ショレの戦い サピノー夫人ら

 ショレの戦いについて。今度は王党派軍側の言い分を紹介しよう。とは言っても王党派側で実際に戦闘に参加した人間が残したと称される記録は、私は見たことがない。残っているのはなぜか「ナントカ夫人」の回想録ばかり。まあ王党派側は1793年の年末までにほぼ全滅させられてしまったのだから仕方ないと言えば仕方ないのだが。
 有名なのはラ=ロシュジャクラン夫人の回想録。ただしそちらは後回しにして、取り合えず別の回想を紹介しよう。一つはサピノー夫人が残したものだ。彼女はちょうどショレの戦い前後に娘と離れ離れになっていたようで、娘がいる場所へ向かって旅をしている途中に出会った農民からショレの戦いについて話を聞いたと記している。

「彼らはメイの者たちだと話し、砲声はあちこちで聞こえていた。この正直な農民はショレの戦いに参加しており、愛国者たちによる市の奪取についていくらかの詳細を話してくれた。彼によると、デルベはショレに入る狙いでサン=クリストフ=デュ=ボワの丘を奪った。戦闘の開始時には、戦いはヴァンデ軍にとって有利だった。ボンシャンは共和国軍の中央を切り裂いた。国民公会の代表者である残忍なカリエが殺され損ねた時、騎兵突撃が王党派軍に混乱をもたらした。将軍は逃亡を止める手立てを探した。100騎の騎兵の先頭に立ったボンシャンは、祖国の不運と伴に生きようとは考えず敵の騎兵大隊の中央に踊り込んだ。彼はそこで致命傷を負い、もしピロンが500人から600人のヴァンデ兵の先頭に立って現れ敵の怒りから彼を引き離さなければ、間違いなく彼は敵の手に落ちていただろう。この農民はさらに、軍はボープレオーの方へ移動し、自分は戦いの結果がどうなったか分からないまま妻と一緒に逃げ出したと付け加えた」
Memoires historiques sur la Vendee"http://books.google.com/books?id=trwvAAAAMAAJ" p42-43

 最初に王党派軍が陣を敷いたのがサン=クリストフ=デュ=ボワの丘だったこと、当初は王党派軍が優勢だったこと、ボンシャンが敵の中央を切り裂いたこと、カリエが窮地に陥ったこと(おそらく事実ではない)、共和国の反撃で混乱に陥った味方を救うためボンシャンが騎兵部隊の先頭に立って突撃をしたこと、その際にボンシャンが重傷を負ったこと、そしてピロンがボンシャンを救出したこと。以上がサピノー夫人が話を聞いたという「農民」の主な証言内容だ。
 そして、ほぼこれと同じ証言を残している人物がいる。他ならぬ重傷を負ったボンシャンの妻、ボンシャン侯夫人の回想録がまさにそれである。

「この様々な作戦の間、夫は私に子供たちを連れてサン=フロランへ向かうよう言った。彼の見通しの正しさに信頼を抱いていた私は、この市が陥落したとの話を聞いていたにもかかわらずそこへ向かった。そこには青[共和国軍]の姿は見当たらず、私は数日そこにとどまった。破滅的なショレの戦いが行われたのはその間のことだった。
 この惨劇の前日、夫は私に手紙を寄越し、会議の結果、王党派軍は敗北した時にはブルターニュへ移動することになったので、村で私と子供たちの分の衣服を用意するよう言ってきた。私はいくつかの服を手に入れた。
 ヴァンデの将軍たちは、ヴァンデのカギと言える重要な市であるショレを救うことを試みる決意を固めた。ボンシャンとその戦友たちは本格的な会戦に踏み切ることにした。ヴァンデの指揮官たちはサン=クリストフ=デュ=ボワの丘に布陣し、敵がショレから出撃するのを食い止めるために必要ならそこで滅びる覚悟だった。あらゆることを予想していたボンシャンは、会戦は王党派軍の恒久的な運命を決してしまうと判断し、退却すべきだと考えた。後に慎重さと能力が証明されたこの意見を彼は重要な点として指摘したが、不運なことに彼の賢い忠告は採用されなかった。全将軍はボンシャンに戦闘に向けた軍の手配を任せることで合意し、彼の準備は広く賞賛された。合図が出され、ヴァンデ軍は猛烈に敵に襲い掛かった。共和国軍の中央はボンシャンによって切り裂かれた。前線に姿を見せていた残忍なカリエは、乗馬を殺された。すぐ両軍は入り乱れ、乱戦となったが、王党派軍相手に抵抗できるものはなく、彼らの勝利は決まったかに見えた。
 ヴァンデ軍は敵を退却させ、既にショレの郊外にまで突入していた。ところが国民公会の擲弾兵は再編し、マインツ軍が前進してきた。そして、状況は一変した。側面の広い荒地を騎兵に衝かれ、王党派軍は切り裂かれた。将軍たちは逃亡兵を止めようと試みたが、無駄だった。私の夫の声ですら無視された。最後の試みとして全ての指揮官たちが集まり、何人かのヴァンデ騎兵が加わった騎兵大隊を組み、敵の戦列中央にいちかばちかの攻撃を仕掛けた。この重大な瞬間にボンシャンは腹部に致命的な怪我を負い、自らの血に塗れて倒れた! ピロンがどうにか私の夫を動かし、少なくともあらゆる捕虜を射殺している凶暴な敵の手に落ちる恐怖からは救い出した。彼は担架に乗せられた。この局面においてヴァンデ兵は再び彼らの価値を示し、彼に付き添い移動している間彼を守った。兵たちは彼の周りに集まり、共和国軍の追撃を受けていたにもかかわらず5マイル強の距離を交代で担架を運んだ」
Memoires de madame la marquise de Bonchamps"http://books.google.com/books?id=7JIFAAAAQAAJ" p48-50

 ショレの戦いが始まる前はともかく、サン=クリストフ=デュ=ボワへの布陣から始まり、ピロンがボンシャンを救出したところまで、戦いの展開そのものはサピノー夫人が紹介した農民の話とほとんど変わらない。ボンシャン関連の話が少々詳しい程度だ。この二つの史料は、ショレの戦いに関する限りほとんど同じソースに基づいていると断言してしまいたくなるほど似通っている。
 なぜだろうか。一つ考えられるのは、サピノー夫人に情報を伝えた農民が、全く同じ話をボンシャン夫人にも伝えたという可能性だ。あるいはこの農民は実際には戦闘にはろくに参加せず、当時王党派の兵士たちの間で広く流布していた話をそのまま伝えただけかもしれない。ボンシャン夫人は別ルートでやはり同じ話を聞いたことになる。そしてもう一つ、どちらか一方が他方の回想録から引き写した可能性もある。
 いずれにせよクレベールやボーピュイらの証言に比べると圧倒的に具体性に欠けているのが、この証言の特徴。二人の夫人はいずれも戦場にいなかったのだから当然ではあるのだが、これらの証言だけを元にしてショレの戦いを再現しようとするのは拙いだろう。

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック