次にこのwikipediaが論拠として示すのは、Thomas Stamford Rafflesの記したThe History of Java, Vol IIだ。確かに同書にはシャカ紀元で1247年、西暦だと1325年に各地の支配者がマジャパヒトの保護下に入った時、自分たちが持っているng'ai stómiという「銃砲」をマジャパヒトに渡したという話が載っている(p106)。これが事実なら14世紀前半の時点でジャワの各地には既に銃砲が広まっていたという結論になる。
次にCetbangのwikipediaに載っているのは、14世紀のマジャパヒト宰相ガジャ・マダが火薬兵器を使っていたという話だ。論拠はこちらの本になる。これまた21世紀になって書かれたものだ。しかもそこで紹介されているのは20世紀にジャワハルラール・ネルーが獄中で娘に宛てて記したGlimpses of World Historyくらいで、肝心のガジャ・マダが火薬を使ったという部分には論拠も一次史料も書かれていない(p57)。
次に出てくる「ジャワの大砲と砲兵に関する最も早い言及の一つには1346年のものがある」はさらに酷い。ここで出てくるのは19世紀後半に書かれたVoyage autour du mondeなのだが、そこには19世紀にジャワを訪れた人物が「遠い昔の世紀からある青銅の化け物[大砲]の前を、1346年にふさわしい砲兵がついている大砲の前を、そして吼える虎を入れた檻の前を通過した」(p366)という文言がある。別に1346年時点で大砲と砲兵があったと証言しているわけではなく、クレシーの戦いがあった1346年の砲兵にふさわしいような姿をした兵がいた、と欧州人が感想を述べているだけの部分だ。まさかこれを論拠に14世紀にジャワに大砲があったと主張されるとは、この旅行記を書いた人物も想像できなかったに違いない。
wikipediaの脚注で紹介されているのは、1927年にC. C. Bergが記したKidung Sunda. Inleiding, tekst, vertaling en aanteekeningenという文章。幸いにしてこれはインターネット上で確認できる。もちろんこの文献自体は20世紀のものだが、その中を見るとスンダの歌からの引用などがたくさん載っており、参考になりそうだ。ただし中身の分析は長くなったので次回に。
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