忘れられた旅団 2

 前回も述べた通り、マレンゴの戦いにおいてケレルマンの突撃は有名であり、過去にもそれを巡る論争があった。一方ケレルマンが側面から突撃している時、正面でオーストリア軍と戦っていたドゼーの部隊が具体的になにをやっていたかについては、実はあまり詳しく書かれていないことが多い。
 例えばSargentのThe Campaign of Marengoを見ると、「ドゼー師団」がどのように配置されたかと、彼らがオーストリア軍をどう攻撃したかについて簡単に書かれている。問題はこの師団はドゼーが指揮する「ブーデ師団」だったこと、そして師団には複数の旅団や連隊があったことだ。ブーデ師団が具体的にどのように配置され、各旅団や連隊がどう戦ったかを知りたくても、この記述では全く分からない。
 それに比べればこちらのサイトはまだマシ。それによるとブーデ師団の「第9軽[歩兵半旅団]」が時間を稼いでいる間に、ドゼーは「ゲナール[ママ、ゲナン]の旅団」を配置して「わなを仕掛けた」と書いている。ただこの「わな」の内容についての言及はなく、その後はすぐケレルマンの突撃とその後の形勢逆転に話が進み、ゲナン旅団については追撃時にまた少し言及があるにとどまる。
 英語wikipediaもあまり詳しくはない。ブーデと第9軽がオーストリア軍の先頭部隊とまず交戦したこと、ゲナン旅団がアレッサンドリア―トルトナ街道の北側に布陣したこと、彼らが並んでオーストリア軍に向け前進したことまでは書かれているが、その後は第9軽とマルモンの砲兵、そしてケレルマンの騎兵の話しか出てこない。第9軽以外のブーデ師団についての言及は、以後姿を消してしまう。
 それらに比べるとまともなのはThiers。彼の書籍英語版)を見ると、ドゼーが指揮したブーデ師団は3つの半旅団で構成されていたことが分かる。この師団はサン=ジュリアーノの前方(西方)、街道の少し右側(北側)に布陣し、中央で第30半旅団が横隊を組み、その両側面に第9と第59が縦隊を組んだことになっている(p274、英語版p247)。ただしその後の行動についてはやはり第9軽絡みがほとんどで、残る2個半旅団については「第9半旅団の左翼を支援した」(p275、英語版p248)と書かれているくらいだ。
 ブーデ師団のうち第30及び第59戦列歩兵半旅団は、合わせてゲナン准将が指揮する第2旅団を形成していた。マレンゴの戦いにおけるこの局面において、激しい戦いが行われていた場所にいたはずのこの旅団については、具体的にどんな戦いを行ったのかについて多くの歴史書がほとんど触れていない。もう1つの第9軽歩兵半旅団が、マレンゴの戦い後に「並ぶ者なき」と呼ばれるようになったのに比べて、実に影が薄い。
 いや単に影が薄いだけでなく、ほとんど忘れられているのではないかと思われるほど、ゲナン旅団への言及は乏しい。何しろマレンゴに関する一次史料の宝庫ともいえるde CugnacのCampagne de l'Armée de Réserve en 1800においてすら、彼らに触れている一次史料は少ない。デュポンが陸軍大臣に宛てて記した6月17日付の報告、ブーデの日誌、参謀副官ブロシエの書いた予備軍戦闘日誌、そしてマルモンの回想録のみが、この旅団について触れている。
 おまけに書かれている内容も限定的だ。デュポンはブーデ師団を構成する旅団の1つとしてゲナンの名前に触れているだけだし、ブロシエはこの旅団が街道の北側に布陣したことまでは触れているが、後はこの戦いで活躍した将兵の名を列挙する時にこの旅団の関係者が出てくるくらい。もっと残念なのはマルモンの回想録で、第30半旅団の名前が出てくるがde Cugnacの脚注73にもある通り、これはおそらく第9軽半旅団の書き間違いである。
 残るはブーデの記録であるが、これも読めば分かる通り、途中まで彼は第1旅団(つまり第9軽半旅団)とともに行動していたため、その間のゲナン旅団の動きについては街道の北側に布陣したことくらいしか言及していない。ドゼーが第9軽と合流した後にブーデはゲナン旅団へと向かい、そこでようやくこの旅団に関する記述が出てくるのだが、その内容はたったの3段落分しかない。

「第30及び第59半旅団で構成され、私自身が率いた第2旅団は、驚くべき大胆さ、力強さ及び素早さで敵軍の中央を追い払い、彼らを2つに分断した。正面と側面、背後からの砲撃と射撃、そして騎兵部隊の様々な突撃に対し、この旅団は継続的に自身を守らなければならなかった。特に騎兵は我々の背後を攻撃しようと何度も突撃してきた。だが我らの各大隊は、葡萄畑や他の障害物を通り抜けながらも密集縦隊で完全な秩序を維持し、騎兵の突撃を無駄に終わらせたのみならず、彼らに多大な損害を与えた。
 いくつかの地点で敵は恐ろしく抵抗した。彼らをマスケットの銃撃で追い散らそうと試みるのは、不必要な気晴らしでしかなかった。銃剣突撃のみが彼らを追い払えたため、空前の素早さと大胆さでそれが実行された。一部は徴集兵で構成されていたこの旅団を、称賛しすぎることはないだろう。彼らは古参兵たちとその勇気と堅固さを競い合った。
 銃剣突撃の際に2つの軍旗を奪った。1つは第59半旅団の擲弾兵大尉である市民コケレが、もう1つは第30半旅団の徴集された銃兵である市民ジョルジュ・アンティルが奪取した。後者は敵中隊がそれを取り戻そうとしているその眼前で、旗手を追撃し殺害して旗を奪った」
(de Cugnac, p400-401)

 以上がブーデの記録に出てくるゲナン旅団に関する記述だ。これ以外にde Cugnacは脚注で同旅団についていくつか触れているが、うち1つは旅団の配置に関する話(脚注49)にとどまる。脚注56では2つの半旅団の指揮官が、ゲナン准将の要請に応じて自分たちの戦闘に関する報告を出したことをデュポンに知らせた文章が採録されているが、その報告書そのものはどこにも書かれてない。脚注58ではブーデが18日にベルティエに宛てて書いた報告の中で、旅団の幹部たちの負傷について触れている部分が引用されているが、これもごく短いものにとどまる。
 要するにde Cugnac本の中でゲナン旅団の活動についてある程度きちんと記しているのは、上に紹介したブーデの記録しかないわけだ。そのブーデの記録も、見れば分かる通り時間や場所に関する詳細な記述は皆無に等しく、旅団が激しく戦ったことは分かるものの、具体的にどのように戦ったかについてはよく分からない文章になってしまっている。
 この日、ゲナンが率いた旅団の戦力はおよそ3300人。ケレルマンの部隊より桁1つ大きいわけで、それだけ関係者も数多くいたはずなのに、de Cugnac本におけるその扱いは地味を通り越してほとんど忘れられた存在になっている。彼らが戦場の中心から遠く離れた場所にいたのなら仕方ないが、実際には夕方からの主戦場であったサン=ジュリアーノ近辺で、多くの書籍で取り上げられているケレルマンや第9軽半旅団らのすぐ近くで戦っていたはずだ。にもかかわらず、彼らへの言及は奇妙なほど少ない。
 問題は、de Cugnacの本がマレンゴ戦役に関する「決定版」的な位置づけになってしまったことだろう。実際、彼の本はそう呼んでも遜色ないほど内容が充実しているし、一次史料が数多く掲載されている。マレンゴ絡みで疑問を抱くことがあれば、まずこれを参照すべきと言ってもいいくらいだ。ドゼーの行動についても、あるいは前回紹介したケレルマンの突撃についても、この本を紐解けば答えが見えてくる。
 だが後に編纂された歴史書は歴史そのものではない。どれほどよくできた書物であっても森羅万象すべてをカバーしていることはあり得ないし、当然ながら遺漏は存在する。一次史料そのものが残されていたとしてもそのすべてが採録されるわけではない。だからどれほど「決定版」とされる書物であっても、それだけに頼るのは実は拙い。
 その一例となっているのがこのゲナン旅団に関する話であり、この旅団に関連する(de Cugnac本に載っていない)一次史料を自ら探し出したTerry Crowdyの主張だ。彼が何を見つけ出し、歴史書で忘れ去られた史実をどう再構築したかについては、また次回に。
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