阿蘭陀風説書1

 しばらく前、伊能忠敬がオランダ風説書を読んでいたという話が新聞に載っていた。しかもどうやらナポレオン戦争に関して書かれたものだったらしい。それは興味深い、という訳で日蘭学会、法政蘭学研究会編の「和蘭風説書集成」を図書館から借り出し、フランス革命からナポレオン戦争に関連する時期の記述を調べてみた。
 まず、風説書は基本的に年に1度書かれていたことが分かる。どうやら毎年やって来るオランダ船の情報を幕府に上げていた模様。脚注に「風説書ではヨーロッパの情報は翌年に大體屆いている」(和蘭風説書集成下巻 p95)とあるので、書かれているのは主に前年に起きた事件だと考えておけばいいだろう。
 注意すべきなのは、オランダ船が来訪しなかった年がある点。1791年と96年、そしてナポレオン戦争後半の1808年、10-12年、15年、16年がそうだ。その時期は欧州からの情報は遅れて到着したと考えられる。以上を踏まえて風説書の中身を詳細に見てみよう。

 革命が起きたのは1789年。情報は早くて1790年(寛政2年)の風説書に出てくる可能性があるのだが、実際にその年の風説書にある欧州関連情報は「去々年申上候リユス國爭論之儀ドイチ國と一致仕トルコ國と戰爭、今以平和不仕由及承申候」というものだけ。1787年にリユス國(ロシア)とオスマン帝国間で始まった戦争の話のみが紹介されている。この戦争には翌1788年にドイチ國(オーストリア)がロシア側に立って参戦している。1789年時点では戦争はまだ継続中(今以平和不仕)だったから、この情報自体は正確だ。
 ではなぜフランスの革命騒ぎは風説書に記されていないのだろうか。どうもこの時期の風説書を読むと基本的に紹介されているのは国際情勢が中心。フランス革命は確かに大事件だったかもしれないが、少なくとも1789年時点ではまだフランス国内の騒ぎにとどまっていた。それに革命騒ぎなら1787年にオランダ本国で、89年にベルギーでも起きている。敢えてフランス革命のみを取り上げて紹介するには及ばないと判断されたのかもしれない。
 1791年には船が来なかったので次の風説書は92年(寛政4年)。ここでも書かれているのはバルカンの戦争のみで、「連年申上候リユス國及トイチ國一致仕トルコ國戰爭平和不仕候段去々年申上候處、ドイチ國王死去仕候後、リユス・トルコ兩國今以平和不仕候由及承申候」とある。ここで死去したと言われているドイチ國王とは神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世のこと。彼の死去は1790年であり、本来なら91年の風説書でそれが伝えられてしかるべきだった。前年オランダ船が来なかった影響がこのようなところに現れている。なお、実際には91年8月にオーストリアとオスマン帝国は講和を結んでいるが、その話には触れられていない。理由は不明だ。
 1793年(寛政5年)の風説書は、フランス革命戦争(92年勃発)が伝わった可能性のある風説書であるために重要。一つずつ中身を見ていこう。
 最初にバルカンの戦争については「當時双方相引に相成候由本國より申越候」と講和が結ばれたことが書かれている。ロシアとオスマン帝国は92年1月に講和しているので、これも正確な情報と言っていいだろう。だが、なぜか正しいのはバルカンに関する話のみ。フランス革命戦争については奇妙な話ばかりが伝えられている。
 その一つが「ヱゲレス國とフランス國及合戰近國之儀に御座候に付不穩、阿蘭陀國專軍用仕候旨申越候」というヤツ。フランスが英国に宣戦布告したのは93年2月であり、この年の風説書で日本に伝わるには情報が新しすぎる。「和蘭風説書集成」の脚注は「フランス軍がネーデルランド[現ベルギー]に侵入し、イギリスの海上權に脅威となった」としているが、脅威となっただけで「及合戰」と書くものだろうか。それに、英国よりも先に対仏戦争に踏み切ったプロイセンとオーストリアについて全く触れていないのも謎。
 というより、この両国についてはもっと不思議な記述がある。それは「ブロイス國ドイチ國及戰爭候由本國より申越候」というものだ。脚注では「プロシヤとオーストリヤ兩國がフランス革命をおそれてフランスと開戰したが、兩國の一致を缺いたことを示す」と苦しい説明をしているが、それならまずプロイセンとオーストリアがフランスと「及戰爭候」ことを触れるべきだろう。何よりこの両国は戰爭に及んではいない。
 とにかく、風説書だけ読んでもフランス革命戦争の始まりがさっぱり理解できないことは間違いない。なぜここまで訳の分からない文章になったのか、不思議といえば不思議だ。

 長くなったので続きは後ほど。

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