オスコットの戦い 5

 LéviのLa défense nationale dans le Nord en 1793 (Hondschoote)によると、ウシャールはバンベックの勝利で9月6日の戦いを終わらせようとしていた。雨はまだ酷く降っていたし、兵は疲れ切っていた。確かに敵はレクスプードへと退却していたが、夜間にそこへと行軍するのはリスクが大きかった。暗闇のために兵は上手く配置できず、敵はフランス軍を挟むようにウィルデとオスコットに展開していた。またフランス側は地形もよく知らなかった(Topographic map of France (1836)参照)。
 だが兵たちや士官、幕僚たちはまだ敵を追撃する熱意を示しており、そして何より派遣議員のルヴァスールとデルブレルが前進を望んでいた。ジュールダン師団はかくしてバンベックからレクスプードまでの4~5キロをさらに前進することが決められ、フランス軍はそこに到着した。連合軍は何の抵抗も見せなかった。既に夜であり、兵たちは村の家々に散らばって雨を避け食事を始めた。ウシャールはエルヌフとともに兵を配置につけたが、ウシャールはなお懸念を抱いていたようで、彼はそう派遣議員に訴えた。
 彼の心配は的中した。午後10時、左翼と正面のキレム方面から接近してきた連合軍が、突如として攻撃を始めた。兵たちは恐怖に捕らわれ、ウシャール将軍と派遣議員たち、そして全幕僚は危うく捕虜になりかけたという(p449-450)。
 もう少し詳細に見ると、フランス軍の主要な野営地は村の南方300歩のところにあり、3方向を騎兵の分遣隊にカバーされていた。歩兵3個大隊と、その予備となった騎兵2個大隊がレクスプード村を守っており、彼らは墓地と空き地の大きな焚火を囲んで野営していた。しかしこの3個大隊は前方については守っていなかったようで、それが奇襲を受ける原因になったようだ。
 それでもウシャールらは最初の攻撃から立ち直った。彼は8ポンド砲2門を前進させ、突撃を命じ、攻撃を受けている地点に増援を送った。さらにオスト=カッペルまで到達していたエドゥーヴィユ将軍に増援を送るよう命令も送った。7日午前1時、敵の攻撃はスローダウンし、彼らは後退していった。前進させた大砲2門は砲座から外れたそうで、この大砲を引き揚げさせるために彼はエルヌフと擲弾兵2個中隊を送り出した。
 ウシャールは敵が再び攻撃を仕掛けてくると確信し、弾薬箱や大砲を村の背後、バンベックへの街道上まで後退させた。実際、午前3時頃には連合軍がさらに激しい攻撃を行い、村に突入して兵を壊走させた。フランス軍はバンベックまで退却したが、連合軍の追撃はなかったという(p450-451)。
 ここまでウシャールが述べた経緯は、ゲイ=ヴェルノンの説明とおおよそ一致している。彼もバンベックからレクスプードまで前進することには反対だったが、派遣議員の強い主張の前には司令官といえども抵抗できなかったとしている(p451-452)。一方、派遣議員のルヴァスールはウシャールの能力不足を手厳しく批判している。彼によれば夜間の戦闘は勝ち負けの結果が出ないものだったにもかかわらず、午前4時にウシャールが後退を命じたことになっている。彼はバンベックからさらにエルゼールまで下がろうとしていたそうで、「恐怖でパニックに陥っていた」ことになる(p452-453)。
 ウシャールへの不信感ばかりが書かれているルヴァスールの文章に比べ、彼の同僚であるデルブレルの文章はもう少し冷静だ。午後7時にレクスプード村に到着し、部隊配置を終えた首脳部は、村のある家の中で一息入れて食事をしていた。彼らは真夜中に奇襲を受けたが、かろうじて馬に乗って脱出し、村の外に野営していた師団主力との合流に成功。夜間の混乱した戦闘においては英軍の方が有利であり、1時間強の戦闘で彼らはレクスプードの放棄を強いられたという。兵の一部は壊走したそうで、デルブレルは参謀長ベルトルミの助けを得てそれらを何とか回復させたという(p454-455)。

 フランス側にとってかなりの混乱だったレクスプードの戦いだが、連合軍側も混乱ぶりは深刻だった。この日、フランス軍の攻撃が始まったのを知った連合軍のフライタークは、支援が到着するまで配下の部隊をオスコットに集めて抵抗する方針を決定。コルドンを形成していた左翼だけでなく、ベルグを半包囲していた右翼に対しても後退を命じた。フライターク自身は手元の兵とともに、夜を待ってレクスプード経由でオスコットまで後退しようとしていた。だがかれは前者の村に敵が入り込んでいたのには気づいていなかった。
 午後11時、連合軍は2つの縦隊で動き出した。騎兵や砲兵も含む一方はフライターク自身が指揮を執り、ウィルデを経てレクスプードへ向かった。フライタークは英国のアドルフ王子(後のケンブリッジ公)とともにこの部隊の先頭に立っていた。歩兵のみの他方はフォン=ブッシュ中将指揮下でウェスト=カッペル経由で移動した。またヴァルモーデンはウィルデに残り、後衛部隊の配置を行ったうえで、最初の縦隊の後を追った(p455-456)。
 この夜間行軍において、フライタークはある説によると護衛のみとともに部隊の先頭を移動していたという。別の説では弱体な前衛部隊がいたのだが、彼らは間違った道を取っていたことになり、また他の説だと前衛部隊はたった7人だったという。さらにある説によれば、フライタークはダッヒェンハウゼンからレクスプードを保持しているとの連絡を受けていたため、この村を通る際に特に警戒していなかったと言われている。実際にはダッヒェンハウゼンはその後で村が奪取されたと伝令を出したが、それはフライタークのところまで届いていなかった(p456-457)。
 いずれにせよ、レクスプードに接近した時、連合軍の先頭はフランス側の騎兵哨戒線の攻撃を受けた。彼らは護衛か前衛部隊を蹴散らし、フライタークとアドルフ王子、及び幕僚たちを取り囲んだ。別の説だとアドルフ王子は白兵戦を行ったことになるが、いずれにせよ彼らは両方ともその正体に気づかれないまま捕虜となった。フライタークは頭部を負傷しており、乗馬は溝で殺され、自身はレクスプードへ連れていかれた。アドルフ王子の方には縦隊の先頭にいた歩兵部隊が駆け付け、彼を解放した。その際の戦闘で連合軍の何人かの士官が死傷した。
 しかしさらに移動を続けようとしたこの歩兵部隊はフランス軍の反撃を受け、農地を渡って逃げ出した。そのタイミングで縦隊に追いついたのがヴァルモーデンだった。先頭にいた者たちからフランス軍との接触、及びフライタークが捕虜になったことを聞かされたヴァルモーデンは、この縦隊にいる少ない歩兵では敵を突破できないと判断。フォン=ブッシュが指揮する2つめの縦隊に合流してこれをまずベルグ街道へ移動させ、その道に沿ってレクスプードへと向かった。そしてフランス軍をこの村から追い出すべくフォン=ブッシュに攻撃を命じた(p457-459)。
 ブッシュはレクスプードから少し離れたところで、墓地の焚火の周りにいるフランス兵を指さし、兵を鼓舞して攻撃を命じた。少しの射撃と散弾砲撃の後で連合軍の擲弾兵は銃剣を構えてレクスプードを強襲した。左翼から攻撃してきていた連合軍の縦隊と対峙していたフランス軍は、正面から現れた新たな兵の登場に驚き、一部の兵はオスト=カッペル方面へと逃げ出した。これによってオスコットへの道が開かれ、連合軍はその方面への移動を再開した。さらにフライタークもこの攻撃時に救出された(p459-460)。
 頭部を負傷した時、フライタークはまず近くの焚火に接近したが、そこにフランス兵がいたのに気づいて逃げ出し、近くのテントに入った。だがそれは友軍のテントではなく、彼はフランス軍の手に落ちた。そのままレクスプードへと連れていかれたが、年老いて白髪を血に染めた軍人は、護衛の兵士たちからは尊敬の念で扱われたようだ。それでも1人が彼に財布を寄こせと言い出したが、フライタークが投げてよこした財布に大金の金貨が入っているのを見ると、多すぎるといってこれを返した。フライタークはユサールが野営しているところにある家に閉じ込められ、アームチェアに座った彼の周囲には護衛が置かれた。
 やがてレクスプードは連合軍に強襲され、フライタークが閉じ込められた家にも彼らが入ってきた。護衛のフランス兵は6人おり、連合軍は彼らに襲い掛かろうとしたが、フライタークはそれを止め、この護衛の兵士たちは自分の捕虜だと認めさせた。かくして連合軍は監視部隊の司令官を取り戻すことに成功し、フランス軍は逆に大きな戦果を挙げる機会を失った。
 ヴァルモーデンは負傷したフライタークの代わりに統合した2つの縦隊の指揮を執り、オスコットへ向かった。フライタークは弾薬箱に乗せられて運ばれたという。ヴァルモーデンがレクスプードを占拠していたのは3時間ほどだった。ベルグからの部隊も同様に後退を行っており、そのうちの一部はレクスプード救出作戦に協力させられたという(p460-461)。
 長くなったので以下次回。
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