ショレの戦い レシェル他

 再びショレの戦いに話を戻す。前にクレベールとボーピュイの残した記録を紹介したが、本来の指揮官だったレシェルは何も書いていないのか、というとそうでもない。一応、彼が公安委員会え出した報告というのもあることはある。非常に短い文章だが。

「レシェルから公安委員会への報告、10月19日
 17日午後2時、約3万人から成る反徒の大軍が、彼らの行軍を隠す森を利用して来襲し、唐突に我々をショレ前面の丘で攻撃した。我々の前衛部隊は、数の差に圧倒され、布陣していた前哨線を放棄することを当初は強いられた。騒然とした反徒の群れは、彼らの最も有名な指揮官に率いられ、恐るべき砲兵に先導されて大胆に前進したが、すぐ我々の軍団に食い止められ押し返され、そして盗賊どもの敗走は決定的になった。彼らは12門の大砲を我々の手に残した。我々は彼らをたゆまず追撃し、広い戦場にはあちこちに死体が散らばっていた。デルベとボンシャンは致命傷を負った。経験した中で最も致命的だった反乱軍の損害は推測するのも難しい。我々の損害はそれほど深刻なものではなかった。我が軍の1個師団は敵を4マイル追撃し、深夜過ぎに盗賊どもの主な避難所であるボープレオー前面に到達した。彼らの哨兵は喉をかき切られ、我々はそこに突入し、そして多くの敵を殺した後で、彼らは再び壊走した。市内では火薬工場、多くの貯蔵硝石、大量の大砲と弾薬箱が見つかった」
Guerres des Vendeens et des Chouans contre la Republique francaise, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=35QFAAAAQAAJ" p277

 これだけかよとツッコミを入れたくなるような文章。おまけに中身はボーピュイが書いた記録の短縮要約版で、独自の視点はない。クレベールが批判していたように、戦場から遠く離れた場所にいて何も見ていなかったと言われても仕方ないような報告だ。

 共和国軍側の記録と呼ばれるものは他にもある。以下は「共和国軍の元軍事行政官」なる人物が書いたとされている内戦の記録からショレの戦いに関する部分を抜き出したものだ。ただ、この記録にはかなり妙なところが多い。

「かくしてショレは共和国軍の手に落ちた。しかし彼らが市の掠奪を行い、郊外に火をつけ始めている間に、ヴァンデ軍が再度突撃してきた。右翼のリュソン師団は壊走した。バール将軍は危険なほどの怪我を負い、勇敢なルコントは戦死した。勝利は王党派軍のものであるように見えた。いくつかの部隊を派出していた勇敢なアクソは、彼らを呼び戻し共和国軍の戦列に加えた。彼はマインツ部隊の予備に命じ、その部隊は恐ろしい打撃を加えて今度は敵を撤退させた。この様子を見て全軍は再び勇気を取り戻した。戦闘は再び激しくなり、その衝撃は激しく、敵はあらゆるところで逃亡した。デルベ、ボンシャン、ラ=ロシュジャクランといった将軍たちは戦闘に敗北しそうなのを見て、150騎から成る騎兵大隊の先頭に立ち、少なくとも彼らの退却を援護するための奇跡を成そうとした。しかし勇敢なボーピュイが彼らの努力を無駄にした。3頭の乗馬を殺された後で、彼はこの恐ろしい騎兵部隊をどうにか打ち破った。ボンシャンは危険なほどの怪我を負い、デルベは胸に銃弾を受けた。彼らはボープレオーへと後退し、そこでこれらのあらゆる交戦にも関わらず無傷だったラ=ロシュジャクランが合流した。彼らはサン=フロランへの退却を続けるため、ほんの数時間の休息を取ることすら難しかった。共和国軍は彼らが撤収した少し後にボープレオーに入城し、そこをショレやモルターニュと同じように徹底的に破壊した」
Memoires sur la guerre civile de la Vendee"http://books.google.com/books?id=trwvAAAAMAAJ" p99-100

 まず最初の方に出てきたバール(Barre)将軍なる人物が正体不明だ。この人物、Georges Sixの"Dictionnaire Biographique des Generaux & Amiraux Francais de la Revolution et de l'Empire"には名前が出てこない。もちろんSixの本に出てこないからと言って実在しなかった証拠にはならないのだが、よく分からない人物であることは確かだ。
 リュソンからやって来た師団の配置もクレベールの説明と異なる。クレベールによればマルソー麾下にあったリュソンの師団は戦線の中央にいた筈なのだが、上の文章では右翼と書かれている。王党派軍が攻撃を仕掛けてきた際の共和国の対応について、クレベールは「我々は用心をしていた」と書いているのに対し、この記録では掠奪に耽っていたことになっているのも矛盾である。ボーピュイが失った乗馬の数も、彼自身の証言(2頭)と数が違う。
 退却に追い込まれそうになった王党派軍の指揮官たちが騎兵部隊の先頭に立って突撃したという話は、実はむしろ後日紹介する予定のヴァンデ側の記録と符合しており、他の共和国側の記録には存在しないものである。共和国軍による破壊をいちいち強調しているところなどを読むと、もしかしたらこいつは「共和国軍の元軍事行政官」を騙る王党派の工作員なのではないかと思ってしまうほどだ(ここは笑うところ)。
 冗談はともかく、この「共和国軍の元軍事行政官」なる人物がショレの戦いを生身で経験した可能性はかなり低いことは言えると思う。何より記述に具体性がない(敢えて言えば王党派軍側の記述の方が具体的)。現場にいたことが確実な当事者(クレベール、ボーピュイ)の記録と矛盾しているところも、この記録の信頼性を失わせる一つの理由となっている。

 さらにもう一つ、以下のような話も紹介しよう。共和国軍がショレの戦い後、ボープレオーへの道を追撃している時の話だ。

「兵たちは疲れきっており、食糧も弾薬もなかった。ショレへ戻るか、ボープレオーへ進むかの会議が行われた。後者へたどり着けば食糧は得られるだろうと思われていた。ボーピュイはこの質問を彼の近くにいたアクソ、ウェステルマン、シャボー将軍と参謀副官のブロス、サヴァリーに与え、彼らの意見を求めた。満場一致でボーピュイへ向かうことが決まり、命令が下された時、我々には弾薬がありませんとの声が聞こえた。――諸君は銃剣を持っていないのか? ボーピュイは答えた。擲弾兵にそれ以外の何が必要なのだ? すると、共和国万歳! という返事が聞こえ、彼らは出発した」
Guerres des Vendeens et des Chouans contre la Republique francaise, Tome Deuxieme, p272

 これは文献紹介ではなく地の文で書かれている。つまり著者Jean-Julien-Michel Savaryが自ら書いたものだろう。もしこの著者が、文中に出てくる参謀副官サヴァリーと同一人物であるならば、この話は一次史料として扱えるだろう。そうでなかったなら、論拠不明の文章ということになる。
 いずれが正しいのか不明なので、現時点でこの挿話について判断を下すのは控えておきたい。とりあえず、ショレの戦いに関する共和国側の史料で頼りになるのはクレベール及びボーピュイの記録だ、と言って問題はないだろう。

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