オスコットの戦い最終日であり、実際にオスコットを巡る戦いが行われた1793年9月8日、日曜日の状況について、Léviの
La défense nationale dans le Nord en 1793 (Hondschoote) ではまずフランス軍のうち戦場に到達可能だった戦力を数え上げるところから始めている。作戦開始から2日間、バイユールを全く動こうとしなかったデュメニー師団は、この時点で参加は事実上不可能となっていた。両地点間の距離は30キロを超えており、新兵の多かったこの時期のフランス軍が遅滞なく進んで戦闘に参加するのは確かに難しかっただろう。
だが残る部隊、つまりルースブルッヘのコロー旅団、レクスプードのX旅団(エドゥーヴィユ指揮)、キレムのヴァンダンム旅団、エルゼールのジュールダン師団と騎兵予備、ウォルムートのランドラン師団、そしてメゾン=ブランシュからベンティムレンにかけて展開していたルクレール師団は、この日の戦闘に参加可能な範囲にいた(
Topographic map of France (1836) 参照)。にもかかわらず、これらの戦力のうちエドゥーヴィユ直率のX旅団とランドラン師団は、司令官の判断で戦場とは無関係の場所へと移動することになった。
この戦力は合わせて歩兵約40個大隊、騎兵20個大隊となり、全体の兵数は2万1600人、大砲は90門に達していたという。デルブレルは2万2000人、ゲイ=ヴェルノンは2万1000人未満、ベルトルミは1万8000人、ウシャールは1万6000人という数字を挙げているが、後者2人はおそらくルクレール師団を計算に入れておらず、その場合は戦力は1万7600人だと推計されている。フランス軍はこの攻撃のためにモーゼル方面から兵を引き抜き、約5万人を集めたのだが、その大半は関係ないところに投入されていたことが分かる(p478-479)。
一方、連合軍側の監視軍は、イープルにいたザリス大佐の小規模な部隊を除き、オスコット周辺に全て集結していた。戦闘序列は以下の通りだ。
1)オーストリア軍前衛部隊(ファブリ) 騎兵3個大隊 歩兵2個大隊 大砲4門
2)包囲軍から派出されたヘッセン旅団(コヒェンハウゼン) 騎兵5個大隊 歩兵2個大隊 大砲4門
3)ハノーファー師団(ブッシュ) 騎兵16個大隊[ママ] 歩兵15個大隊 大砲30門
4)ハノーファー騎兵予備(ビエラ) 騎兵10個大隊
5)ハノーファー砲兵予備 大砲38門
このうちブッシュ師団は以下の4部隊で構成されていた。
a)擲弾兵部隊 歩兵3個大隊 大砲6門
b)ディーペンブロイク旅団 歩兵6個大隊 大砲12門
c)ハンマーシュタイン旅団 歩兵6個大隊 大砲12門
d)オインハウゼン旅団 騎兵6個大隊
砲兵予備は軽砲兵が6門、重砲兵が32門あった。歩兵1個大隊の戦力はフランス軍が平均450人で連合軍は500人、騎兵1個大隊はフランス軍が平均120人、連合軍が100人だったそうで、連合軍の戦力は1万3000人、うち歩兵が9000人、大砲が76門だった(p479-481)。フランス軍がかなり戦力を分散させ、一方で連合軍の監視軍はほとんどの戦力を集中させたにもかかわらず、オスコットの戦場では前者の方が数で勝っていたことが分かる。
8日の作戦行動についてはウシャールが立案した。ルヴァスールは彼の過去の指揮を散々非難したが、作戦立案の場では席を外していたという。既にこの時点で、派遣議員が作戦立案に介入し、それの実行を将軍たちに強いているという批判があったためだそうで、彼らの権力は決して圧倒的なものではなかったのかもしれない。一方、デルブレルはダンケルクの攻囲を解くためにはフランス軍主力がフールネに向かう必要があり、その途上にあるオスコットを奪わなければならないと書いており、結局のところ派遣議員たちは将軍に攻撃を強いたと結論づけられている(p481-482)。
これを受けてウシャールが7日午後6時に発した命令は以下の通り。コロー旅団は敵陣を偵察する目的でルースブルッヘからオスコットへ向かう。ジュールダン師団はバンベック経由でオスコットへ進み、ヴァンダンム旅団はキレムからオスコットの左翼へと移動。ルクレールの縦隊はベルグの東から運河に沿ってオスコットへ進み、ヴァンダンムと連携する。エドゥーヴィユとX旅団はレクスプードからベルグへと進み、最後にランドラン師団はウォルムートからダンケルク救援へと向かう。
ルクレールに対する具体的な命令は2回出されている。ベルトルミが署名している1つ目の命令は7日にエルゼールから発せられ、同日中にルクレールが受け取った。主力が8日の午前7時から戦闘を開始することを伝え、前日の攻撃を繰り返して敵を主力部隊の方へと追いやるようルクレールに命じている。ただしこの命令ではウシャールが2つの縦隊をベルグとウィルデに向けて進ませると述べており、オスコット方面へ進むような命令にはなっていない。ランドランについての言及も多く、むしろウィルデとベルグの間で敵を挟み込むことを考えているように読める。
2つ目の命令はウシャールの名で夜の間に出されたもの。文章は短く、命令は「進め」というシンプルなものだが、ウシャールがオスコットへ向かうつもりであることは名言されている。ただしフランス軍の動き全体が分かるような説明にはなっておらず、受け取ったルクレールも相当に戸惑ったのではないかと思われる(p482-483)。
エドゥーヴィユに対する命令について、ゲイ=ヴェルノンは以下のように話している。7日夜の時点で彼に対しては、ウシャールが翌日オスコットへ向かうこと、エドゥーヴィユはベルグ方面で何が起きているか偵察すること、この方面に敵がいるかどうか分かるのは彼だけであり、状況を見たうえでどう行動するかはエドゥーヴィユに任されていること、ただしベルグ方面に向かわないと決めた場合はオスト=カッペルとレイセレの間に布陣することが伝えられた。
もしエドゥーヴィユが後者を選んでいれば、彼はレクスプードから東へ向かう途中で司令官や彼の師団と相談することができただろうし、また主力部隊がオスコットを攻撃している間に、連合軍左翼を圧倒してフールネへの退路に襲い掛かることが可能だった、とゲイ=ヴェルノンは記している。実際にはまずベルグ方面の偵察を命じられている時点で、彼の視点がこちらに向いてしまう確率は高くなっただろう。エドゥーヴィユにイニシアチブが欠けていたとしても、それを理由に彼に責任を負わせるのはちと厳しそうだ(p484-485)。
最後にランドラン師団についての言及もある。彼はダンケルク救援を命じられていたのだが、命令の内容はそんなに単純ではなかったそうだ。彼は2つの縦隊で移動することになっており、1つは直接ベルグへ、もう1つはウィルデ経由で進み、そして必要ならルクレール将軍と合流するよう命じられていた。だがランドランは自分への命令を簡略化し、単純にダンケルクへと進むことにしたのだという(p485)。フランス軍の最終目標がダンケルクの救出にあったのは確かだが、この行軍が妥当だったかと言われるとそうではないだろう。
いずれにせよフランス軍のうち一部の部隊のみが8日はオスコットに進むことになった。コロー旅団はルースブルッヘでアイザー河を北へと渡り、またジュールダン師団はバンベックの橋と渡し舟を使って北へ向かった。
フランス軍の一部が敵のいないベルグ方面に向かった理由は何か。この本の記述を見てもよく分からないが、いくつかの理由が考えられる。1つはまず、連合軍がオスコットに集結している情報がフランス側に届いていなかったこと。あるいは届く時間が遅れ、オスコットに全軍を集結するような命令を出す時間がなかった可能性もある。ウシャールを含めた軍司令部の事務処理に問題があり、うまく命令を送れなかったのが理由かもしれないし、あるいは各師団長が勝手に行動したのかもしれない。
もともと戦争には不確定要素がつきものだし、そうした「戦場の霧」はたとえナポレオンが指揮していたとしても完全に消えることはなかっただろう。それでもこうした不可解な行動の存在は、この時期のフランス軍の質や、18世紀的な戦い方に付随していた問題点を示す一例と言えるかもしれない。
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