この引用の仕方は他の史料にも当てはまる可能性がある。つまり、この本に使われている引用文は、オリジナルそのものではなく、それをある程度切り張りしたものだと考えて読んだ方が安全なのかもしれない。さすがに意味が変わったりニュアンスが変化するような切り張りはしていないと思われるが、この本自体を一次史料集的に使うのにはおそらく適していない。いささか厄介な本だと思われる。
このレクスプードの戦いをもってLéviの本におけるジュールダン師団の6日の戦闘に関する記述は一段落し、次は彼らの左翼にいたランドラン師団の行動についての言及が始まる。改めて
Topographic map of France (1836) を参照しながら話を追った方がいいだろう。この師団はウォルムートとエスケルベックの2ヶ所で連合軍と戦闘を交えた。
ウォルムートへの前進にあたり、まずはクリトの風車(ゼルムゼールとルドランガムの間)で激しい戦闘があったそうだ。連合軍はそこからリーヴェルドへと後退したようで、この戦闘はあったとしてもウォルムート攻撃前の前哨戦のようなものだっただろう。ウォルムート正面に到着したランドランは、そこを砲撃するだけで十分だと判断し、本格的な攻撃はしなかった。結局、この方面の連合軍はランドランに気づかれないまま夜の間に退却に成功している(p463)。
ウォルムートの西方にあるエスケルベックの戦闘についてはフランス側には詳しい史料はないそうで、第5戦列の第2大隊が深刻な損害を受けたことなどしかわかっていない。連合軍側の記録によると、まずフランス軍はエスケルベックから8分の1マイルほど西にあるボナヴァンチュールの橋を奪った。だがディーペンブロイク将軍は歩兵と騎兵、及び大砲2門に支援された擲弾兵で攻勢に出て、敵の攻撃を止めたのみならず、橋を奪い返してフランス軍を1時間ほど追撃した。そのうえで彼らは元の陣地に戻った。なおこの辺は地形が分断されていたため騎兵は使いどころがあまりなかったようで、一部の兵は下馬して戦ったそうだ(p464-465)。
最後に最左翼にいたルクレールだ。彼は6日の午前2時にベルグに到着した。命じていた部隊もすべて到着していたそうで、彼は午前6時にいつでも戦闘できるよう兵を準備させた。だがそれから正午まで、ルクレール師団は動かなかった。ルースブルッヘとウォルムートへの攻撃がはっきり確認されるのを待ったうえで、連合軍監視部隊の背後に対する攻撃を始めるつもりだったからだ。しかしいつまでもそうした動きが見えなかったのにしびれを切らしたのか、ルクレールは2つの攻撃縦隊を編成し、ベルグから東へ向けて出撃した。
左翼の縦隊はバンティ=ムレン(バントル=ムレン)の塹壕を掘った敵陣を攻撃したが、敵はそこで頑強に抵抗した。右翼縦隊はメゾン=ブランシュ方面に攻撃を差し向けた。これら攻撃部隊の右側面は町から4分の1リューほどの距離まであふれた水でカバーされており、そちらに警戒する必要はなかったという。引き続きルースブルッヘやウォルムートからの砲声は聞こえなかったが、午後3時にはダンケルク方面からの砲声は聞こえてきた。
右翼では少しずつ敵を押し込んでいたが、この方面は前進するほど側面が晒されていった。夕方5時にかけて敵の縦隊が右翼へ向けて移動してきたため、ルクレールはこの方面の部隊を2時間半以上かけてベルグまで後退させた。味方は4門しか大砲がなく、敵の多数の大砲で多くの兵に損害が出た。午後8時頃にはルクレールもベルグに戻り、一部の部隊をダンケルクに増援として送った(p465-466)。
ただしこの攻撃は連合軍側からは弱々しいものと認識されていたようだ。彼らは夕方にメゾン=ブランシュに兵を集め、それからオスコットへの退却を始めた。Léviは、この動きこそがルクレールを恐れさせ、ベルグへの退却を決断させたのだろうと指摘している。ルクレールは実際にはメゾン=ブランシュよりもベルグに近い位置にあったメゾン=ルージュ付近までしか前進しなかったという(p466-467)。
以上で6日の戦いについての記述は終わりだ。この日が終わった時点でのフランス軍の位置については以下のように記されている。デュメニー師団はバイユールから移動せず、ヴァンダンム旅団はプロフェンに、エドゥーヴィユ師団の主力はオスト=カッペルにいた。ジュールダン師団はエルゼールまで引き下がったと書かれているが、これは次回紹介するウシャールの証言によるもの。ランドラン師団はウォルムート南方にとどまり、ルクレール師団はベルグにいた。一方、連合軍の監視部隊はオスコットに集結しており、後衛部隊がキレムにいた(p467)。
オスコットの戦いのうち、9月6日の一連の戦闘はコルドンと多数の縦隊を使う18世紀の戦闘にありがちな展開をもたらした、と考えていいだろう。その内容は一言でいえば混沌だ。両軍ともバラバラに展開した多数の部隊が個々の戦場で個別に戦いを展開し、時にはそれが他の部隊に妙な影響を及ぼす。双方の司令官のどちらも自軍の全体の状況どころか、ごく近くで何が起きているかすら十分に把握しているとは言い難く、結果として戦況全体をコントロールする能力はほぼ失っている。
典型はフライタークが夜間行軍中にフランス軍の捕虜になってしまった例だろう。レクスプードまでフランス軍が進出しているという事実すら把握していなかったからこそ、彼は何の不安もなしに縦隊の先頭を移動し、真っ先にフランス軍の哨戒線に突っ込んでいった。結局、この戦闘で負傷した彼は、以後この戦役で部隊を指揮することはできなくなった。本来ならフランス軍と戦う連合軍の司令官という位置にいたはずの人物が、このような不注意で脱落したのは大問題だろう。
ウシャールにしても、それほど威張れる状況ではない。彼自身と派遣議員もレクスプードで連合軍の奇襲を受け危うく捕まりかけたわけで、フライタークとの違いはほんの少し運に恵まれていただけかもしれない。そもそも彼の意思に反して軍がレクスプードまで前進したのを見ても、彼は司令官にもかかわらず全軍の行動をきちんと決定できるだけの権限を実際は持っていなかったようだ。たとえ権限を持っていたとしても、エルヌフの助言でジュールダン師団の進軍方向を変えてしまった例もあり、決断力がどこまであったのか怪しい面もある。
そして彼ら以外の指揮官たちは、さらに好き勝手に行動していたように見える。最も極端なのはフランス側のデュメニーで、彼は文書での命令がなかったという理由で軍事行動を拒否した。ルクレールのようにやたら積極的に動いたものがいた一方、ランドランのように命令の範囲を一歩も出ず、敵が夜間に退却したことにすら気づいた様子すらない指揮官もいた。
もともと18世紀的な戦争は、こうした個別部隊の指揮官の判断が大きく影響を及ぼすような構造をしている。フランス側の各師団に与えられていた命令は数日先まで見越したかなり細かいものであり、彼らはその命令を頼りに細かいことは自分で判断して行動している。相互に連絡が取りにくく、司令官も新しい命令を容易には出せないのだから、それも仕方ないように見える。だが実際には状況は刻々と変わっている。命令と状況の齟齬は時間とともに拡大し、各部隊の行動は時とともに混沌へと落ち込んでいく。
そうした18世紀的戦争の分かりやすい例の1つが
メスキルヒの戦い だろう。あるいはボナパルト将軍も巻き込まれた
カスティリオーネ戦役 を挙げてもいいかもしれない。双方ともきちんと計算して動いたはずなのに、実際には各部隊の行動が錯綜し、戦況が混乱に陥り、どちらにとっても予想していない事態が生じる。傍から見ている分にはとても面白いが、司令官にとっては無力感と苛立ちが募る展開だったのではないか。
ウシャールはそうした戦い方を前提に作戦計画を立てたようにしか見えないし、フライタークはそのリスクを前提にコルドンを敷いていたのだろう。だから両者ともにこの混沌とした戦場をもたらした責任を負うべき立場にある。というか、その程度の混乱は彼らキャリア軍人たちから見れば、もしかしたら当然の前提だったのかもしれない。ナポレオンのように状況をできるだけ把握しようと常軌を逸した努力をする方がおかしいのであり、大半の軍人にとって戦場とは「大半が霧で、時折僅かに何かが見えるだけ」が当たり前だったのではなかろうか。
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