショレの戦いの実情を知るうえではどうやらあまり参考にならないようだ。

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