中世の動員実態

 軍事革命関連で、前に中世の歩兵革命砲兵革命なるものについて紹介したことがある。個人的にはあまり妥当性があるとは思えないし、妥当だとしても意味のある主張だとは感じられなかったのだが、この件に関するある中世史家のエッセーがあったので紹介しておこう。Guns and Goddams: was there a Military Revolution in Lancastrian Normandy 1415-50?というものだ。
 筆者は冒頭からいきなり「歴史家はラベル付けやカテゴリー分けが大好きだ」とかましている。しかもその目的は教育のためだとあっさり看破。つまり「何とか時代」「何ちゃら革命」「これこれしかじかシステム」なる歴史用語は生徒たちに分かりやすく伝えるためのものであると指摘している。さらにこの手の概念、例えば軍事革命は「移動祝祭日」のようなもので、専門家が自分の担当している時代に簡単に見つけ出すことができるものだ、とまで書いている。
 実際問題、ラベル付けやレッテル張りはそう難しくない。広告屋が作り出すキャッチコピーみたいなもので、要するに「俺様解釈」を持ち出せばどんな時代のどんな地域ににももっともらしい「歴史用語」を当てはめることは可能だろう。また反論も簡単で、要するに別の俺様解釈を突きつければいい。実はこのエッセーも最終的に「真の飛躍は、国家が砲兵革命や歩兵革命を支援できるようになった時に生じる」と述べ、両革命は14世紀や15世紀ではなくヘンリー8世の時代(16世紀前半)にあったと書いている。これも解釈の一種であり、この手の用語がまさに移動祝祭日のように動かせることを示している。
 この問題は前に書いた「還元主義問題」とも絡んでくる。ラベル付けは一種の還元主義的手法だろうし、それが教育目的で使われるのも、複雑な事実を分かりやすく整理できるというメリットがあるから。でも、一方で複雑な事実を複雑なまま示す手法に比べると、還元主義によっていくつかの要素が抜け落ちてしまうリスクがあることも確かだ。筆者が各種革命について国家の支援を重視した主張をしているのも、それこそが重要な要素だと考えているからだろう。
 残念ながら何が重要な要素であるかについて、全員が合意している基準があるわけではない。それを定めるためにはもっと歴史そのものを定量的に見るところから始める必要があるのだろう。もちろん定量的に見たところで境界線事例は消えない(なぜ95%で有意とするのか、90%や99%で区切るのがいいのか、厳密に説明するのは困難だろう)。それでも還元主義的な取り組みを進めたいのなら、数字を基に議論した方が主観に基づく重要性の判断に頼るよりはマシだろう。そう思わせるエッセーだった。

 ただしこのエッセーのキモは、「何ちゃら革命」の妥当性を巡る議論とは無縁のところにある。エッセーではランカスター朝がノルマンディーを支配していた時代の話を取り上げているのだが、実はこの時代、年代記などはほとんど存在しない一方で、軍事行政に関する豊富な財政記録が残されている珍しい時代だそうだ。それらを調べることで、イングランド軍がどのくらいの兵を動員し、それらの兵がどのように配備されたかについて、場合によっては兵士の名前単位で分かるのだそうだ。兵士単位で彼らの軍務がどのような経歴をたどったかもわかるし、ノルマンディーにある45の拠点それぞれや、それ以外に派出された兵力などのデータも揃っているという。
 中世でここまで詳細なデータが手に入る時代は、他にはとても考えられない。以前、日本の戦国時代や江戸時代初期の銃兵の比率について調べたことがあったが、参考にできたのはサンプル的に存在するいくつかの大名の事例くらいで、あとはそこからの類推に頼るしかなかった。あれよりも古い時代にはるかに詳細なデータを作り上げ、なおかつそれを現代まで保存していたイングランドの凄まじさには感服する。というか、「何ちゃら革命」の定義なんかよりもこちらの方がずっと面白い。そしてこの史料がデータベースとしてネット上で利用できるあたり、さらに素晴らしいことになっている。
 データベースの存在から、様々な指摘が出てきている。エッセーで真っ先に紹介されているのが、兵士の構成だ。この時代、イングランドは兵をmen-at-arms(主に騎兵として参戦した重装兵)と弓兵とに分けて動員していたようだが、面白いことに15世紀にこの両者の比率は1:3になっていることが多かったそうだ(Table 1)。14世紀の様々な事例においてこの数字の多くが1:1から1:2の間にとどまっていた(Table 2)のに比べ、弓兵の割合が高まっているのが分かる。上で紹介した歩兵革命論によれば14世紀が歩兵革命の進んだ時期となっているが、兵の割合で見るとむしろ15世紀の方が歩兵の割合は増えていったと見られる。
 実際には話はもっとややこしい。政治的や経済的理由で1:3を維持できず、もっと弓兵が増えた例があるそうだし、またmen-at-armsと弓兵の双方とも、騎乗していた兵と徒歩だった兵が存在していたようだ。前線に近いところは騎乗兵が多く、後方は徒歩の割合が増えるといった傾向もあったようで、これだけで硬直的な結論を導き出すのは難しそう。むしろこの時代の軍隊がかなり機動的な編成を実践していた事実の方を重視すべきかもしれない。
 またイングランドによるノルマンディー占拠の末期になると、各拠点に配備する戦力がおそらくは財政難のために大幅に減らされたことも指摘されている。15世紀半ばによるフランス軍の反撃によってイングランドのノルマンディー支配があっというまに覆されたことはよく知られているが、その理由は砲兵が次々に中世式の城塞を落としたためではなく、単に守る兵が少なすぎて戦えなかったためだったのかもしれない。
 砲兵についても細かい話がたくさん出てくる。興味深いのは当時のノルマンディーに大砲の生産や整備を行う機能が乏しく、多くの大砲がイングランドから補給されていたという指摘だろう。確かノルマンディーのカーンでは14世紀後半に巨大砲が製造されていたはずなのだが、あれは孤立した事例でその後に生産能力が失われてしまったのか、あるいは残っていたとしてもイングランド軍の需要を満たすだけの生産力には届いていなかったのかもしれない。
 使われていた大砲の名称もいくつか出てくる、ヴグレールやボンバルド、キャノン、クルヴリヌ、セルパンティーヌといったあたりで、いずれもThe Artillery of the Dukes of Burgundyに出てくる用語だ。やはり15世紀の火器については、ある程度、共通した言葉が使われていたと考えてもいいだろう。また前世紀から存在したリヴォードカンへの言及もある。大きな牛を使って運んだと書かれている事例もあり、大型の砲も含まれていた。カレーで購入した2門の大型砲は重量が6780ポンドと7022ポンド、つまり3トン以上もあったそうで、これらもまた大型の大砲だった。
 この時代なので大砲親方も存在している。大半は英国人だったそうで、この部分については英国から人材を引っ張ってきたようだ。ただし砲手の大半は外国人であり、例えばヘンリー5世はドイツ人砲手の中隊を連れてきたほか、フランス人、スペイン人を含む外国人名が多数存在している。当時の大砲は貴族たちより平民の職人たちが製造から運用まで担っていたことは前にも書いている通りで、その際には自国人だけでなく外国人の登用も珍しくなかったことがこの史料からも裏付けられる。
 この史料を生かしたデータベース(上で紹介したサイト)にも、いろいろな研究成果が載っている。例えばこちらのページにはアジャンクールの戦いに参加した兵たちの名前や経歴がアルファベット順に掲載されている。もちろんこれが全員をカバーしているわけではないだろうが、この時代にここまで詳しいデータが存在しているだけで驚愕。ナポレオン戦争期ですら、ここまで詳細なデータが揃わない戦いがありそうだ。
 またこちらのページでは、スタンフォードという村の徴税記録とこのデータベースを照らし合わせ、村からどのような人々がどう動員されたのかについて調べている。特に地元の領主が個人的なコネクションで集めた事例がかなり目立っているようで、イングランド軍がどうやって構成されていったかを知るうえで1つのヒントになるかもしれない。
 以上、中世末期のわりに非常に充実したデータが存在する事例の紹介だ。おそらくこのデータは他にも様々な活用法があるだろうし、これを生かして中世の軍事に関する知見を深めることも可能だろう。入り口は「何ちゃら革命」というあまり意味があるとは思えない案件だったが、それをきっかけに非常に興味深い史料が存在することを知ったのだから、結果は大いにプラスと言える。同時に、無駄かもしれないと思う部分を深掘りすることで意外な鉱脈にぶつかることもある、という事例の1つになった。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント