オスコットの戦い 1

 1793年9月6~8日にかけてフランス軍と連合軍の間で行われた戦いについて、まず真っ先に確認しておきたいのは戦場となった村の名前だ。Hondschooteという名前は見ただけでフランス語っぽくない。むしろゲルマン語系の言葉であることが想像できるだろう。実際、この村は17世紀の半ばまでスペイン領ネーデルランドの一部だったそうで、だからこそオランダ語っぽい地名がいまだに残っているのだろう。
 征服したりされたりしていた大陸国ではこうした現象は珍しくない。フランス国内だと他にもかつてドイツ領だったシュトラスブルクが、今ではストラスブールと呼ばれている。もちろんHondschooteも今ではフランス語風に呼ばれているはずなのだが、では具体的にどのようにこの村を「フランス語風」に呼べばいいのかというと、実はよく分からない。google mapではカタカナ表記で「オンショット」と書いているが、本当にそう呼ぶのかについての論拠は分からないままだ。
 この問題に結論をもたらしたのは、実はwikipediaだ。英語wikipediaでは冒頭に発音記号を載せ、さらに論拠として2つのyoutube動画へのリンクを貼っている。フランス人の発音を動画で確認したうえで載せているわけで、おそらくこの発音が現地語だと見なしていいのだろう。カタカナ表記をするならオツコットあるいはオスコットあたりだろうか。ここでは後者を採用したい。それにしてもwikipediaも役に立つことがある一例ではある。
 この戦いについては以前、戦った双方の報告書を翻訳したことはあるが、詳しく調べたことはない。1793年に入って逆境が続いていたフランス軍にとっては久しぶりの勝利となった戦いだが、それだけで戦況が逆転するところまでは至らず、その後もワッティニーやライン方面での戦闘を経たうえでようやく1793年の年末にフランス軍が少しは連合軍を押し返すことができた。転換点の始まり、といった位置づけだろうか。
 フランス側の指揮官(ウシャール)と連合軍側の指揮官(フライタークが負傷しヴァルモーデンが指揮を執った)はどちらも今では無名の存在だが、彼らの部下の中には後に有名になった者もいた。フランス側ではやがて帝国元帥になるジュールダンがいたし、連合軍に属するハノーファー軍の中には若きシャルンホルストが頑張っていた。それでも全体としてマイナーな戦いなのは間違いない。

 今回はこの戦いについて詳しいところを取り上げるつもりだが、戦い前の経緯については簡単に述べるにとどめておこう。まずはThiersのHistoire de la Révolution française, Tome Cinquième(英語版はこちら)で簡単に流れを確認する。きっかけはヨーク公の率いたダンケルク攻囲の試みだ(p21-、英語版はp82-)。
 ヨーク公の主力軍が海岸沿いに東からダンケルクに迫る一方、フライターク率いる軍勢はこの攻囲軍をカバーする監視軍の役割を果たすべく、その南方に展開した。さらにオラニエ公の率いるオランダ軍がメナン付近にもいた。これに対しフランス側ではこの頃からカルノーが全体の作戦を指揮するようになり、彼はモーゼル方面などから兵を引き抜いてダンケルク解囲に差し向けた。これによって兵力的にはフランス側の方がかなり有利になったと見られる。
 もう少し詳しい展開はAus Hannovers militärischer Vergangenheitに書かれている。ダンケルクの南方にはフールネ運河が、さらにその南方にはアイザー河が流れている。フライタークは監視軍を展開するためにこの運河と河川の間にあるフランス軍を追い払う必要があった。彼は部隊を3つの縦隊に分け、8月21日からフランス軍に対する攻撃を始めた(p430)。
 彼らはまずオスト=カッペルを奪取。さらにレクスプードやオスコットを奪い、23日にはアイザー河を越え、フランス軍をウォルムートまで追い散らした。こうしてダンケルク攻囲軍のための監視線を構築したフライタークは、この地域に広く兵を分散させ、南方から接近してくるであろうフランス軍に対するコルドンを構築した。彼らは9月5日にはフランス軍の集結地カッセルにほど近いアルネクにまで攻め寄せている(p431)。
 A Collection of State Papersには、ヨーク公の下にいたジェームズ・マレーの報告書が掲載されている。8月21日付の報告ではフライタークがオスト=カッペル、レクスプード、オスコットで敵を打ち破り、11門の大砲と200人の捕虜を奪ったと記されている(p39)。また24日付の報告ではフライタークが2つの敵陣地を奪ったとしており(p40)、続いて26日付の報告ではこの2つの陣地がWarmarthe(おそらくウォルムート)とEckelsbech(エスケルベック)であることを知らせている(p41)。
 フライタークがこのように南方に監視線を展開している間、ヨーク公の主力は東側からダンケルクへと接近していった。24日付のマレーの報告によると、22日夕方にフールネを出発した連合軍は、ギヴェールにあった連合軍の宿営地に接近。フランス軍はこの宿営地を捨ててダンケルクへと撤退し、連合軍はこの町から1リーグのところまで迫ったという(p39-40)。
 フランス軍は連合軍による攻囲に抵抗するため、ダンケルクとその南方にあるベルグの間で運河の堤防を破壊し、広い地域を水没させた。連合軍による攻撃は基本的に一方向(東側)からの力押しとなったようで、26日付のマレーの報告では連合軍の攻撃がダンケルクからの砲撃で多くの損害を出したことが書かれている(p40-41)。オーストリアのダルトン将軍と、コールドストリーム近衛連隊のエルド大佐などが戦死した。
 フランス軍側でダンケルクの指揮を執っていたのはスーアン将軍であり、彼を補佐していたのはオッシュだ(Thiers, p23、英訳本、p83)。スーアンは後にトゥールコアンの戦いでも活躍するなど、この時期のフランス軍内では比較的有能な将軍であったことが窺える。オッシュは彼よりもずっと政治的な人物だったが、それでも軍人としては一定の成果を残したことは間違いない。連合軍にとっては割と厄介な相手がいたことになる。ただしこの戦いで参加したフランス側の将軍たちの中には、むしろ無能と思われる人物もいた。
 加えて連合軍は約束されていた英海軍の支援がなかなか到着せず(A history of the British army, Vol. IV, p124)、ヨーク公によるダンケルク攻撃は容易に進展しなかった。そもそも連合軍はダンケルクの東や南には展開したものの、西方を完全に塞ぐことはできず、またフランス軍の砲艦による攻撃も止められなかったそうで、ダンケルクの包囲を完成させることすらできていなかった。
 連合軍の動きが停滞している間にカルノーらの努力によってウシャールの手元に大量の兵が集まっていた。そしてこれらの兵が動き出したことで、伸びきった連合軍の戦線は破断界を迎える。無理のある作戦をごまかしながら進めようとした連合軍に対し、全員ではないにせよ優秀な人材がきちんと対応したフランス軍の差が出た、と言えるだろう。

 以上、簡単な経緯を踏まえたうえで、オスコットの戦いの詳細について述べるとしよう。使うのはCamille Baruch LéviのLa défense nationale dans le Nord en 1793 (Hondschoote)のうち、終盤200ページほど。9月6日から8日までの戦いそのものを描いたところだ。基本的にこの文献は史料集的な性格があるため、この本を使えば一次史料にどのようなことが書かれているかが確認できる。
 もう一つ、非常に役に立つのがこちらのTopographic map of France (1836)。名前の通り1836年時点でのフランスのかなり詳細な地図だ。オスコットの戦いからは40年ほど経過しているが、細かい地名を確認するうえでは十分に参考になる。戦場はちょうどフランスとベルギーの国境付近にあり、そしてこの地図ではベルギー地域はあまり詳しく描かれていないものの、この戦いの動向を追う分には問題になるほどではない。
 オスコットの戦いはフランス革命戦争にありがちな、混乱してとりとめのない戦いである。常に地図を追いながら動きを把握しないと、おそらく理解できなくなるだろう。事実が複雑なのだからその記述が複雑になるのも仕方ないのだが、ついていくのには苦労するかもしれない。
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