オスコットの戦い 3

 オスコットの戦いの続き。LéviのLa défense nationale dans le Nord en 1793 (Hondschoote)では連合軍側の配置について述べた後で、両軍の作戦について言及している。これまたTopographic map of France (1836)を参照しながら確認してみよう。まずはフランス軍だ。
 最右翼のデュメニー師団は、バイユール(カッセル南東)から北東のイープルへと向かうことになっていた。キュスティーヌ(ウシャールの前の北方軍司令官)とウシャールの作戦について回想録を記したゲイ=ヴェルノンによると、彼はまずヴァンダンム旅団を先行させたうえでレニンヘルストまで彼らの後を追随し、そこから右に転じてイープルへ前進。この町とポペリンヘとの連絡を遮断し、さらに機会があればイープルを奪取することになっていた。一方、デュメニー自身はイープルにいる敵と、メナンから来るかもしれない敵を牽制するのが役割だったという(p432)。
 彼らの左翼にいたエドゥーヴィユ師団に対しては旅団ごとに異なる命令が与えられていた。ステーンヴォールド(カッセル東方)に集まったコロー旅団はワトゥとウケルクの敵分遣隊を排除し、プロフェンへ移動し、それから左に転じてルースブルッヘの分遣隊を追い払う。同じくステーンヴォールドのX旅団は直接ポペリンヘへ移動し、それから左に転じてプロフェンへ移動し、後はコロー旅団に追随する。最後にゴドウェルヴェルド(ステーンヴォールド南東)に集まったヴァンダンム旅団はウェストゥトルとレニンヘルストの拠点を排除し、それから左のポペリンヘへ転じてX旅団の後を追うことになっていた(p432-433)。
 読めば分かる通り、最左翼のコロー旅団は比較的真っすぐ目的地へと向かうルートを通るが、残る2個旅団はいったん右翼よりに斜めに進み、その後で左に方角を転じ、左翼にいる部隊の後ろに追随するという動きを指定されている。結果的に右翼のヴァンダンム旅団は途中までデュメニー師団の前衛部隊的な役割を果たすことになっているのだが、なぜこんな複雑な機動を命じているのかは不明だ。
 続いてカッセルに集まっていたジュールダン師団だが、これもまた実際は複数の部隊に分かれて前進することになっていた。主力部隊はスタンデールの風車とアルディフォールの間に集まり、それから騎兵予備に続いてウケルクまで前進する。ウシャールは派遣議員ルヴァスール及びデルブレルとともにこの部隊に同行する。ムンゴー旅団ははカッセルに集結し、主力部隊の左翼を進んでエルゼールを直接攻撃することになっていた(p434)。これまた、主力部隊がエドゥーヴィユ師団のコロー旅団と同じところを通るよう計画されている。
 続いてランドラン師団だが、アルディフォールとアジュドルンの間に集められた彼らは、初日(9月6日)にウォルムートを占拠している兵に対する陽動を行い、7日の夜明には彼らを排除することになっていた(p434)。このカッセル―ダンケルク街道に沿って行われる陽動作戦に対し、Léviはかなり批判的だ。
 そして最後にルクレール師団だが、彼はかなり面倒な指示をウシャールから受けた。まずコルム(カッセル西方のサン=トメールからベルグへと流れる運河)にいる兵の指揮を執り、ワッテンを守るために1個大隊を残したうえで他の兵を全て集めてダンケルクへ向かう。そこで疲れている部隊がいる場合、ダンケルクの司令官に命じて新しい部隊と交換させる。さらに歩兵2個大隊と第12猟騎兵連隊も付け加えてベルグへと向かう。そこでさらに兵を集め、1000人のみを残し、5000人を2つの縦隊に分けてウェスト=カッペルとオスト=カッペルへ前進する。
 ウシャールの命令によればルクレールがベルグを出発するのは6日となっていた。この日は他の部隊が南方からフライタークの軍勢に襲い掛かっており、ルクレールの行軍は連合軍の背後から襲い掛かるのを意図したものだそうだ。もし連合軍が彼の方に向かってくるのなら、戦力を大きく見せるよう努力をするほか、必要に応じて防御に転じ味方の到着を待つよう指示されていた。またダンケルクの司令官に対しても、6日に出撃して連合軍を牽制することが命じられた(p435-436)。
 命令を受けたルクレールはすぐワッテンへと向かった。連合軍が近くにいるのを知っていたジュールダンはユサール1個連隊を護衛につけようとしたがルクレールはこれを断って個人で移動。ワッテン到着後はそこに残る部隊に必要な命令を出したうえで北上し、午後5時にはブールブールに到着した。彼はコルムの部隊のいくつかにはベルグに、他のいくつかにはダンケルクに向かうよう命じると、敵の攻撃に備えて運河に架かる橋をいくつか破壊した。さらに事前に命令を送っておいたダンケルクに真夜中に到着。スーアン将軍は彼の命令に応じて戦力を既に準備していたという(p436-437)。
 見ての通り、フランス軍の攻撃はいくつもの縦隊に分かれて前進するものとなっている。これまたこの時代にはありふれた作戦だ。一部の部隊が敵の背後に回ろうとするのも、1794年に行なわれたトゥールコアンの戦いで連合軍が試みたものとそっくりだし、フルーリュスの戦いホーエンリンデンの戦いも、やはり多くの縦隊が個別に進撃したという意味でそっくりだ。
 このような、互いにあまり連携が取れている様子のない各縦隊が攻撃を行うというスタイルが、なぜ18世紀に成立したのだろうか。詳しい経緯を知っているわけではないので明確なことは言えないが、一つ考えられるとしたら、まさに「位置取り戦争」を追い求めたためかもしれない。敵味方の双方が動き回っている中で、相手の弱点を突くような行動ができるかどうかは必ずしも保証の限りではない。ある程度はツキに左右されると見ていいだろう。そのツキを増やすために敵に送り込む部隊の数を増やした、のかもしれない。実際、ホーエンリンデンにおけるリシュパンスの攻撃などは、ツキが味方に付けばこの手の作戦が大きな成果をもたらすことを示す一例だった。
 ただし、送り込む部隊の数を増やすということは、ツキが逆に働く可能性も増やすことになりかねない。リヴォリの戦いではフランス軍の背後に回り込んだオーストリアのルジナン縦隊が、逆にフランス軍に打ち破られてしまった。ホーエンリンデンのリシュパンスとは逆の結果がもたらされたわけで、位置取り戦争のもたらすリスクが露呈した戦いと言える。また、敵が同じように縦隊を送り込んできた場合には、戦場はさらに混乱する。フルーリュスの前に行なわれた戦いもその一例だし、カスティリオーネ戦役の序盤もそうだった。
 何より問題なのは、各縦隊の移動について司令官がコントロールできない点にある。ナポレオンはおそらくそれを嫌い、戦いの前にできるだけ兵を直接指揮下にかき集める方法を取ったのだろう。逆に言うと18世紀の指揮官たちは、そうしたコントロールできない状況を自ら作り出すことにあまりデメリットを感じていなかったと推測できる。ある意味で彼らは豪胆だったわけだが、なぜそう考える軍人たちが多かったのかはよく分からない。
 いずれにせよ、いくつもの縦隊を進める作戦は全部隊をうまく連携させる必要があるのだが、それをもたらすのは各部隊の指揮官の行動次第。オスコットの場合、実際にはデュメニーとランドランは拙い行動を取り、積極性を示したのはルクレールだけだった(p437)。フランス軍の作戦そのものが戦いの結果にもたらしたプラスの効果は、あまりなかったのではなかろうか。

 一方、連合軍はフランス軍が攻撃を始める前日に、自分たちの側から攻撃をしかけた。彼らはツェルムツェール(アルディフォール西)とアルネクの間にあるフランス軍宿営地を奪ったものの、主にファブリが率いる左翼縦隊(歩兵1個大隊とユサール80騎)が多大な損害を受け、ファブリ自身も重傷を負った。右翼の縦隊が途上で障害に遭遇し、移動が遅れたためにそのような結果になったようだ(p438)。
 この戦闘は、前に紹介したA Collection of State Papersに載っているマレーの報告にも記されている。それによれば「かなりの兵が殺され、士官5人と最大60人の兵が捕らわれた」(p42)とある。カッセルからの増援が受けやすい拠点に対し、これだけ少ない兵力で攻撃を仕掛けたこと自体が問題だとの指摘もある。いずれにせよこの日の戦闘は連合軍側には何のメリットももたらさなかったし、またフランス軍による翌日からの攻撃にも何の影響も及ぼさなかったようだ。
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