ジャワの火器 4

 承前。1927年にC. C. Bergが記したKidung Sunda. Inleiding, tekst, vertaling en aanteekeningenという文献に載っているKidung Sunda(スンダの歌)について調べよう。この文献はBijdragen Tot De Taal-land-en Volkenkunde Van Nederlandsch-indieという雑誌に掲載されたものであり、同書のp1-161が当該の文章だ。
 中を見ると分かるのだが、Bergはまず現地語で書かれた詩歌をそのまま紹介し(p7-56)、そのオランダ語抄訳を後から入れている(p61-133)。詩は全部で3部構成となっており、さらに各節に分かれている。現地語のある節に書かれている文章の意味は、オランダ語訳の同じ節を見れば理解できるわけで、この翻訳が間違っていなければオランダ語部分を見れば十分だ。というか現地語はgoogle翻訳を使っても正直よく分からなかった。ただbedilという火薬兵器を意味するとされる言葉の存在は確認できるので、それがある節のオランダ語訳を見ながらその意味を探ってみよう。
 まずは詩の第1部にある48節aのところ。戦争の準備をしている部隊のそばには「軍旗のようにいっぱいの武器が突き立てられており、一方で銃砲は朽ちていた」(p79)とある。正直この文章の意味はよく分からない。次は第2部82節で、「彼の軍には何も欠けるものはなかった。火器は列に並べられ、盾は雲のようであり、その中で剣が雷光のように明滅し、投げ矢は雨のごとく降り注ごうと脅すように向けられていた」(p103)とある。オランダ語訳を見る限り、この火器は手持ち式の銃のように思える。
 86節にはBrahmaçaraを正面に配置したという言い回しが出てくるが、脚注では本来の火矢という意味ではなく、bedilつまり火器の意味ではないかと指摘している。続く87節には船に乗っていたスンダ軍が銃砲を差し向け、弾薬を降り注げるようにして敵の前衛部隊を待っていたと書かれている。さらに90節では「銃砲がパチパチと音を響かせ、弾丸はあちらこちらへ飛び交った」との文言も登場する(p104)。銃声らしきものの描写がある点から、これが他の火薬兵器ではなく銃砲であることはおそらく間違いないと思われる。
 93節には引き続き激しい戦闘が行われた様子が描かれている。「船の上の銃砲はひっきりなしに撃たれ、大気中の雷のような(音がした)」そうだ(p105)。この描写も上と同じく、銃声の存在を示していると言えよう。96節でも戦闘の描写があり、その末尾には「カイトラ月の雷のように、大砲は恐ろしい(砲撃をした)」と書かれている(p105-106)。脚注によるとカイトラとはヒンドゥー暦の12月のことだそうで、おそらく雷につく枕詞のようなものだろう。
 第3部の50節には、戦いが終わった後の歓喜の様子が描かれている。歓声とともに「銃砲が撃たれた」という記述がそこには見られる(p126)。最後に69節には翌日の戦闘らしきものについての描写があり、そこでもまた「銃砲が互いに撃たれた」(p131)と書かれている。他にも現地語でbedilと書かれている節はあるのだが、残念ながらそれらはオランダ語抄訳では省略されている。
 それでもこの「スンダの歌」に出てくるbedilがどのようなものであるかを推測するには十分だろう。使われていた火器の一部は手持ち式の銃だったと思われるが、一方Cetbangのwikipediaで船の上で扱っていた銃砲を大砲としているように、より大型の火器が使われていた可能性もある。音に関する描写が多く、銃砲の存在を示しているとも取れる。
 つまりこのオランダ語訳が正しく、かつスンダの歌が信用できる同時代史料であれば、14世紀インドネシアに銃砲が存在した確率がかなり高まる。wikipediaのスカスカな主張に、ようやく実のある証拠が出てきたことになるわけだ。この歌が、本当に信用できる同時代史料なら。
 もうお分かりだと思うが、スンダの歌は残念ながら信頼できる同時代史料とはみなされていない。そもそもブバトの戦い自体、16世紀や15世紀の史料内には言及があるものの、まさに同時代史料であるNagarakretagamaの中には見当たらないのだそうだ。ブバトの戦いそのものがなかったとすれば、スンダの歌に歌われた銃砲の存在も砂上の楼閣となる。
 Kidung Sunda(スンダの歌)そのものの成立は16世紀だそうだ。この時期になれば既に後装式の旋回砲を含む各種の銃砲が欧州から伝わっており、従って詩を作った人間は銃砲の存在を知っていたことになる。こちらの記事には多くの学者がスンダの歌について疑っていることが紹介されている。それによればスンダの歌は二次史料どころか三次史料の可能性すらあり、碑文のようなより信頼性の高い他の史料と矛盾しているという。スンダの歌はオランダの植民地支配に都合のいい文献として使用されたとの主張もある。
 要するに、同時代史料かと思っていたこの「スンダの歌」は、確かに古いものの後の時代になって作られた二次史料でしかないわけだ。だとしたらそこに描かれている銃砲の存在も、詩歌が書かれた16世紀の知識こそ反映しているものの、14世紀の史実を伝えるものとみなすのは危ない。結局、Cetbangのwikipediaには14世紀の銃砲の存在について信頼に足るソースは全く提示されていないことになる。

 でもこれが15世紀になると話が違ってくる。以前にも紹介した鄭和の船員がジャワで火銃が使われているのを目撃したという中国語文献が出てくるからだ。瀛涯勝覽にはジャワの結婚式で「及打竹筒鼓并放火銃」、つまり火銃を撃つことがあったと記されている。この文献の成立は15世紀中ごろとされており、スンダの歌より古い。何より実際に鄭和と同行した馬歓が記したという意味では、重要度ははるかに高いだろう。
 しかも結婚式で使ったという点は、なかなか興味深い。戦場での使用ではなく、単なる祝い事で銃をぶっ放していたことになるわけで、それだけ銃の存在がジャワの人々にとってありふれたものになっていたのかもしれない。だとしたら銃そのものがジャワに伝わったのはもっと前、14世紀の後半から末期にまで遡る可能性もあるだろう。例えば元末の混乱期を通じて火器が中国外へ流れ出し、それがジャワまでたどり着いたとは考えられないだろうか。こちらこちらで14世紀末からインドシナ半島北部に火器が伝わっていたことを紹介しているが、それと変わらない時期にジャワにも伝わっていたと考えることはできそうだ。

 さらにインドネシア関連で見ておきたいのは、中国に伝わったフランキ砲についての話だ。フランキ砲についてはポルトガルが中国に来た後で急速に普及したのは間違いなさそうだが、ポルトガル人が持ち込む前から中国人はフランキ砲を知っていたという話がある。論拠となっているのは17世紀初頭に成立した萬暦野獲編だ。
 ただし同書の記述はそれ自体が矛盾している。ある個所ではフランキ砲の伝来を「弘治以後」、つまり弘治年間である15世紀末から16世紀初頭以降としているのに対し、別の場所では佛郎機大炮について「蓋正統以後始有之」、つまり正統年間(1436-1449年)以降としている。The Artillery of the Dukes of Burgundyを見ると欧州でも先端を走っていたブルゴーニュ家ですら後装式が増えたのは1430年代以降であり、そうすると正統年間はさすがに早すぎると思う。
 そうではなく、もし弘治年間が正しいのなら、萬暦野獲編にはとても興味深い記述がある。「始有佛郎機炮,其國即古三佛齊」、つまりフランキ砲は最初は「いにしえの三佛齊国にあった」というのだ。三佛齊とはマジャパヒトに征服される前にインドネシアにあったシュリーヴィジャヤ王国のこと。つまりフランキ砲はインドネシアを経由して中国に伝わったことになる。
 あり得なくはない。前に紹介した論文でも、インドネシアには1460年以降に後装砲が伝わっていた可能性があるとしていた。1488-1505年の弘治年間なら、フランキ砲がインドネシア経由で明に伝わったとしても矛盾はしない。モンゴル来寇直後からインドネシアに火薬兵器が大量にあったという主張は疑わしいが、東アジアから見て後装砲を伝えた中継地である可能性はそれなりにありそうだ。
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