忘れられた旅団 4

 ゲナンの旅団に関してこれまで取り上げられることの少なかった史料を見つけたCrowdyは、そこからマレンゴの戦いについてどのような新しい知見を見出したのだろうか。まずはゲナンの手紙について紹介しているMarengo 1800 - a Lost Accountに書かれている話を紹介しよう。
 この記事で彼が最初に引用しているのはゲナンの手紙ではなく、若いモーリス・デュパンがマレンゴの戦い後に叔父に宛てて記した手紙だ。実際に戦いに巻き込まれたまだ経験の浅い兵士が何を感じたかについて記したものだが、読むと分かる通り非常に騒々しく、慌ただしく、混沌とした印象を受ける。戦況の全体を見ているわけでもない兵士や下っ端士官にとっての戦争はおそらくこのようなものだったのだろうが、Crowdyがわざわざそれを最初に紹介したのは、マレンゴの戦いが史書に書かれているよりずっとカオスなものだったと主張したいためだ。
 戦いのこの場面について、一般には「ドゼーとボナパルトが会合を開いて攻撃を決定。マルモンの砲兵が砲撃を開始。ドゼーが致命傷を負って倒れ、著名な政治家の息子であるルブリュンに最後の言葉を発言。『並ぶ者なき』第9軽[半旅団]が復讐すべくハンガリー擲弾兵(実際は『ドイツ』擲弾兵だが気にするな)を攻撃し、ケレルマンが栄光ある騎兵突撃によって最後を飾る」といった一連の見出しによってまとめられるような内容が伝えられている。しかしこうした歴史書でよく見かける話は、現実を単純化しすぎている、というのがCrowdyの考えだ。
 まず、フランス軍の隊列について、よく見かける「混合隊形」ではなかったことが指摘されている。前々回に紹介したThiersも、縦隊と横隊を組み合わせた隊形の話をしているし、あるいはChandlerのThe Campaign of Napoleonでも、ブーデ師団が反撃を行った際の隊形としてこの形が図示されている(p349)。別にChandlerが言い出したわけではなく、19世紀後半に出版されたTactique armesという書籍の中で、既にマレンゴでこの隊形が採用されたという記述が出てくる。
 しかしゲナンはそう書いてはいない。彼の手紙に出てくるのは「いくつかの大隊を展開した縦隊斜行陣」という記述だ。この記述はTiteuxが紹介している第30と第59の半旅団長が書いた報告(Le général Dupont, Tome Premier, p102-103)をそのまま引用したもの。またブーデの記録(英訳, 12/16)を見ると、第1旅団の退却時にもこの斜行陣を敷いたとある。
 Crowdyはこの隊形について、右側を前進させた斜めの布陣だとして説明図を下の方に載せている。最右翼の縦隊が最初に前進し、以後その左隣りの縦隊が100歩遅れた位置で同じく前進する。このような布陣はこの時代の報告書などを見ているとわりとよく出くわすものであり、例えばマレンゴと同じ1800年のホーエンリンデンの戦いでは、グルーシーが指揮下の部隊にこのような隊形を取らせている
 次にCrowdyが指摘するのは、騎兵突撃をドゼーが命じたという記録。実際にはCrowdyの翻訳によると「この時になってようやくドゼーが予備騎兵に突撃を命じることができた」という表現になっているし、Crowdy自身この表現はあくまでゲナンの推測でありドゼーはこの時には既に戦死していたと指摘している。実際、これに類した表現はこれまた上に記した第30と第59半旅団長の報告にもある(前回も書いた通り、ここでは突撃したのは執政親衛騎兵になっている)。第2旅団の面々がドゼーと一緒に戦っていたわけではないことを踏まえるなら、この点をもってケレルマンの「自分の判断で突撃した」説を否定できるとまでは言えないだろう。
 そして最後に、この戦闘が行われたのはカッシナ=グロッサ付近であると、Crowdyは指摘している。ゲナンらが指摘している、味方の戦線から突出した距離を考えるとそうなるようだ。一般に言われるサン=ジュリアーノからは直線距離で3キロ以上離れており、むしろマレンゴの方が近いかもしれない。ケレルマンの報告にもカッシナ=グロッサの名前が出てくるが、そちらとも平仄が合う。

 さらにCrowdyは、こうしたゲナン旅団の動きを含め、Kellermann’s Charge and the Forgotten Brigadeという文章で改めてケレルマンの騎兵突撃について分析している。
 ゲナン旅団の2個半旅団のうち第30半旅団は1個大隊をイタリア方面軍に派出していたため、この場にいた大隊数は5つ、擲弾兵中隊を組み合わせた臨時大隊があったとしても6個大隊であった。加えてモンニエ師団から2個大隊が送られており、彼らはゲナン旅団の最右翼に配置されていたという(2/13)。一方、オーストリア軍はツァッハ率いる主力の左翼、街道の北側をカイムの部隊の生き残りが前進していたそうで、また彼らはこの方面に50門の大砲を展開していた(3/13)。
 前進を命じられたゲナン旅団はまず葡萄畑に入った。その際にゲナンには弾丸が当たったが、懐に入っていた硬貨のおかげで打撲傷で済んだそうだ。ちなみに両半旅団長の報告では第59半旅団のパストル少佐の逸話になっているが、6月20日にブーデが出した報告書ではやはりゲナンの話とされている(Titeux, p106)。ゲナン旅団は葡萄畑からオーストリア兵を排除し、平野に到着した。この時点で彼らはフランス軍の戦線から1キロほど突出していたという(4/13)。開かれた土地へと前進することにゲナンは少し躊躇ったが、ブーデの命令で再び前進を始めることになった。
 ここでCrowdyはChandlerの図(少しばかり簡略化したもの)を掲載(4/13)し、一般的な認識を示している。注目すべきなのは街道の北側にいるフランス軍の動きについて全く触れず、一方ケレルマンが突出して敵側面に突撃をしているように描いている点だ。戦場では両軍とも時々刻々と場所を移していくのが当たり前なのだが、時にはそれを忘れたような記述をする人がいる。Chandlerも同じ罠に嵌っているのかもしれない。
 続いてCrowdyはケレルマンの報告を紹介。彼が「ドゼー師団に従って街道の右側200トワーズ[400メートル]のところ」に部隊を配置したことを紹介したうえで、ゲナン旅団はおそらく正面600~800メートルに展開したと指摘。「ケレルマンはゲナン旅団の真ん中背後付近にいた」と記している(6/13)。そのうえでde CugnacのCampagne de l'Armée de Réserve en 1800にある地図を使い、ゲナン旅団とケレルマンの移動はこうなっていたのではないかとの推測を図示している(7/13)。
 重要なのは、ケレルマンがゲナン旅団の背後を進んでオーストリア軍主力の側面までたどり着いたのではないか、という点だ。街道北側にオーストリア軍は騎兵と砲兵を展開していたが、その正面にはゲナン旅団が立ちはだかっていた。だからこの方面に側面を晒すことを気に掛けることなく、ケレルマンは突撃を敢行できた、というわけだ。ゲナンの手紙によるとケレルマンはゲナンの攻撃がなければ騎兵突撃できなかったとゲナンに語っていたそうで、それにはこういう理由があったのでは、とCrowdyは見ている。
 Crowdyが再現した突撃時の各部隊の展開は11/13に載っている図の通りだ。当初はゲナン旅団の前にいたマルモンの砲兵は、ゲナン旅団の前進によって追い越され、その後を追いかける格好になっていた。ただしその論拠はマルモンの回想録(p132-133)であり、従ってどこまで信頼できるかは不明。またマルモンは街道近くで正面と左翼から第30半旅団が混乱して逃げてきたと記している(p133)が、この方面には第9半旅団がいたと思われる。Crowdyは同半旅団の散兵が戦況に合わせて後退してきたのを見たのではないかと推測している。
 いずれにせよゲナンの主張は公式戦史には取り上げられなかった。ボナパルトはマレンゴの戦いについて「カステル=チェリオロを支点とした旋回運動を行った」という風に歴史を書き換えようとしており、味方が一時退却していたことを窺わせるような記述を嫌ったのではないかとCrowdyは記している。モンニエに至っては存在自体を抹消されてしまったりしている。
 加えてゲナン自身が1803年に死去したのと同じく、彼の上官だったブーデは1809年に、同師団の参謀長だったダルトンは1803年に死去している。マレンゴで死んだドゼーも含め、同師団に関連した上層部がいずれもナポレオンの没落前に死んでしまったことが、さらにゲナン旅団の活躍が忘れられてしまう大きな要因となった。死人に口なし、生き延びた者が勝ちという、身も蓋もない結論である。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント