ジャワの火器 3

 インドネシアの火薬兵器について、まずははっきりしている点を押さえておこう。Cetbangのwikipediaにあるマジャパヒト時代を見ると、まずは冒頭にこれまで紹介してきたメトロポリタン美術館の明らかに間違った時代推定付き後装砲の画像が登場する。これについては前回前々回と問題を指摘済み。実はwikipediaではつい先月に前回紹介した論文に基づいて記述を色々と変更しており、この写真の説明でも推定時期を14世紀からca. 1470-1478へと変更している。
 文章の最初に出てくるのはモンゴル軍によるジャワ遠征への言及だ。これは元史に書かれている通りで、1293年に「聽砲聲接戰」という文言がある。wikipediaでソースとして取り上げられているのはOn the Invention and Use of Fire-Arms and Gunpowder in China, Prior to the Arrival of Europeansなのだが、そちらの方でも冒頭に取り上げられているのは元史のこの部分だ。
 前にも書いているが、元史で「火砲」という言葉は複数の意味で使われているように見える。1つは昔ながらの投石機を意味するものだが、もう一方で手持ち式の銃砲を意味すると見られる使用例も1287年と88年の記述に存在する。ジャワ遠征における記述は「砲声」とあるが、これが銃砲の放った音だったのか、それとも例えば震天雷のようなものを投石機で投じた結果として聞こえた音なのかは分からない。
 またこの記述から侵攻した元側が何らかの火薬兵器を使ったことは分かるが、マジャパヒト側がそれを使うようになったかどうかは不明。これを論拠に13世紀にインドネシアに火薬兵器、しかも銃砲があったと主張できるなら、日本も同時期には火薬兵器があったと言えてしまう。実際には日本側が火薬兵器の運用を始めるのはもっと後の時代であり、単に侵攻側が火器を使ったことを理由に火薬兵器の歴史が始まると主張するのは無理がある。
 この件についてwkipediaは最近の変更で文献を追加している(こちらこちら)が、いずれも20世紀以降のもの、つまり二次史料である。また前回紹介した論文に基づいて「モンゴル=中国から伝えられた火薬兵器は1種類以上の可能性もある」と追記し、使われたのが銃砲ではなく投石機やロケットなど他の兵器かもしれないと指摘している。
 次にこのwikipediaが論拠として示すのは、Thomas Stamford Rafflesの記したThe History of Java, Vol IIだ。確かに同書にはシャカ紀元で1247年、西暦だと1325年に各地の支配者がマジャパヒトの保護下に入った時、自分たちが持っているng'ai stómiという「銃砲」をマジャパヒトに渡したという話が載っている(p106)。これが事実なら14世紀前半の時点でジャワの各地には既に銃砲が広まっていたという結論になる。
 問題はこの本を書いたのが植民地支配を担当していた政治家であり、専門の訓練を受けた歴史家ではないことだ。そもそもこの本が書かれた19世紀前半の段階ではそこまで厳密な歴史的手法が確立していたとも言い難く、そこに書かれた話をどこまで信用すべきか悩むところ。つまるところ、この文献もまた問題となっているマジャパヒト時代から数世紀後の19世紀に書かれた二次史料にすぎず、その論拠となる一次史料にについての参照も存在しない。証拠としてはかなり弱いものだ。
 もう一つの論拠として示されているのがKedah Cannons Kept in Wat Phra Mahathat Woramahawihan, Nakhon Si Thammaratという2019年に書かれた文献だ。もちろんこれも二次史料には違いないが、もしかしたら一次史料への言及があるかもしれない、と思って読んでみると、残念ながら落胆が待っている。そこにはRafflesの書物からの引用と、もう一つApoorv Shelkeらのまとめた本にアラブの商人たちが「14世紀初頭から半ばにかけて」ジャワに火薬兵器を伝えたとの短い記述があるだけだ(p61)。
 そのApoorv Shelkeらの本とはThe Bulletというもの。これまた最近の書籍であって、一次史料ではない。そこに書かれている文章は、ほぼこちらのサイトのインドネシアの項目とほぼ同じ。そしてそこにある脚注を見ると、1つはこちらの本、2つ目はこちらの文献なのだが、どちらも題名を見れば分かる通り18~19世紀の話を中心に書かれたものと思われる。中身は分からないものの14世紀の出来事について詳細な論拠が書かれていると期待するのは難しいだろう。そして3つ目の脚注に載っているのは、これまたRafflesの本だ。
 次にCetbangのwikipediaに載っているのは、14世紀のマジャパヒト宰相ガジャ・マダが火薬兵器を使っていたという話だ。論拠はこちらの本になる。これまた21世紀になって書かれたものだ。しかもそこで紹介されているのは20世紀にジャワハルラール・ネルーが獄中で娘に宛てて記したGlimpses of World Historyくらいで、肝心のガジャ・マダが火薬を使ったという部分には論拠も一次史料も書かれていない(p57)。
 次に出てくる「ジャワの大砲と砲兵に関する最も早い言及の一つには1346年のものがある」はさらに酷い。ここで出てくるのは19世紀後半に書かれたVoyage autour du mondeなのだが、そこには19世紀にジャワを訪れた人物が「遠い昔の世紀からある青銅の化け物[大砲]の前を、1346年にふさわしい砲兵がついている大砲の前を、そして吼える虎を入れた檻の前を通過した」(p366)という文言がある。別に1346年時点で大砲と砲兵があったと証言しているわけではなく、クレシーの戦いがあった1346年の砲兵にふさわしいような姿をした兵がいた、と欧州人が感想を述べているだけの部分だ。まさかこれを論拠に14世紀にジャワに大砲があったと主張されるとは、この旅行記を書いた人物も想像できなかったに違いない。
 次に来るのはマジャパヒト海軍や海賊、さらには隣接するインドネシア諸島において大砲の使用が広まったという主張だ。だがこの論拠もまたRafflesの本であり、おまけにページ数も示していない。wikipediaの筆者が論拠をごまかそうとしているか、さもなくばそもそも自分で論拠となる文献に当たっていないのではないか、と疑いたくなる部分。それにRafflesの本を見ても海軍(navy)や海賊(pirates)という文言は見当たらず、本当にそうした記述があるかどうは不明だ。たとえあったとしても、くり返しになるが19世紀の書籍では論拠としては弱すぎる。
 wikipediaでは有名なマジャパヒトの提督が大砲の使用で名を上げたと記した後で、その提督の名は各種の碑文で触れられているとしている。論拠はこちらのアーカイブで紹介されている記事。確かに記事中には碑文に触れられている人名について色々と紹介されているのだが、その提督が火薬兵器を使ったかどうかについての言及は全くない。もっともらしく脚注をつけているが、本筋とは全然関係ない脚注であり、14世紀のジャワに火薬兵器が存在した証拠にはならないものだ。

 とまあここまで調べた限り、こけおどしのために脚注をたくさんつけてはみたものの中身はスカスカであることが分かる。以前こちらでも指摘したが、wikipediaには時にこういうものがある。強い主張を並べ、さも論拠が揃っているかのようにたくさん脚注を置く。でも肝心の脚注を見ると論拠不明な二次史料ばかりであり、おまけに時には引用元とは明らかに違うことを主張している。こういう事例を見つけた時には、一般的には「無理筋の主張をとにかく通すために強引なことをしている」と解釈するのが妥当であり、wikipediaを鵜呑みにしてはならない事例がまた増えたと見るべきである。ここまでの記述に限れば。
 実はその後に1つ、このwikipediaの中で一番興味深い話が登場する。マジャパヒトが隣国であるスンダ王国と1357年に行ったブバトの戦いに関する記述だ。残されているKidung Sunda(スンダの歌)と呼ばれる詩歌を見ると、その中にbedil、つまり火薬兵器を使った記述が存在するというのだ。二次史料ばかりを紹介しているこのwikipediaに、ようやく古い史料らしきものが登場してきたわけで、これは本腰を入れて調べるに値する。
 wikipediaの脚注で紹介されているのは、1927年にC. C. Bergが記したKidung Sunda. Inleiding, tekst, vertaling en aanteekeningenという文章。幸いにしてこれはインターネット上で確認できる。もちろんこの文献自体は20世紀のものだが、その中を見るとスンダの歌からの引用などがたくさん載っており、参考になりそうだ。ただし中身の分析は長くなったので次回に。
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