最近の
wokeism について記した
こちらの記事 が、
結構話題になっていた 。リベラリズムの皮をかぶっているが、キャンセルカルチャーのような手法は非常に反自由主義的である、という主張だ。中でも印象に残った言葉が若者たちのwokeism的な行動について「サッカーの試合を観戦して、選手たちは全て誇張した演技をしているだけなのか、それとも本当にそこまで繊細なのかを見極めようとしているホッケー選手」の気持ちになっている、という部分だろう。
スポーツに貴賤や優劣があるわけではないが、サッカーに比べてアイスホッケーの方がフィジカル度の高いスポーツであることは確かだろう(ヒースはカナダの学者なのでホッケーを例に挙げているが、アメリカの学者ならアメフトを取り上げたんじゃなかろうか)。ヒースはこのような譬えを使うことで、自分(X世代)の価値観と若者(Z世代)のそれとの間に存在する断絶を表現していたわけだ。そして、この「フィジカル」(及び
キャンセルカルチャー )という部分から、もしかしたら通底する問題を取り上げているのではないかと思える記事が最近になってネットにアップされた。
The new female ascendency だ。というわけでオスコットの戦いは1回休み。
記事のテーマはシンプル。Turchinの言うエリート過剰生産とエリート内競争が事実なのだとしても、足元で増えているエリートは歴史的に見て過去と違う大きな特徴がある。女性の方が男性より多いのだ。こうした違いは、エリート内競争にいったいどのような影響を及ぼすのだろうか。
米国では大卒の男女割合でずっと以前から女性の方が多数派になっている。記事によれば1978年以来、
こちら のグラフだと1981年以来、男性より女性の方が「あらゆる大学の学位」を取る割合で上回っており、足元では既に6割以上が女性となっている。記事中では近い将来に「男性1人に対して女性2人」にまで格差が広まると予想しているほどだ。つまり、知識の価値が高まっている現代社会において、米国の男性は既に40年にわたって負け続けていることになる。
競争のやり方において男性と女性には違いがある、という学者の話が記事中では紹介されている。それによると少女の間における競争では、「他者の目標に対する直接的な干渉の回避、競争の偽装、コミュニティ内の高い地位からのみの公然たる競争、女性コミュニティ内での平等の強要、そして他者の社会的排除」といった戦略が採用されるのだそうだ。そしてもちろん、男性に比べてフィジカル(物理的)な力を使った競争に至る割合はずっと低い。
そして、こうした女性の持つ競争の特徴は、既に米国の社会生活の中に足跡を刻印しているのではないか、と記事は指摘する。具体的にはヒエラルキーの減少と平等の強制、そして社会的
オストラシズム(陶片追放) の活用だ。記事中では繰り返し「相関は因果を意味しない」と注意喚起をしたうえではあるが、少女間の競争に存在している特徴が社会の各所に見られることを紹介している。
例えばある地位に就いた直後に、その人物の過去の「不適切な発言」が表沙汰になり、結果としてその人物はせっかく得た地位を失うという展開。まさにキャンセルカルチャーなのだが、これなどは「社会的排除」を戦略として使ってきた少女の競争手法と似ている。一方でヒエラルキーのピラミッドを平らにする(つまり平等の強要)という取り組みも増えているそうで、例えば米国の大学では管理者が持つ平均的な部下の数が20年ちょっとの間に40%も減った。
さらに面白いのはそうした変化の中で、より「女性向き」と思える仕事が増える一方、「男性向き」の仕事が減っているという現象だ。ヒースの文章にもあったように米国の大学では若者のwokeism的な抗議活動が広がっているが、そうした抗議の中でよく要求されるのが「多様性についての研修と文化センターの設置」であり、それに応じて求められる仕事は多くが女性向きだそうだ。記事中ではこれについて
Self-licking ice cream cone (それ自体を維持する以外に目的のない自己永続的なシステム)と表現している。
そうやって女性向けの仕事(例えば71%を女性が占めている
HR など)が増える一方、男性比率の高い男性向けの仕事(作業員、保守、警備)は増えていない。いやそれどころか、この手のマニュアル仕事の市場は縮小しており、大卒が求められるようなスキルの必要な仕事が増えているのが現状だ。そして大卒割合は男性より女性の方が高い。米国ではトータルで見て女性の方がいい仕事にありつける可能性が高く、男性の中には仕事という意味で追い詰められている者が増えている。
一方、どの社会にも見られる「女性の上方婚指向」は、別にアメリカでも変わってはいない。女性の方が男性よりパートナー候補の経済力をシビアに見積もるのはあらゆる社会で共通しており、それはおそらく進化的な適応なのだろう。結果、日本でもそうだが、米国でも学歴の高い女性と低い男性はなかなか結婚相手が見つからなくなっており、そして
若い男性のうち未婚者の割合が米国でも上昇している 。独りぼっちで不満を抱えた両性が互いに非難しあう不幸な社会が到来したわけだ。
一方、エリート内競争の主役が女性になれば、Turchinが予想したような
「死者数の大幅増を伴う社会的政治的不安定性の上昇」 には至らない可能性も想定できる。動乱をもたらすためには対抗エリートが困窮する大衆を扇動する必要があるのだが、エリートが女性の場合フィジカルに訴える手はあまり使わないのでは、という理屈だ。それこそキャンセルカルチャーのような、もっと回りくどい方法が多用される時代になるのかもしれない。
もちろんこの記事が正しいとは限らない。取り上げている事例もどことなく
チェリーピッキング っぽく見える。だが一方で、情報化の進んだ現代社会においては、知識とコミュニケーション能力がある方が適応しやすそうに思えるのも事実。おそらく
前者については遺伝 、
後者については性別 によって、生まれながらに格差が生じている。こうした格差はある程度は教育などで埋められるが、それでも残された格差はやがて社会課題として表面化する。
大卒の女性割合増加も、そうした格差が表に出てきた一例だろう。米国の6対4という比率ほど男女間で明確に知能格差があるかどうかは分からないが、知識を学ぶうえでコミュニケーション能力が一定の役割を果たすのであれば、両者に差が生まれるのも分からなくはない。それに、学歴を積んだ後で社会に出ると、今のような情報化社会においてコミュニケーション能力が果たす役割はさらに大きくなる。足元では
女性が長い進化の過程で手に入れた能力を生かしやすい方向へと急激に世の中が変化しており 、そのため一見すると女性にとって有利な社会が生まれてきたように見えるのだろう。
ではこれからどうなるのだろうか? ここから先は完全に妄想だが、いくつかのシナリオを考えてみよう。まずは男女間対立が破断界を迎える可能性。要するに
こちらのアニメ (の異星人)のような社会だが、ろくなクローン技術のない現状でこの展開はあり得ない。たとえどれほど不満を抱えていても男と女は互いに相手を全面否定することはできない。
従来の男女の価値観を完全にひっくり返すという方法はありだろうか。例えば女が外で働き、男が家事を担うという社会だが、個人的には難しいと思う。上で紹介した記事にもあるように、例えば女性の上方婚に進化的背景があるのだとしたら、それが変わるためには進化論的なスケールの時間を必要とするはず。記事中ではmillennia、つまり数千年としているが、実際には数百万年かかっても不思議はない。足元ほんの100年未満の変化が、それだけ長く続くかどうかと言われると、正直怪しい。
もっとも進化がもっと短時間で起こる可能性はある。
こちら で触れたベリャーエフの実験では、キツネの家畜化に数十年で成功している。ヒトに直せばおそらく数百年といったタームだろう。そのくらいの期間なら今のような社会が続き、ヒトがそれに適応するよう進化する可能性はある。ただし、人為選択でなく自然選択でそこまで急激な変化が起きるかと言われると、個人的にはあまりそうは思わない。
より現実的には、男女の価値観などは変わらない一方、双方の現代社会への適応度に差が生じたことによって、今まさに生じているような変化が今後一段と強まることが考えられる。要するに高学歴の女性と低学歴の男性があぶれて結婚できなくなる度合いが高まり、少数の結婚相手を見つけられた高学歴男女とそれ以外との格差がさらに拡大するという展開だ。この中では競争(男性の場合は学歴競争、女性の場合は配偶者獲得競争)の敗者はそもそも子孫を残せないため、
世界人口については下方圧力が強くかかる 。
というわけで、個人的に今の流れが続く場合、以前に記した
「22世紀、世界文明崩壊」 という妄言が現実になるパターンが一番ありそうに見える。格差の拡大と人口減が組み合わさるわけだから、理屈としてはその方向に向かってもおかしくない。そして、例えば文明が石炭中心の時代まで遡れば、そこからはまた昔のような「コミュニケーションよりフィジカル」「力こそパワー」な時代に戻るんじゃなかろうか。知らんけど。
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