オスコットの戦い 9

 前回も記したが、LéviのLa défense nationale dans le Nord en 1793 (Hondschoote)によると、オスコットに集結した連合軍にはヨーク公の攻囲軍からコヒェンハウゼンのヘッセン旅団が増援として送られていた。この情報は住民からウシャールの下に伝わっていたが、その数は5000人と過大に報告されていた。オスコットに連合軍が集まっているとの情報も8日朝には伝わっていたが、数などの情報は不明のままだった。
 連合軍はなぜか前哨線を配置していなかった。ゲイ=ヴェルノンやウシャールの証言からもそれは窺える。代わりにヴァルモーデンが主戦線に配置した部隊は以下の通り。まず右翼にはディーペンブロイク旅団(歩兵7個大隊、大砲14門)、中央にはコヒェンハウゼン旅団(歩兵6個大隊、大砲32門)、左翼にはハンマーシュタイン旅団(歩兵4個大隊、大砲10門)、そして予備(歩兵2個大隊、大砲20門、騎兵24個大隊)だ。前回紹介した戦闘序列と少し違うのは、一部の大隊や大砲が所属部隊を変えていたため(p486-487)。
 次にLa défense nationaleは戦場の地理についての説明に入る。今回はTopographic map of France (1836)よりも、本の巻末にあるオスコットの地図を見た方がいいだろう。さすがにここまで詳しい情報は1836年の地図には載っていない。
 連合軍の中央背後にあったオスコット村の住民は既に逃げ出していた。村には特に防御施設はなかったが、昔の塹壕や門などは残されていたようで、防御側に有利だった。また村はコルム運河と昔からあった街道(Looweg)という2つの谷間に挟まれた高台に存在しており、村の北西にはコルム運河につながるオスコット運河の船着き場(Port)があった。フランス軍が攻め寄せてくる南側には3つの修道院の庭と壁があり、西から三位一体修道会(Trinitaires)、フランシスコ会レコレ派修道院(Récollets)、灰色の姉妹会(Soeurs Grises)と並んでいた。
 オスコットの南方には3つの風車があり、連合軍の中央部隊は3つに分かれてそれぞれの風車を拠点に展開していた。地図で1の番号が付されている風車は近くのレ=アンギル農場への道とベルグへ至る街道の分岐点に、2は三位一体修道会の西に、3つ目は村から少し離れたところにあってロンキエ風車と呼ばれていた。また船着き場から三位一体修道院の東を通り、Loowegの先まで遡る小さいが深い川(Bèque de la Trinité)があった。
 連合軍側から見て左翼と中央ではオスコットに向かって緩やかな上り坂となっており、防御側に有利だった。また左翼には垣根や溝、森があって視界を遮っており、中央も多くの溝があった。オスコットへつながる道の中で舗装されていたのは1本だけという。右翼は低い平野で、運河が氾濫させられていたため、接近するには半リューにわたって腰まで水につかりながら移動する必要があった。ベルトルミはこうした防御に有利な地形を見て、ここを攻撃するのは自分たちにとって自殺行為だと記している。一方、Ditfurthの結論は真逆。分断された地形では連合軍に優位がある騎兵を使うことができず、むしろフランス側にとって戦いやすい場所だったとしている(p487-490)。
 この地形に合わせ、連合軍はどう防御の準備をしていたのか。オスコット運河と氾濫原によって守られていた右翼は、特に対応は必要なかったようだ。中央ではカギを握っていたのは3つの風車だ。まず中央の右翼は船着き場を拠点とし、1番の風車がある丘に大砲2門で武装した堡塁を築いた。この陣地はワルム方面(西方)からの街道を一掃することができたという。
 中央の中央もまた、風車のある丘に防壁を築き、大砲8門と曲射砲4門からなる砲台を設置した。また道路上には溝を掘り胸壁を築いて敵の進路を塞いでいた。砲台からは南方の接近路を射撃することができたそうで、フランス側の記録もこの砲台について言及しているものが多い。砲台の背後にある家々については手を付けずそのまま残していたほか、前方100トワーズのところにあった垣根なども引き倒さずに放置していた。
 中央の左翼には6門の大砲が配置された砲台が存在し、これはおそらくロンキエ風車のところにあった。また地元に伝わる話だと、牧草地には塹壕が掘られ、各防御拠点をつないでいたという。またフールネへ向かう街道上には城と呼ばれる施設があったが、実際にはこれは単なる住居にすぎず、防御機能はほんとんどなかったようだ(p490-492)。
 連合軍の右翼は上にも書いた通りディーペンブロイク旅団が布陣した。中央のコヒェンハウゼン旅団は大きく3つのセクターに分かれ、1番の風車付近に展開した右セクターにはビーゼンロート大佐率いる歩兵半個大隊と大砲4門(砲台の2門含む)が、2番の風車付近にいた中央セクターには歩兵3個大隊半と大砲18門(砲台12門含む)、エトワール交差点まで延びる左セクターには歩兵1個大隊半と大砲10門(砲台6門含む)が布陣した。
 左翼はエトワール交差点からレイセレ村の庭まで、Loowegと平行にハマーシュタイン旅団が布陣した。そして予備は3つのグループに分かれ、右翼の背後トロワ=ロワ、中央の背後ストラバン教会、そして左翼の背後にあたるレイセレ村の背後に展開した。荷物は以前述べたとおり、7日のうちにフールネに戻されていた一方、追加の弾薬は8日朝、戦いが始まった時に到着した(p492-494)。

 9月8日午前3時、フランス軍は動き始めた。右翼のコロー旅団はルースブルッヘからベフェレンを経由し、国境沿いにオスコットへと向かった。彼らの部隊はベフェレン近くのモンカレー風車で激しい戦闘に巻き込まれ、多くの死者を出したという話が伝わっているのだが、Léviによるとその裏付けは見つけられなかったそうだ。ウシャールが同行していたジュールダン師団はオスト=カッペル西方のサン=シュマンとキレムリンドを経てオスコット南方の五叉路に到着した。
 ヴァンダンム旅団は午前4時に動き出した。キレムから左翼をレ=モエレまで延伸させ、ジュールダン師団の左翼からオスコットへ接近した。ルクレール師団はコルム運河沿いに前進を始めるべく砲声が聞こえるのを待った。一方、エドゥーヴィユはX旅団とともに戦場に背中を向けてベルグへと進み、ランドラン師団もベルグとメゾン=ブランシュへ向かった。真っ先にオスコットの正面に姿を見せたのはジュールダンとヴァンダンムの約1万4000人だけだったが、連合軍はもっと大勢いるものと判断した(p494-495)。
 午前7時、五叉路にたどり着いたジュールダン師団は、コロー旅団の到着を待つため、また何らかの罠があることを警戒して足を止めた。フランス側は偵察を行い、連合軍が前哨線を展開していないことを知ったが、オスコットに集まっている戦力については把握できなかったようだ。参謀長のベルトルミはまだ到着していないコロー旅団を探しに向かい、ウシャールは攻撃の準備を進め、コローが敵左翼(正確には中央の左翼)、ジュールダンが中央、ヴァンダンムが右翼を攻める方針を決めた。基本的に正面からの攻撃であり、連合軍の退路を断つよう東側で機動するような計画ではなかった。
 連合軍側では、午前8時にヴァルモーデンの幕僚たちがオスコット正面に展開しているフランス軍の数について、歩兵20個大隊にのぼることを確認した。同時にコルム運河沿いに連合軍右翼に接近してくる縦隊の存在も確認された。この部隊はルクレール師団であろう(p496-498)。

 かくしてオスコット村での本格的な戦いが始まるのだが、この戦いに関する一次史料は正直言ってかなり混乱している。特に派遣議員ルヴァスールとデルブレルの残した史料は、他の軍人たちの証言に比べて相当に矛盾している。そもそも本職の軍人ではない彼らの残した戦闘行為に関する記録がどこまで当てになるか分からないうえ、その証言内容はかなり政治的な意図を含んだものだと思われるため、額面通りに受け取るのはおそらく拙いのだろう。
 もちろん、軍人たちの言うことが絶対に正しいという保証はない。むしろ彼らの言い分は信じられないことも多いと、個人的にはそう思っているくらいだ。それでも、時系列で見て何がどんな順番で起きたかを知るうえでは、ウシャールやゲイ=ヴェルノン、ルクレールらの証言と、加えて連合軍側の記録を照らし合わせるのがおそらく最も確実な方法なのだろう。
 Léviはこの戦いについて一次史料から大量の引用を載せているが、一方で彼自身がまとめた戦闘の経緯をごく短くだが紹介もしている。見たところ、どのような戦闘経緯をたどったかについての彼の解釈も、おそらく上に述べた原則に従っているようだ。というわけで次回以降は、Léviによる戦闘経過のまとめを基本に置きつつ、当事者の残した史料についても触れるといった感じでこの戦いを紹介しよう。
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