小伍長

 ナポレオン漫画関連の続き。ロディの戦い後に、兵士たちがボナパルトを「ちびの伍長」(petit caporal)と呼ぶようになったという話がある。これが史実かどうかについて、少なくともこちら"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Lodi"では「事実ではなく神話では」と疑問を呈している。果たしてどちらなのだろう。

 ボナパルトが同時代人から「ちびの伍長」と呼ばれることがあったのは間違いないようだ。1804年に発行されたHenry Redhead YorkeのLetters from France"http://books.google.com/books?id=d8ABAAAAYAAJ"には、ナポレオンに批判的なフランス議員が「ちびの伍長」(p298)という言い方をしていた、と書かれている。同じ1804年発行でJean Francois de Saint-Lambertが著者のBuonparteana"http://books.google.com/books?id=2oIDAAAAQAAJ"にも同じ表現が出てくる(p49)。そこでは英国の新聞が皮肉たっぷりに命名したものとして、この言葉が紹介されている。
 そう。私の見つけた限りでは、同時代に使われていた「ちびの伍長」は愛称というより悪口として使われているのだ。そりゃ、普通に考えればそうだろう。将軍→執政→皇帝と昇進した人間を捕まえて、兵士より一つ階級が上の「伍長」呼ばわりしたうえに、ちびという言葉まで付け加えているのだ。愛称ではなく蔑称だと言われても、何の違和感もない。Louis Antoine Fauvelet de BourrienneのMemoirs of Napoleon Bonaparte, Vol. I"http://books.google.com/books?id=qwQKAAAAIAAJ"でも、ナポレオンがクーデターを起こす直前にバラスがナポレオンについて述べた台詞の中で使われており(p239)、愛称とは言えそうにない。
 もっとも欧米人は自分に向けられた蔑称を自ら愛称として使う図太さを持ち合わせているので、この呼称も単純に蔑称だけとは言い切れない。実際、ナポレオン戦争後に書かれた回想録の中などでは兵士による愛称として「ちびの伍長」が使われている例もある。たとえばMathieu DumasのPrecis des evenemens militaires, Tome III"http://books.google.com/books?id=rUSe2Yk-DOEC"には、兵士たちの言葉として「ちびの伍長は新しい戦争のやり方を見つけやがった。あいつは俺たちの銃剣より足の方を使っている」(p101)というのを紹介している。

 で、結局のところこの「ちびの伍長」という言葉はいつ、どのようにして使われ始めたのか。一般に言われている「ロディの戦い後」という説の元になっているのはEmmanuel-Auguste-Dieudonne Las Casesの本だろう。

「指揮官の若さゆえに、もしくは他の要因から、風変わりな習慣がイタリア方面軍でできあがった。戦闘の後に最も年上の兵士たちが会議をひらいて彼らの若い将軍の新しい階級について話し合い、将軍が宿営地に現れた時には古参兵たちからその新たな肩書きで出迎えられたものだった。兵たちはロディで彼を伍長に、カスティリオーネで軍曹に任命した。かくして長いこと兵士たちによってナポレオンにつけられたあだ名『ちびの伍長』が生まれた」
Memoirs of the Life, Exile, and Conversations of the Emperor Napoleon, Vol. I"http://books.google.com/books?id=jnUuAAAAMAAJ" p108

 さて、果たしてこの話は史実なのだろうか。まず読めば分かる通り、この話はナポレオンの言葉を引用したものではなく、ラス=カーズが地の文で書いている。そしてラス=カーズはフランス革命中は海外に亡命しており、フランスに戻ったのはナポレオンが政権を握った後のこと(Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p240, Philip J. Haythornthwaite "Who was who in the Napoleonic Wars" p183)。つまり、彼はロディの戦場にはいなかったのだ。
 現場にいなかった人物の記した文章というわけで、ラス=カーズの記録は「ちびの伍長」に関しては二次史料だと言える。ではもっと他にいい史料はないのだろうか。たとえばナポレオン自身による証言などは…。
 ある。Barry Edward O'Mearaがナポレオンの言葉として引用している文章の中に、ナポレオン自身がこのあだ名について語ったものが存在するのだ。それは、一般に知られているのとはかなり異なる話である。

「(前略)私がとても山がちで地形の困難なコレ=ディ=テンダで指揮を執っていた時、その地に入るため軍が狭い橋を通らざるを得なくなった。私はそこでの軍務が最も困難になると見て、兵たちを絶えず警戒状態に置くため1人の女性も同行させないよう命じた。この命令を実行するため私は、命令違反の場合は死刑という条件で1人の女性も通さないよう橋に2人の大尉を置いた。命令が厳守されているかどうか見るため自ら橋に行ったところ、そこに女性の群れが集まっているのを見つけた。彼女らは私に気づくや否や、私を罵り始め、大声で叫んだ。『そこのちび伍長、あんたがあたしらを通すなって命令したんだね』。かくして私は軍からちびの伍長と呼ばれるようになった」
Napoleon in Exile, Vol. II"http://books.google.com/books?id=zaUNAAAAIAAJ" p50

 …ナポレオンって面白い話をするなあ。何だかファンになってしまいそうだ。「ちびの伍長」という名前がついたのはロディの橋ではなくコレ=ディ=テンダ"http://en.wikipedia.org/wiki/Col_de_Tende"の橋、あだ名をつけたのも勝利に酔った兵士たちではなく、怒り罵倒していた女性(おそらく大半は娼婦)たち。「ナポレオン伝説」も形無しである。
 もしこの話が事実だとしたら、これはいつのことだろうか。おそらくロディの戦いがあった1796年よりも前だろう。96年戦役でボナパルトはテンダよりずっと東方で山を越えた。彼がコレ=ディ=テンダに足を伸ばす機会があったとしたら、それは1794年戦役のことだと思われる(具体的な証拠は無いが)。つまり、あだ名の由来はよく知られている説よりも古いということになる。
 とりあえず、他でもない当人が言っているのだから、このコレ=ディ=テンダの逸話こそ有名な「ちびの伍長」が生まれた瞬間だと考えていいだろう。より具体的な他の証拠が見つかれば別だが、後に欧州の征服者となるこの人物に向かって最初にこの呼び名を浴びせたのは、多分娼婦だった。

 ついでにもう一つ。Ramsay Weston Phippsはロディの戦いで、オージュローが軍旗を持ってマセナ師団の後にやって来たという話を紹介している(Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume IV" p36)。それの論拠ではないかと思われる話がアイルランドの独立運動家だったTheobald Wolfe Toneの残した記録に掲載されていた。1797年3月に彼がパリで目撃した光景だ。

「3日前、私はイタリア方面軍のオージュロー将軍がもたらした[神聖ローマ]皇帝の軍旗60旒を見た。それはマントヴァで奪取したものだった。総裁政府の議長ルーベルは、返礼としてオージュローが敵の砲撃下ロディの橋上で運んだ第62半旅団の軍旗を、500人議会の投票で決定した通り彼に与えた」
Life of Theobald Wolfe Tone, Vol.II"http://books.google.com/books?id=_ccJAAAAIAAJ" p348

 Toneの話が事実なら、オージュローは軍旗を持ってロディの橋を進んだと総裁政府から思われていたらしい。ボナパルトの送った報告と矛盾しているこの話を総裁政府がどうして受け入れたのか、そのあたりの理由は分からない。

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コメント

No title

Marshals
どうでしょう? ナポレオンの話の方がただの冗談に聞こえるけど。
「ちび」と言われる理由はわかるけど、士官の格好をしているナポレオン相手になんで「伍長」といったのか罵倒の意味がわからないよね。袖を見れば一目瞭然。適当に作った笑い話だと思う。

No title

Marshals
あとテンド峠の近くで戦ったのは1794年だけだけど、ナポレオンはテュローの妻に見せるためだけに戦闘をやらせたという話もあるし、ただの砲兵司令官なのに女性の通行を禁止するような権限があるこかも?だね。

No title

desaixjp
通説である「兵士がつけたあだ名」を裏付ける当事者の発言があればともかく、それがない以上はナポレオンの言葉を採用するしかないでしょう。ナポレオンの話が冗談だという証拠があれば話は別ですが「ただの冗談に聞こえる」だけでは論拠にならないと思います。
もし具体的な論拠があるのならぜひともご提示をお願いします。
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