前日はまったく動かなかったデュメニー師団は、この日も無為に過ごしたようだ。ポペリンヘのオーストリア軍2000人がイープルの守備隊に合流したため、イープルを奇襲で奪うことは不可能になっていたが、それでもフランス軍主力の右側面を守るため、ウシャールは再び5日の命令に従って行動するようデュメニーに命令を送った(p468)。
エドゥーヴィユ師団については関係者によって微妙に書いていることが違う。ヴァンダンムによれば彼の旅団は午前5時に出発し、既にエドゥーヴィユ師団の他の旅団によって敵が追い払われていたルースブルッヘでアイザー河を渡った。それからレクスプードまで進んだ彼はそこで足を止めて部隊が集まるのを待ち、それからウェスト=カッペルに進んで敵から23両の荷車と何人かの捕虜を奪った。さらに午後4時にはオスコットまで前進し、そこで敵と交戦したが、夜になって兵はキレムまで後退したという。
一方ゲイ=ヴェルノンによれば、ヴァンダンムは6日夕方にエドゥーヴィユと合流し、オスト=カッペルで夜を過ごしたことになっている。彼らはレクスプードへ進んで午後3時にここを奪い、ヴァルモーデンはキレムへと後退した。ウシャールによれば、午後になって砲声が聞こえたので確認すると、エドゥーヴィユがレクスプード方面で敵を攻撃し退却を強いていた。エドゥーヴィユは夕方に、自らの成功とヴァンダンムにオスコット近くまで追撃させたことを報告してきたという。
ルヴァスールは自分たちが退却した後にエドゥーヴィユがレクスプードに現れたことについて、口を極めてウシャールを罵っているのだが、エドゥーヴィユ師団の動向について伝える情報は少ない。デルブレルも、自分たちが退却した2時間後にオスト=カッペル方面から来たエドゥーヴィユの軍がレクスプードの部隊が敵を追い払ったとしか書いていない(p468-471)。
他の証言を見る限りヴァンダンムはエドゥーヴィユ師団と合流していたと思われるのだが、彼の報告書にはそうした発言が一切ない。また彼のみがレクスプードの後にウェスト=カッペルまで進み、それからオスコットへ移動したと記している。もしヴァンダンムの証言通りに行動していたなら、彼の部隊はいったんレクスプードを過ぎてウェスト=カッペルに移動し、それからまたレクスプードに戻ってさらにオスコットへと移動したとしか考えられないのだが、それはさすがに無駄な行軍のように思える。
一方、レクスプードが落ちた後にオスコットへ向かったのがおそらくヴァンダンム旅団だけだったことは確かだろう。エドゥーヴィユ自身がその後に何をしたのかは不明。また、そもそも彼らがどこでいつ合流したのかもよくわからない。加えて後に触れるが、コロー旅団はこの日は丸1日ルースブルッヘにとどまっていたようで、なぜ彼らが全く動かなかったかについても理由は不明だ。戦い2日目におけるこの師団の動向については、よく分からないことが多い。
一方、オスコットでの集結に向けて移動中だった連合軍は、まずヴァンゲンハイム(当初はベルグの南から東に展開していた)とダッヒェンハウゼン(バンベックにいた)の分遣隊が、夜の間にオスコットに到着。フライタークが指揮していたレクスプードの2個縦隊は午前8時頃に、ディーペンブロイク(エスケルベックにいた)は正午頃にたどり着き、午後になってハンマーシュタイン(ベルグの南から西に展開)もようやく到着したという。
レクスプードを奪回したフォン=ブッシュの部隊は夜明けにはそこを撤収しており、フランス軍がすぐに再び入り込んだ。退却した連合軍の中にはフランス軍を突破してきたものもいたようだ。ディーペンブロイク自身はいくつかの後衛部隊とともにキレムにいたが、そこも午後4時には追撃してきたフランス軍に攻撃された。彼は歩兵3個大隊で銃剣突撃を行ってこれを撃退し、大砲を3門奪った(ヴァンダンムの報告にこの話は載っていない)。うち2門はフールネへと持ち去られた。連合軍側の指揮を執っていたヴァルモーデンは荷物も後方に下げた(p472-473)。
一方のジュールダン師団はこの日を再編と休息に費やした。ウシャールによれば兵たちには食糧も何もなく、群れを成してカッセルへと逃げ出していたため、ウシャールはエルゼールへの退却を命じた。彼はエルゼールとウケルクの間で兵たちを野営させようとしたが、右翼の兵は敵に追撃されているという口実で退却を続けたそうだ。ベルトルミとデルブレルが彼らを押しとどめ、何とか連れ戻すことに成功。午後には補給も届き、ウシャールは翌日の前進に備えて準備をした。
ゲイ=ヴェルノンによれば、新兵中心の部隊では補給がらみで必要な措置が取られておらず、7日朝の時点では物資がほぼない状態だったそうだ。軍は苦労して2日分の食糧と150発の弾薬を兵士に用意させた。いずれにせよ、前日に連戦をした末に敗走したジュールダン師団が、2日目は何の役にも立たなかったのは事実のようだ(p473-474)。
ランドラン師団についてはこの日も積極的な動きは見せなかったようだ。彼らはウォルムートとエスケルベックを奪ったが、その際にウォルムートの村はかなり手酷く破壊されたという。また第8騎兵連隊は敵の追撃で60両の装備車両などを奪ったほか、英騎兵を一部捕虜にしたという(p475)。逆に言うと追撃に当たった騎兵以外はあまり激しい戦闘に巻き込まれた様子はない。
ルクレール師団についてだが、夜の間に銃声があったと午前7時に知らされた彼は城壁から敵を観察したが詳細な状況は分からなかったため、10時には再び打って出る決断をした。前日同様に2つの縦隊で出撃したフランス軍は、しかしほとんど抵抗に出会わないことに驚いた。注意深くメゾン=ブランシュに接近した彼らは、連合軍が既に退却したことを知り、急いで行軍を進めた。ルクレールは左翼の縦隊にも前進を命じた。
彼らが4分の1リューから半リュー(1~2キロ)前進した時に銃声が聞こえた。退却中だった連合軍に遭遇した彼らは、散兵を送り出して攻撃を試みた。これに連合軍の騎兵が抵抗。追撃戦がかなり長く続いたという。フランス軍左翼の縦隊は敵を砲撃し、ルクレールは兵たちが混乱の中で略奪に走るのを止めるのに苦労していた。やがて前進を続けたルクレール師団はレクスプードに接近し、そこをエドゥーヴィユ師団が占拠していることを知った。
ルクレールはレクスプード村に到着し、そこでエドゥーヴィユと話し合った。連合軍がオスコットへ退却していることに気づいた彼らは追撃を図ろうとしたが、既に夜が迫っていたためにこの日のうちに実行することはできなかった。ルクレールの右翼はメゾン=ブランシュ付近にとどまり、左翼はコルム運河沿いのベンティムレンにいた。ちなみに前日レクスプードからウシャールが出した命令が彼の下に届いたのは、彼が連合軍の装備をちょうど奪ったタイミングだった(p475-477)。
以上で2日目の動きは終わりだ。9月7日の終了時に、デュメニー師団は相変わらずバイユールにとどまって動いていなかった。コロー旅団は1日ルースブルッヘにとどまっていたようで、エドゥーヴィユはX旅団とともにレクスプードにいた。連合軍の追撃に当たったヴァンダンム旅団はキレム付近には到着していた。ジュールダン師団はエルゼールとウケルク間で再編と休息をしており、ランドラン師団はウォルムートとエスケルベックを奪った。ルクレール師団はメゾン=ブランシュからベンティムレンの間に展開していた。
連合軍はオスコットへの集結を完了し、そこに部隊を展開していた。具体的にはポン=ド=ラ=クロワ、オスコット、ライセレを正面とした戦線を敷いていたようだ(p477)。1836年の地図で言えば、ド=ラ=クロワ風車のあるあたりから、運河に沿ってオスコットまで、そこからさらに東に国境を越えた先まで戦線を延ばしていたという格好になる。
見ての通り、2日目は大きな交戦のない中休みのような時間だった。連合軍はオスコットへの集結を最優先にしており、フランス軍は前日の混乱から再編に集中していたジュールダン師団、余力があったため追撃に当たったエドゥーヴィユ師団(の一部)とルクレール師団、そして何もしなかったデュメニー師団とほとんど何もしなかったランドラン師団という形に対応が分かれた。各縦隊を指揮するリーダーの積極性により、それぞれの行動が極端に変わるという現象は、この日も続いていた格好だ。
そして翌8日がオスコットの戦いの最終日となる。
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