ジャワの火器 2

 前回のラストに紹介した論文の題名はANTARA CERITA DAN SEJARAH: MERIAM CETBANG MAJAPAHIT。インドネシア語で、邦訳するなら「物語と歴史の間:マジャパヒトの大砲Cetbang」あたりだろうか。論文の筆者によると、Cetbangはインターネットへのアクセスが容易になった2010年以降になってインドネシアで広く知られるようになったらしい。
 ネットのソースによればCetbangは後装式の旋回砲であり、長さは1~3メートルで、バズーカのように使うのだそうだ。旋回砲と言っているくせにバズーカのように手持ちで撃つというのもおかしな話であり、正直こう書かれている時点で怪しさ満点だが、ネットだとそんな低レベルの主張ですら受け入れられてしまうことを示す一例だろう。実際ネットにはCetbangについてこんな絵が描かれていたりするので、Cetbangを手で持って撃つという主張が一部で受け入れられているのは事実である。
 ネット以前にも小説でCetbangは取り上げられていたらしいが、アカデミックな論拠を探すとこれが結構混乱しており、単なる大砲説、ロケット説などが飛び交っているという。また記録に出てくるのは1500~1506年に行なわれたマジャパヒトとギリとの戦争において、前者の200人の兵が100門のCetbangを使ったというものがあるそうだが、Cetbangの形状や描写などはない。
 そもそも昔にさかのぼるとCetbangという言葉自体がなく、古くはbedilという言葉が使われていたそうだ。これはタミル語のwedilとwediluppuに由来するもので、それぞれ火薬と硝酸カリウムの炎上を意味するものだったそうだが、インドネシアでは火薬を使うあらゆる兵器を意味するものとなったそうだ。またwarastaという言葉もあり、これは各種の矢を意味する言葉だったそうだ。論文筆者は、Cetbangという言葉は中国語の銃筒(chongtong)という言葉がなまったものではないかと見ている。
 そのうえで著者はCetbangの特徴を思われるものを5つ挙げている。青銅製の銃砲であり、矢または弾丸を撃ち出していた(ロケットではない)。薬室はあったが後装式ではなく前装式であり、旋回砲ではなく固定した砲台の上に載せていたか手持ち式だった。そして最後に尾部には棒に固定するためのソケットがついていた。上記の記述は、何のことはない、元の時代に製造されていた中国風の古い金属製銃砲と同じ特徴を並べているだけである。
 では今のネットで言われているCetbangの特徴はどこから来たのか。論文筆者は中国のフランキ砲について説明し、それが欧州やオスマン帝国から伝わったことを紹介している(ちなみに中国ではフランキ砲をジャワ銃とも呼んでいたという)。さらにJohn CrawfurdのA Descriptive Dictionary of the Indian Islands & Adjacent Countriesの考察(p22-23)から、アラブ人経由でインドネシアに後装砲が伝来したのは15世紀半ば(1459年)以降だろうと推測している。
 そのうえでこちらの論文でもメトロポリタン美術館のサイトが紹介され、「後装式の旋回砲がインドネシア諸島に入ってくる前の日付であるため、この日付は間違っている」と指摘。一方でその大砲にマジャパヒトのシンボルが描かれていることを踏まえ、砲の製造時期はマジャパヒト滅亡直前の1470~1478年ではないかと記している。もちろんこれらの砲がバズーカのように手持ちで使われたことはあり得ない、というのが論文筆者の考えだ。反動によって骨折は避けられなかったはずだろうと論文中では指摘されている。
 結論としてこの論文は以下のようにまとめている。最初のCetbangは中国の砲で、モンゴルの遠征によってインドネシアに伝わった。前装式の青銅砲で、矢や弾を撃ち出しており、時には鏃が爆発するようになっていた。一方、1460年以降に現れた旋回式の後装砲であるCetbangはオスマン帝国やポルトガル、つまり西洋風のCetbangだった。要するに最初に東洋風の、後に西洋風のCetbangが順番に現れたのであり、後装式だった後者は早く見積もっても15世紀後半にようやくインドネシアに現れた、というのが論文の結論だ。

 後装砲の存在時期については前回紹介したredditの指摘とあまり変わらないし、大きな問題はないだろう。それ以外にも現在のインドネシアにおけるCetbangの扱われ方や、それらが文献に出てくる時期、後装砲の伝来時期に関する記述など、色々と参考になることの多い文章だ。その意味では役に立つと言える。
 特にフランキ砲がジャワ銃とも呼ばれていたという部分は実に興味深い。実際、そういわれて探してみると、殊域周咨録という明代の中国の文献に面白い記述が見つかる。月山叢談という文献からの引用だが「佛郎機與爪哇國用銃,形製倶同。但佛郎機銃大,爪哇銃小耳」との文言が存在するのだ。フランキ砲とジャワ国の銃の形が同じであるが、前者の方が大きいという文章だ。また小山類稿の中にもフランキ砲の説明をしているところで、その小さいものをジャワ銃と呼んでいるとの記述がある。
 面白いことにこのジャワ銃については、手持ち式で運用していたのではないかと思われる記述が中国側の文献にいくつかある。泉翁大全集には大量に製造したジャワ銃について「此銃易系於肩,倏忽易發」、つまり肩にぶら下げてすぐ発射できるという記述が見られるし、清代の書物になるが、廣東新語にはジャワ銃について「形如強弩,以繩懸絡肩上,遇敵萬銃齊發,貫甲數重」と、同じように肩からぶら下げて使っていたことが書かれている。
 もちろん論文が言うように現在まで伝わっている後装砲を実際にバズーカのように手で持って使っていたとは考え難い。そうではなく、中国語文献に出てくるこの「ジャワ銃」の記述を、実際にジャワで発見された古い火器にそのまま当てはめた人間がいたのではないかと思われる。実際には肩にぶら下げていたとある以上、ジャワ銃はほぼ手銃と同じサイズのものだったと思われるし、もしかしたら中世欧州で見られた手持ち式クロヴリヌのような兵器だったのかもしれない。
 そのように役立つ情報がある一方、これはどうかと思われる記述もある。まずはCetbangが中国語の銃筒由来であり、古いジャワ語ではタミル語に由来するbedilが使われていたという部分。その指摘が正しいのなら、インドネシアではまずインド洋方面から火薬兵器が伝わり、その後で中国からの兵器が新しく届いたと解釈できる。ところが論文では結論として、最初にやって来たのは中国の兵器であり、その後にポルトガルやオスマンの武器がインド洋経由で伝来したと説明している。これは矛盾ではなかろうか。
 また、インド洋経由で後装式の火器が伝わる前に、中国製の銃砲が伝来していたという部分については、具体的な論拠が見当たらない。論文で紹介されているCetbangの使用例は1500~1506年の戦争で使われたものだけだが、これは既に西からの火器が伝わった後の出来事であり、もっと前の時代に火器が使用されていた文献証拠が提示されているわけではない。もちろん、古い時期のCetbangが(もしあったとしたら)中国の古い火器とほぼ同じであっただろうという想像自体はおかしくはないし、ネット上の荒唐無稽な妄言に比べればずっと現実味のある説明だとは思う。でも、その証拠はどこにあるのだろうか。
 実は証拠はある。インド洋経由の火器が到着する前にインドネシアに火器が存在していたと見られる論拠は存在している。ただし、この論文筆者はそれを示していない。おそらく筆者は単にそこまで調べきれなかったのだろう。そもそもの関心がCetbangという言葉の由来の方に重きを置いているためか、論文では史実がどうであったかを調べる点は後回しになっている。
 メトロポリタン美術館の「やらかし」が「やらかし」であることを調べるうえでは、前回のredditの文章と今回の論文は役に立つ。だがそこからさらに踏み込み、インドネシアの火薬兵器史がどうであったかを調べるうえでは、前者はもとより後者もあまり役に立たない。そして前回紹介したCetbangのwikipediaには、14世紀にマジャパヒトで火薬兵器が使われていたとする話がいくつも載っている。別にメトのサイトだけを論拠にしているわけではない。だが一方、14世紀時点での世界の火器の普及度合いを踏まえるなら、インドネシアでそこまで火器が広まっていたと考えるのも容易ではない。
 一体、インドネシアにはいつから火薬兵器があったのだろうか。次回はこのあたりを真面目に調べてみたい。
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