忘れられた旅団 1

 ネット上の記録は意外と簡単に消えてなくなってしまう。便利ではあるが資料を蓄積するアーカイブとしてどのくらい役に立つかというと、いろいろ欠点もあるのがネットだ。ナポレオニック関連についてもこの点は同様で、昔は閲覧できたサイトがいつの間にか消えてなくなっていた、という現象はそれほど珍しくはない。
 しばらく前にこちらのエントリーで「消えてしまうのではないか」と懸念していたサイトも、最近見たら予想通りに消えていた。一つはナポレオンの書簡集について一部をネットにアップしていたこちらのサイト、もう一つはナポレオニックを含むいくつかのゲームを出版している会社で、サイト内に昔の文献がアップされていたこちらのサイトだ。見ての通り、どちらも今や機能していない。
 もちろん、なくなっても困らない面はある。書簡集などは今ではgoogle booksで閲覧可能になっており、別の手段で調べることは可能だ。ただしそこまで都合のよくない文献史料も存在する。ゲーム会社のサイトで紹介されていたde CugnacのCampagne de l'Armée de Réserve en 1800(上下巻)はその一例。この本、上巻はgoogle bookで閲覧できるのに、下巻はなぜか閲覧不可の扱いとなっている。
 米国に住んでいれば、Hathi Trustに採録されているのを見ることは可能なのだが、残念ながら日本からは見られない。もしかしたらgoogle booksも似たような扱いとなっている可能性はある。Gallicaに採録されているなら問題なかったのだが、なぜかこの本はこちらにはない。
 結局、この手のものはウェブ魚拓のようなものに頼るのが最も確実となる。有名なのはInternet ArchiveのWayback Machineであり、実際にこちらを使うとまだ生き延びていた時代のサイトを閲覧することが可能だ。最初に紹介したサイトはこちらのurlで遡って中身を見ることができるし、de Cugnacの本を含めたゲーム会社サイトの史料群はこちらからアクセスできる。
 とはいえInternet Archiveに残っていれば絶対安全というわけでもない。過去にこのアーカイブから削除された事例もある。心配なら何らかの形で手元に残すという手段を取った方がいいのだろう。それにデジタル記録は手元にあっても消滅する懸念がゼロにはならない。であればいっそ紙の書物を購入してしまった方が手っ取り早い、という考えもある。実際、de Cugnacの本はアマゾンで上巻下巻も復刻版の購入が可能だ。
 以前から書いている通り、ナポレオン戦争に関して最も充実した史書が出版されていたのは19世紀末から20世紀初頭にかけてだ。この時期の書物はその多くが著作権切れとなっており、加えてgoogle booksがデジタル化したのに便乗した形での紙の出版も増えている。その意味では、そもそもデジタルデータしかないような最近の記録よりも、むしろ多様な形でデータにアクセスできるという意味で恵まれた研究対象かもしれない。逆にネットや書籍で手に入らないデータは、各国の公文書館まで足を運ばなければ入手できないのだが。

 とここまでは話の枕。ここからはマレンゴの戦いに関する最近の研究についての紹介だ。マレンゴの戦いについては以前から色々と議論がある。例えばドゼーがどのようにして戦場までたどり着いたかについての議論はこちらで触れているし、あるいはケレルマンの突撃に関する論争を紹介しているページもある。
 後者で論点となっているのは、追撃してきたオーストリア軍縦隊に対してケレルマンが行った騎兵突撃が、彼自身の判断でなされたのか、それとも具体的な命令があったのか、という点だ。ケレルマンは事前に一般的な命令しか受け取っておらず、突撃は状況を見て自分の判断で行ったと主張している。それに対し、ドゼーの要望に基づいてボナパルトが突撃命令を出したと主張しているのがサヴァリーだ。両者の議論はナポレオンの死後も続いていた様子が、上記のサイトから分かる。
 問題は、そこで紹介されている双方の言い分のほとんどが回想録に基づいていること。以前から書いている通り、回想録は正直信用できないことが多い。回想録以外でも、例えばベルティエの証言として採録されているのは1806年に出版されたマレンゴの戦いに関する公式記録、Relation de la bataille de Marengoの引用(p33)であり、いわば生情報ではなく編集された後の情報となる。
 もちろん、他に参照できる史料がないのであれば、回想録も編集済みの公式記録も立派なソースとして使えるだろう。だがマレンゴの戦いに関しては、よりリアルタイム性が高い当事者の残した史料がきちんと存在するし、それをまとめた文献もある。上でも紹介したde Cugnacの本がまさにそれ。ケレルマンの突撃について調べたいのなら、むしろそちらを調べるべきだろう。
 同書下巻の第8章がまさにマレンゴの戦いについて取り上げた部分だ。その中にはケレルマンが会戦の翌日、6月15日にヴィクトールに宛て記した報告書も載っている(p403-408)。その内容についてはこちらに(英語からの重訳だが)邦訳を置いているので、それを見てもらうのが簡単だ。ケレルマンはこの時点で「躊躇している時間はない、素早い行動こそ我らの旗に勝利を呼び戻すだろうと、私は考えた。私は横隊を止め、命じた。『左向け左、前進!』」と述べ、この行動が自発的なものだったと言明している。
 ケレルマンの報告よりも早い14日午後9時に書かれたベルティエからボナパルトへの報告書には、「動揺した後で再び攻撃しようとした敵歩兵」に対し、ケレルマンが「その機を捉え」saisit le moment「猛烈に突撃した」と書かれている。ここでもケレルマンが自ら突撃を判断したかに思えるような書きぶりだ。翌日に出された予備軍公報でも、ケレルマンが「大いに激しくかつタイムリーに」突撃したと書かれている(de Cugnac, p419)。さらに6月20日に、おそらくはナポレオンの命令でブーリエンヌが書いたと思われるベルティエ名の本国向け報告(de Cugnac, p425)にも「ケレルマンが突撃を命じ」という一文がある(p428)。
 だがそれが公式記録が出たころには、ケレルマンが命令に従って突撃したことになっていた。そしてそれがおかしいという意見は、既に1828年にはキャスル准将によって指摘されている(de Cugnac, p458)。de Cugnacは脚注66でケレルマンの突撃に関する論争がどのような経緯をたどったかを追っているが、古い時期の記録の大半が彼の判断であることを主張しているか、少なくとも否定していない(もしくは誰かの命令であったと明記していない)点を踏まえるなら、この件についてはケレルマンの主張の方が正しい可能性が高いだろう。
 もちろん、ケレルマンが言ったと伝えられている(ただしブーリエンヌの言うことなので信頼度は不明)「自分のおかげでボナパルトは王冠を被ることができた」(Mémoires de M. de Bourrienne, p351)という台詞は言い過ぎだろう。確かに彼の突撃はフランス軍の勝利を決定づけたが、そこに至るまでの一連の戦いと、その後のメラスを休戦に追い込むまでの過程まで含め、全部の功績をケレルマンのものにするのは無理がある。マレンゴにおける彼の突撃は、リヴォリの戦いでオーストリア軍を撃退する突撃を決めたラサールと同じようなものだと思う。タイミングが絶妙なため効果が大きく見えるが、それだけで勝負が決まったわけではない。

 ……とまあケレルマンの突撃に関する論争は昔からある程度の結論は出ていた。だが実はこのケレルマンの突撃に関連して、最近になってこれまであまり注目されていなかった事象についての研究が出てきたのだ。その内容については、長くなったので以下次回。
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コメント

Hiroshi
私もつい数日前に、長年利用させてもらっていた、サイトがいつの間にか消え、慌てました。幸い別のサイトを探し出して事なきを得ました。

各国の人口ピラミッドのデーターで(https://ourworldindata.org/)が何時の間にか消え。その代わりに探し出したのがここです。
https://www.populationpyramid.net/

公的データーベースだと思っていたのでちょっと驚きました。もしかすると単に閲覧制限がかかっているだけかもしれませんが?

desaixjp
Our World in DataはNPOが運営しているサイトですが、欧米のメディアがよく利用しているようですね。
ちなみに人口ピラミッドは以下のURLで見られました。
https://ourworldindata.org/global-population-pyramid
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