神と社会と 下

 前回は査読誌に載ることになった「道徳的な神」に関するTurchinらの論文Explaining the Rise of Moralizing Religions: A test of competing hypotheses using the Seshat Databankの最新バージョンについて紹介した。道徳的な神(MSP)より複雑な社会(SPC)の方が先行したこと、両者はいずれも戦争の強度や農業の生産性といった「原因」から派生してきた「結果」と見られること、ただし農業からSPCへの影響は弱く、またMSPの「原因」としてはそれら以外に放牧も影響しているらしいことが指摘されていた。
 戦争と農業が原因という説を聞くと、以前こちらで紹介したCurrieらの論文も思い浮かぶ。この論文では帝国による支配の長さを決めた原因を探っており、そこでは農業の継続期間とステップからの距離という2種類で大半が説明できるという結論になっていた。農業生産性はあまり影響を及ぼしていないということなので今回の論文とは全く同じというわけではないが、生産要素と戦争の2つは帝国、複雑な社会、道徳的な神といった様々な人間社会のありように影響を及ぼしていることが分かる。
 Turchinらの論文のアブストには、最後にこう書かれている。「従って社会的複雑さと道徳的宗教の間の相関は、これら2変数間の直接的な因果関係よりも、進化的な原動力を共有している結果のように見える」。つまりTurchinは人間社会の反応を、戦争や生産といった「進化的な原動力」に対する適応と考えているのだろう。環境の変化によりよく対応したものが生き残るというダーウィン的アルゴリズムが働いた結果、人間社会の多くは複雑さを増し、大きな神が信者を増やしたというわけだ。
 もちろんTurchinが想定しているのはマルチレベル選択だろう。そして私自身はマルチレベル選択という考えに対しては違和感を持っている。個々の社会や政治体が単位となって進化しているのではなく、あくまでその社会や政治体を構成する個々人の包括適応度向上に望ましい変化が生じている、というのが私の理解だ。従って環境が変われば包括適応度を上げる方法も変わる。もしかしたら今の時代、「大きな神」にもそういう変化が起きているのではないか、という話をする。

 道徳的な神に関連して、こちらの一連のツイートでは大きな神が家父長制から生まれてきたのではないかとの見方を示している。大きな神が登場したのは、土地を息子に相続させる家父長制的なユーラシアであり、男女双方の労働に依存していた南米や女性がスピリチュアルな指導者であった植民地化以前のフィリピンなどでは大きな神は外から持ち込まれている。大きな神が「問答無用の女性服従」を維持してきたのは、そうした社会的背景から大きな神が出てきたからではないか、という考えだ。
 この主張が正しいのであれば、道徳的な神を戴く伝統的宗教の多くが女性を従属的な地位に置いているのは、それがたまたま家父長制社会で生まれたから、という結論になる。もしこうした宗教が南米やフィリピンで生まれていれば、違うタイプの「大きな神」がジェンダーに関して違う規範を持った道徳的な教えを説き、それが広まっていたかもしれない。もちろんツイートの主はこの考えについて論拠が弱いとはっきり言っており、あくまで現時点では思いつきのレベルだと思われる。
 個人的にもこの考えが成立するかどうかは疑問に思っている。以前にも書いた通り父方居住が広く人類の採用していた居住法だったなら、どうしても親の遺産を継ぎやすいのは男性になる。加えて男女間での力関係を決める際には、血縁者が近くにいる男性と、血縁的には縁遠い人々に囲まれている女性との間では前者が有利だろう。人間社会の全てが堅固な家父長制であったというつもりはないが、そちらの方が比率的にかなり高かったのではなかろうか。
 だとしたら大きな神が家父長制社会から生まれたのは、そもそもそういう社会の方が多かったからだと考えられる。単に確率の高い現象が起きただけだ。また、数の少ない家父長制でない社会で大きな神が生まれるケースもあり得たかもしれないが、そこで育まれた非家父長制的な道徳が家父長制社会の多い世界に広まるのは難しくなるだろう。大きな神の掲げる道徳が家父長制的な価値に寄り添ったものになりがちだったのは、ある程度は必然だったのではなかろうか。
 しかし環境が変われば、そうした状況も変わる。社会を作り上げている人間たちの包括適応度を上げる条件が変わってくるからだ。前にも指摘した通り、狩猟採集社会においては圧倒的に有利だったと思われる父方居住も、現代のような産業社会においてはその優位性をほとんど失っている。農業社会ではまだ遺産の継承という形で家父長制が維持できていたが、土地の価値が低下し知識の価値が上昇した今の社会ではそうした形での家父長制保持も難しい。当然ながら家父長制社会を前提とした道徳を唱える神々の立場も弱くなる。
 産業化の進展に伴って社会が大きく変わり、生存戦略としての家父長制のメリットが薄れてきたことが理由だろう。農業社会までは、おそらく男性にとっても女性にとっても包括適応度を上げるうえで家父長制に一定のメリットがあり、だからそうした制度を存続させるのに有利な道徳を唱える大きな神が崇められた。しかし都市化が進む産業社会においては、別の包括適応度向上策の方が、よりメリットが高い。それに気づいた人々が静かに「大きな神」のもとを去っている、のではなかろうか。
 以前こちらで述べたように、道徳とは要するに「協力を維持するための進化的な適応」ではないか、といのが私の考え。Turchinの論文も、道徳的な神が進化の結果として生まれたと解釈しており、その点では同じだ(マルチレベル選択か、個人の包括適応度向上かという違いはあるが)。協力を維持するための手法が農業社会と産業社会で違っているのなら、それに合わせて道徳が変わるのは当然だろうし、人々が古い道徳を捨てて新しい道徳へシフトするのも、これまた生物としては当然の対応となる。つまり進化だ。
 上で紹介した一連のツイートでは「世俗的啓蒙はジェンダー平等にとって偉大であった」と述べているが、個人的には世俗的啓蒙はジェンダー平等が目的ではないと思う。目的はあくまで包括適応度の向上であって、産業社会ではジェンダー平等の方が家父長制よりもその目的達成への近道だったから選ばれたにすぎない。何らかの絶対的価値がまず存在し、そこへ向かうのが世の中の流れだという思考法は、Wokeismが広まっている足元のアカデミアで時折見かけるものだが、これは教祖と聖典を戴く旧来型の宗教と同じ考え方だ。せっかく科学という違う切り口を手に入れているのだから、もう少し目的論とは違う思考法を働かせてもいいんじゃなかろうか。

 そのうえで、もし上記の想定が正しいのだとしたら、今は道徳が大きく変わっている時代なのかもしれない。かつて枢軸時代に、それまでのような小さな社会を前提とした道徳の代わりとなる「普遍的な道徳、平等主義的な考え、そして社会性」に基づく思想が生まれてきたのだとしたら、足元もまた道徳の在り方が変わりつつある「第2の枢軸時代」となっている可能性がある。
 もちろんそんな大げさな話ではなく、ヒトの歴史上で何度も起きたであろう「協力を維持するための進化的な適応」が少し進んだだけとも考えられる。道徳の中身が変化しても、基本的な思考法(単なる変化への適応ではなく、何か絶対的な価値へ向かうべきだという発想法)は変わらないままという事態も、今のアカデミアを見ているとあり得そうに思う。また道徳の変化があるとしても、それはおそらくかなりの時間を要するだろうから、自分が生きている間に結果を見極めるのは絶対に無理だ。
 要するに結論は出てこない話なのであり、だから効率重視で生きるつもりなら道徳について自らの頭を悩ませるのは無駄となる。自分が生きている世の中の道徳一般に合わせれば、普通ならそれで十分。まあ、たまには急激な道徳観の変化に巻き込まれてしまう人もいるので、まったく道徳について考えようとしないのもそれはそれでリスクはあるんだろうけど。
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