忘れられた旅団 3

 マレンゴの戦いについて詳しい一次史料を掲載しているde CugnacのCampagne de l'Armée de Réserve en 1800の中で、なぜかブーデ師団第2旅団(ゲナン准将)の史料がほとんど見当たらないということを前回説明した。そう指摘しているのはTerry Crowdy。同じマレンゴの戦いで大活躍した「並ぶ者なき」第9軽歩兵連隊に関する書物などを書いている人物だ。
 ゲナン旅団に関する彼の主張を理解するうえで分かりやすいのは、Napoeon Seriesに掲載されているMarengo 1800 - a Lost Accountだろう。フランスの公文書館を訪れてマレンゴの戦いに関する一次史料を見ている際に、彼は「不可解にもde Cugnacが使わなかった、いやそれどころか参照すらしなかった」ゲナン准将の記した手紙を発見する。革命前からの職業軍人だった彼が残した「失われた記録」について、Crowdyが英訳文を紹介しているのがこの記事だ。
 ルイ・シャルル・ド=ゲナンは1755年に生まれた。マレンゴの戦い当時は44歳だったことになる。彼は1766年には軍務に就き、王立士官学校を経て1774年には少尉に任官した。革命前の1781年に中尉、バスチーユ直後の1789年8月に大尉となっているのを見ても、おそらく下級貴族の出だったのだろう。
 革命は彼に幸運と不運の両方をもたらした。1792年には彼は常備兵連隊の中佐にまで一気に昇進しており、同年中に大佐にもなっている。さらに1793年には准将の地位にのぼった。ここまでは彼にとって革命は追い風だっただろう。だが同年10月、過激化が進む革命は元貴族の士官たちを軍務から外し始めた。ゲナンも軍を追われ、実に1800年になるまで軍隊に戻ることはできなかった。彼は予備軍に加わり、そしてマレンゴの戦いに参加することになる。
 ただ、彼に関する一次史料の話をする前に、de Cugnacが参照しなかったゲナン旅団に関する史料について、一部ではあるが出版物の中で紹介しているものがあるので、そちらを見るとしよう。その本とは、Titeuxの書いたLe généal Dupont, Tome Premier。以前、イエナの戦いやバイレンの戦いについて調べた際にもこの著者の書物を使ったが、de Cugnacの見落とした史料を採録しているあたり、前にも指摘した通り彼の「ソースを見つけ出す手腕」はやはり突出しているようだ。
 Titeuxがこの本に載せたのは、マレンゴ会戦の翌日にゲナン旅団に所属する第30及び第59半旅団の指揮官たちが記した「要約」だ。この書類は18日に予備軍参謀長を務めていたデュポンのところに送られた。そのうちゲナン旅団に関するところを紹介しよう。
 彼の旅団は「街道の右側(北側)、既に我々の騎兵を打ち破った敵騎兵に支援されている、葡萄畑の中にいる恐ろしい敵砲兵と歩兵」(p102)に対峙するように配置された。街道の反対にいた第9軽半旅団も含めて「全兵士はいくつかの展開した大隊を交えた縦隊の斜線陣を組んだ」。それに対し、敵は50門の大砲で砲撃を浴びせてきたという。
 ドゼーの命令で動き出した彼らは葡萄畑の敵兵を銃剣で打ち破り、味方の戦線から4分の1リュー(約1キロ)も前進した突出部を形成した。敵は葡萄畑の出口に騎兵を並べ、砲撃を浴びせて彼らを食い止めようとした。葡萄畑の先に広がる平地を見た旅団は、乱れた隊列を元のように直し、それから再び前進を始めた。敵騎兵の突撃は上手くいかず、旅団はついには1リュー近くも突出することになった(p102-103)。この動きに敵右翼(第9軽の正面にいる部隊)は動揺し、それを見たドゼーは執政親衛騎兵に敵左側面への突撃を命じる一方、第9軽にも正面から銃剣突撃を命令した(p103)。かくして戦況はひっくり返り、フランス軍の勝利が決まった、というのがこの報告に書かれている同旅団の行動だ。
 前回紹介した、旅団に同行していたはずのブーデの記録よりはずっと詳しい動きが、ここには記されている。もちろんおかしな記述もある。特にオーストリア軍の縦隊に側面から襲い掛かったのがケレルマンの旅団ではなく執政親衛騎兵になっているのは明白に間違いだ。ケレルマン自身の報告は騎兵連隊の番号を間違えているが、de Cugnacによれば彼が率いていたのは第2騎兵、第20騎兵の2個連隊で、後に第8竜騎兵連隊も加わったという(脚注61)。いずれにせよ執政親衛騎兵ではない。
 多くの史書でまるでマレンゴの戦場に存在しなかったかのように扱われているゲナン旅団だが、この記述が正しいのなら彼らこそフランス軍の反撃時に一番先頭を切って突進していたことになる。味方の戦線からキロ単位で突出し、敵の騎兵などの攻撃を彼らが引き受けていたことになるわけで、この派手な活躍がなぜおよそ注目されていないのか、むしろ不思議に思える。

 Crowdyが公文書館から探し出した史料は、旅団を率いたゲナン准将がこの活躍を改めて何度も上官たちに主張したことを示している。彼はまず第一執政に直接手紙を書き、それを陸軍大臣カルノーにも転送し、さらには後にナポレオン戦争に関する歴史をまとめたマテュー・デュマ将軍にも記録を送り、何とか自分の主張を認めてもらおうと奮闘している。だが彼の要求はほとんど誰にも受け入れられなかったようで、彼はおそらく失意のうちに1803年に死去した。
 生き延びたケレルマンは、ナポレオンの没落後に自分の立場を主張できたし、同じく生き延びたサヴァリーもそれに対する反論を回想録に残すことができた。だが死んでしまったのではそうした主張はできない。ゲナンの訴えはいくつかの手紙という形で公文書館に残されたが、その中であまり注目を集めることもなく埋もれていったのだろう。Crowdyが掘り出したこれらの史料(の英訳)を見ると、ゲナンがかなり切実に訴えていた様子が分かる。
 まず最初に彼がやったのは6月25日付で第一執政に宛てて手紙を記したことだ。彼は「私のことを思い出してくれ」と何度も繰り返し、「戦いの後に兵たちと野営地にとどまるのではなく、あなたの前に姿を見せるべきだった」と後悔を述べ、最後に改めて「マレンゴの戦いで私は第30と第59[半旅団]を指揮した」と言及するなど、かなり切迫した様子で訴えている。Crowdyによれば原文は綴り間違いも多いそうで、かなり慌てて記したようだ。
 残念ながらこの訴えにボナパルトは反応しなかったが、同じ手紙を転送されたカルノーは10月4日になってゲナンに手紙を送っている。カルノーはボナパルトの前で彼の活躍を改めて知らせたこと、第一執政も彼のことを完全に覚えていたこと、政府は彼にきちんと気を遣っていることなどを文章で知らせてきた。その後、政府は彼の希望に応じて彼をベルギーでの軍務に就けたが、マレンゴの件に関連して彼に改めて報いることはなかったようだ。結局彼は准将のまま生涯を終えている。
 せめて歴史書に自分たちの活躍をきちんと残してもらおうとした彼の努力も、結果的には無駄に終わったようだ。デュマの本を見ると、件の場面にはドゼーやケレルマン、あるいは砲兵を指揮していたマルモンの名は出てくるし、部隊名としては第9軽の名は登場するものの、ゲナン、あるいは第30と第59半旅団は見当たらない(p324-325)。
 面白いのはゲナンの手紙の中に、ミラノでケレルマンと会った時の話が載っている点だろうか。それによるとケレルマンは「私[ゲナン]が自分のように戦場で昇進しなかったことに驚き、私の激しい攻撃が成功していなかったら、自分は決して騎兵突撃できなかっただろうと意見を述べた」。ブーリエンヌによればケレルマン自身がマレンゴの戦い後に自分を昇進させなかったことでボナパルトを恨んでいると述べたそうだが(前々回参照)、ゲナンはそうは思っていなかったことになる。実際にはゲナンもブーリエンヌも間違っており、ケレルマンは「戦場で昇進」してはいなかったが、翌7月になって将軍の地位についている
 しかしもっと面白いのは、彼自身の経歴や人生よりも、彼の手紙によってマレンゴの戦いの経緯に新しい光が当てられたことだろう。Crowdyが最も詳しく分析しているのはこの部分だ。これについては以下次回。
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