まずフランス軍最右翼のデュメニー師団だが、実は彼らはこの日バイユールから動かなかった。ゲイ=ヴェルノンによれば、彼はヴァンダンムに命令を伝えるべく5日夕方に送り出した幕僚士官に対し、さらにデュメニーに対してもウシャールの意図を伝えるよう命じたという。文章にするより口頭の方が意図が伝わると考えたそうだが、デュメニーはこの命令に満足せず、言われたとおりに動こうとはしなかったそうだ(p439)。前回も述べた通り、彼の師団はヴァンダンム旅団と連携して行動することになっていたが、実際にはヴァンダンムは単独で作戦行動を実行した。
一方、この日に作戦を開始した各部隊は午前3時から移動を始めたという(p438)。デュメニー師団の左にいたエドゥーヴィユ将軍は、X旅団を率いてまずポペリンヘへと移動した。この地の守備隊はヴァンダンム旅団の動きを警戒して早々にイープルへと引き下がったため、彼らは予定より早くここを奪取。すぐにプロフェンへ転じ、ルースブルッヘに到着するとそこでアイザー河を渡り、午後9時にはオスト=カッペルにまで到着した。ウシャールによれば、彼らほど素早く移動した縦隊はなかったという(p439-440)。なおLéviはこのポペリンヘでの戦いにおいて、敵前逃亡した3人について告発する文章を紹介している(p440-441)。この時期のフランス軍の規律を知る参考になるかもしれない。
続いてエドゥーヴィユ師団の左翼を構成していたコロー旅団だが、ゲイ=ヴェルノンによると彼らは午前7時にワトゥとウケルクを偵察した。この地は英連隊が指揮する2000人のオランダ=オーストリア軍が占拠していたそうだが、砲撃と射撃を浴びせた後に銃剣突撃で追い払われた。オーストリア軍はイープルへ、英軍とオランダ軍はエルゼールとバンベックに引き下がった。さらに彼らはプロフェンへ、それからルースブルッヘへ向かったが、エドゥーヴィユの後塵を拝したという(p441-442)。
エドゥーヴィユ師団の右翼を構成していたヴァンダンム旅団は、まずウェストゥトルを、さらにレニンヘルストを順番に奪った。前者は英軍50人、後者は英とハノーファー軍800人と大砲2門で守られていたが、どちらもフランス軍に撃退された。ヴァンダンムはさらにポペリンヘの東にあるフラマーティンヘとイープルの間を通ってプロフェンへと移動し、そこで夜を過ごした。右隣りのデュメニーが全く動かなかったにもかかわらず、ヴァンダンムはほぼ予定通りの行動をしたことになる(p442-443)。
以上、エドゥーヴィユの3個縦隊はいずれも計画とほとんど変わらぬ行動ができたが、フランス軍の主力であるジュールダン師団はそうはいかなかった。彼らのうち主力部隊はまずウケルクへ移動した。そこは既にコロー旅団が奪取していたため、ウシャールはこの部隊を続いてプロフェンへ移動させ、先行してオスト=カッペルへ進んだエドゥーヴィユ師団の後を追随させるつもりだったようだ。だがその時、参謀副官エルヌフ(
後にジュールダンの参謀長となる)がウシャールに声をかけた。
この地域について詳しいエルヌフはウシャールの案に対し、そちらへ移動するとジュールダンの主力部隊は背後(左側面)に敵を残すことになると指摘。その助言を受けたウシャールはジュールダンの主力7000人を左側のエルゼールに向かわせ、自身はコロー旅団とともにプロフェン方面へ移動した。彼はそこでコローにこの村を占拠するよう命じた後で、再びジュールダンの主力に合流すべく踵を返した(p443-444)。このウシャールの命令をきっかけに、ジュールダンの主力はこの日のうちに複数個所での連戦を強いられることになる。
ジュールダン主力が向かったエルゼール方面には、そもそもジュールダン師団のうちのメンゴー旅団が朝から進軍していた。だが彼らは連合軍の反撃を受けて苦戦していたようだ。この地に展開していたプルシェンク大佐の分遣隊はフランス軍の動きを止めるのみならず、攻勢に出てウィヌゼールの森まで到着し、大砲を奪った。
ジュールダンらの部隊が到着したのはこのタイミングだったという。新たなフランス軍の攻撃に対して連合軍はかなり抵抗したようで、エルゼールの村は2回にわたって奪取し再奪取された。ウシャールによればフランス軍は銃剣突撃を行って4000人の連合軍をここから追い払ったという。またルクルブがこの戦いで敵の退路を断ったという報告もあるようだ(p444-445)。
連合軍側の記録によると、プルシェンク大佐はウケルク方面からフランス軍が来るのを見た時点で退却を決断していたという。この新たな敵に対してラウドンファートの2個中隊が足止めに差し向けられた一方、ウィヌゼールの森まで進出していたヘッセン猟兵はエルゼール正面の風車がある丘までゆっくり後退した。彼らはそのままエルゼール村の南端を夕方まで守ったという。
村があらゆる方角から包囲されそうになったところでついにプルシェンクは後退を命じた。彼らはバンベックへ至る堤防を下がっていった。ただラウドンファートの中隊は上流に位置する森の中へ押され、多くの兵と大砲1門を失った。また騎兵もバンベックの橋までに道を突破するために多くの損害を出したという。かくしてプルシェンクの分遣隊はバンベックにいたダッヒェンハウゼンの分遣隊と合流した(p445-446)。
ジュールダン師団と再合流した司令官のウシャールは、さらに連合軍を追撃しようとした。ゲイ=ヴェルノンによると、アイザー北岸に撤収した連合軍はこの河にかかる石橋を逆茂木付きの突角堡で守り、そこに3ポンド砲3門を配備していた。また対岸にはこの陣地の側面を守るように2つの小口径砲の砲台が設置されており、フランス軍の渡河に対して抵抗する準備をしていた。フランス軍は敵陣を偵察し、前哨線を後退させ、敵陣を8ポンド砲2門で叩いた。
ところがこの時、急に激しい雨が降ってきたという。豪雨は2時間続き、フランス軍の攻撃は停滞した。兵士の弾薬が欠乏してきたのを知ったウシャールは、参謀長ベルトルミや派遣議員の助言に従い、銃剣でこの陣地を奪うことを決めた。雨が小やみになったところで1個大隊がバンベック上流で浅瀬を渡り、敵の側面に襲い掛かった。同時に橋頭堡にも攻撃が行われ、圧力を受けた敵はその陣地を放棄し混乱してレクスプードへと後退していった(p446-448)。
連合軍側の記録によると、アイザーの橋を守ったのはカステン大尉だった。またバンベック下流のクリュストレトでも連合軍は抵抗を夕方まで続けたが、左翼から来たフランス軍縦隊の圧力により、まずはクリュストレトの分遣隊が、続いてバンベックの部隊が相次いでレクスプードへの後退を強いられたという。フランス側はバンベックの上流(つまり西側)から回り込んだとしているのに対し、連合軍側の記録だと下流(東側)から回り込まれたことになっており、双方が矛盾している。いずれにせよこの戦いもまたフランス軍の勝利に終わり、連合軍ではプルシェンク大佐らが負傷した(p448)。
ウシャールによるとフランス軍がバンベックを奪ったのは午後5時半、ベルトルミによれば午後6時だそうだ。その前に豪雨による中断が2時間あり、さらにその前に連合軍の陣地に対する砲撃が1時間行われた(p447)とあるので、この戦闘は遅くとも午後3時には始まっていたと思われる。だとすればその前のエルゼールの戦いは正午前後に行なわれたと考えていいだろう。
ジュールダン師団主力が出発したカッセル北方からウケルクまでは約10キロ、そこからエルゼールまでは約5キロある。時速2.5キロで移動したとすれば、移動にかかった時間は6時間。そしてエルゼールからバンベックまでは2キロ強しかない。この日の行軍を開始したのが午前3時だとすれば、途中エルゼールで数時間の戦闘を行ったとしても、午後3時以前にアイザー河に架かる橋への攻撃を始めるのに十分間に合う計算だ。
一方、この時点で時刻は夕方になっており、また兵はここまで15時間にわたって行軍と戦闘を交互に続けてきた計算となる。雨は引き続き降っていたようで、兵の疲労も考えたウシャールは、バンベックを奪ったところでこの日の作戦行動を終わらせたいと考えていた。だが恐怖政治真っただ中のこの時期に、軍人の慎重な判断は必ずしも常に受け入れられたわけではなかった。フランス軍はここからさらにこの日の作戦行動を継続することになるのだが、長くなったので以下次回。
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