承前。
1799年
●マインツ方面軍
共和国暦7年プリュヴィオーズ11日(1月30日)付の全体命令に従って出された同15日(2月3日)の布告によって監視軍の名の下に新たな軍がその担当区域に形作られ、同16日から21日(2月4日から9日)に施行された(1)。ジェルミナル14日から20日(4月3日から9日)に施行されたジェルミナル8日(3月28日)の布告により、監視軍は廃止される
・司令官
ジュールダン将軍、1月1日から3月6日(共和国暦7年ニヴォーズ12日からヴァントーズ16日)、ヘルヴェティア方面軍と、2月9日(プリュヴィオーズ21日)以降は監視軍への上位指揮権を持つ
ドラボルド将軍、2月9日から18日(プリュヴィオーズ21日から30日)まで、そしておそらく2月23日(ヴァントーズ5日)まで、ジュールダンの部下として暫定的に監視軍を指揮(2)
ベルナドット将軍、2月24日から4月8日(ヴァントーズ6日からジェルミナル19日)、ジュールダンの部下として監視軍を指揮
・担当区域
1月1日(共和国暦7年ニヴォーズ12日):デュッセルドルフからモン=テリブル県までのライン左岸、ライン左岸の4県、第5軍管区、ケール、及びマインまでの右岸征服地
2月9日(プリュヴィオーズ21日):マインとラーン間に監視軍を編成、2月17日、ジュールダンがこの軍にライン左岸の新たな4県を担当区域として割り当てた
3月1日(ヴァントーズ11日):ジュールダン将軍はケールでマインツ方面軍とともにラインを渡ってドナウ源流へ向かい、第5軍管区は監視軍の担当区域に入る
・備考
(1)監視軍がマインツ方面軍から分かれ別の区分に当たると考えてはいけない、監視軍はあまりに短期間しか存続せず、実際にはマインツ方面軍の左翼をカバーし後方を守るための予備でしかなく、最終的にはこの軍の1個師団となった。
(2)2月、ジュールダン将軍はブールシエ将軍に対し、監視軍を構成する目的の部隊を急ぎ編成するために一時的に指揮を執るよう命令し、ラインの線にある新たな4県(モン=トンヌル県、ザール県、ラン=エ=モーゼル県、ルール県)をこの軍の担当区域にした。第5軍管区はストラスブール周辺に集まったマインツ方面軍の担当区域に一時的にとどまったが、ブールシエ将軍の指揮に関する痕跡は見つけられない、もしそれが施行されたのだとすれば、それは2月19日から23日(共和国暦7年ヴァントーズ1日から5日)だった、18日、ドラボルド将軍はなお指揮を執っており、そして24日、ストラスブールに到着したベルナドット司令官が指揮を執った。
p555-556
●ドナウ方面軍
ヴァントーズ12日(3月2日)の総裁政府の布告に基づき、ジュールダン将軍はヴァントーズ17日(3月7日)、監視軍にドナウ方面軍の名を与えた。メシドール30日とテルミドール2日(7月18日と30日)に施行されたプレリアル19日と25日(6月7日と13日)の布告により、ドナウ方面軍はライン方面軍及びドナウ方面軍に分割された
・司令官
ジュールダン将軍、3月7日から4月8日(ヴァントーズ17日からジェルミナル19日)、ヘルヴェティア方面軍及び監視軍への上位指揮権を持つ
マセナ将軍、4月9日から16日(ジェルミナル20日から27日)まで暫定指揮、ヘルヴェティア方面軍への上位指揮権を持つ、また4月17日から28日(ジェルミナル28日からフロレアル9日)はドナウ方面軍とヘルヴェティア方面軍を指揮
マセナ将軍、4月29日から7月17日(フロレアル10日からメシドール19日)
マセナ将軍、7月18日から11月29日(共和国暦7年メシドール30日から共和国暦8年フリメール8日)
テュロー将軍、11月30日から12月11日(フリメール9日から20日)、暫定指揮
・担当区域
3月28日(ジェルミナル8日)(布告による)、4月3日から9日(ジェルミナル14日から20日)に施行:監視軍の一部の兵とこの軍に割り当てられた担当区域はドナウ方面軍に再統合された
4月29日(フロレアル10日):デュッセルドルフからバーゼルまでのライン全流域、ライン左岸の新たな4県、第5軍管区、モン=テリブル県とヘルヴェティア共和国
7月3日(メシドール15日)(布告による)、7月20日施行:ユナングの町、モン=テリブル県、ベルフォールの町、ドゥー県、ジュラ県、アン県、オート=ソーヌ県(第6軍管区)
p557
●ライン方面軍
共和国暦8年フリメール3日(11月24日)の布告により、ライン方面軍とドナウ方面軍はライン方面軍の名の下に統合
・司令官
ミュレ将軍(1)、7月15日から9月24日(共和国暦7年メシドール30日からヴァンデミエール3日)、暫定指揮
ネイ将軍、9月25日から10月23日(ヴァンデミエール4日からブリュメール2日)、暫定指揮
ルクルブ将軍(2)、10月24日から12月5日(ブリュメール3日からフリメール14日)
バラギュイ=ディリエ将軍、12月6日から27日(フリメール15日からニヴォーズ6日)、左翼を指揮(3)
ルクルブ将軍、12月12日から27日(フリメール21日からニヴォーズ6日)、右翼を指揮
モロー将軍、12月28日から31日(共和国暦8年ニヴォーズ7日から10日)(4)
・担当区域
6月13日(プレリアル25日)(布告により)、7月20日(テルミドール2日)施行:デュッセルドルフからユナングを除くところまでのライン流域、モン=トンヌル県、ザール県、ラン=エ=モーゼル県、ルール県、ヌフブリザックを含むところまでの第5軍管区
8月1日(テルミドール14日)(布告により)8月5日(テルミドール18日)に軍に届く:第2、第3、第4軍管区が軍担当区域に追加された
11月24日(共和国暦8年フリメール3日)(布告による)、12月6日から12日(共和国暦8年フリメール15日から21日)に施行:ジュネーヴからクレーフェまで延伸し、第3、第4、第5、第6及び第26軍管区も、第2軍管区は国内制度に入る
・備考
(1)ドナウ方面軍の担当区域が大いに拡大したため総裁政府は指揮権の分割を決め、6月7日(プレリアル)19日の最初の布告でユナングからデュッセルドルフまでのラインの戦線を分け、6月13日の2つ目の布告でライン方面軍を創設し、その担当区域として第5軍管区とモン=トンヌル県、ザール県、ラン=エ=モーゼル県、ルール県を割り当てた。この軍の指揮官に任命されたモロー将軍は到着せず、兵たちがマインツ周辺に集まり始め、7月10日(メシドール22日)の新たな布告によりミュレ将軍に対してライン方面軍を組織し暫定的にその指揮を執るよう指示がなされた。マインツに到着したこの将軍は、18日(メシドール30日)から自らに任せられた指揮権を執り、命令を出したが、ドナウ方面軍とライン方面軍の兵と担当区域の最終的な分割はようやく7月20日(テルミドール2日)になって実行された。
(2)9月25日(共和国暦8年ヴァンデミエール3日)の布告でライン方面軍の司令官に任命されたルクルブ将軍は、10月9日(ヴァンデミエール17日)にストラスブールに到着して命令を出し始めた。ただし24日(ブリュメール2日)までは軍の実働部分の指揮官だったネイ将軍がマンハイムとフィリップスブルクへの作戦を指揮し、24日にマンハイムで最終的にルクルブ将軍に指揮権を譲った。
(3)12月6日(フリメール15日)、ルクルブ将軍は新たなライン方面軍の左翼となったライン方面軍の指揮権を、司令官の補佐官だったバラギュイ=ディリエ将軍に譲り渡し、それからチューリヒに向かい、そこで12日(フリメール21日)に宣言を出し、ライン方面軍の名の下にドナウ方面軍とライン方面軍の再統合を発表した。
(4)パリにとどまったモロー将軍は、そこから部下たちと連絡を取り、12月26日(共和国暦8年ニヴォーズ5日)にバーゼルに到着してライン方面軍の担当区域にいくらかの命令を出したが、チューリヒの司令部に合流した後の28日まで指揮権を握らなかった。ドナウ方面軍とライン方面軍の統合が完成した日から、分割して別の軍になるまで、それぞれは特定の将軍に従っており、実際には昔の名称から、ライン方面軍の右翼と左翼に変わっただけだった。
p558-559
●ローマ方面軍
共和国暦7年ブリュメール15日(1796年11月5日)の総裁政府の布告に従い、シャンピオネ将軍は1月24日(共和国暦7年プリュヴィオーズ5日)にナポリ方面軍を宣言した。メシドール16日(7月4日)の布告によってイタリア方面軍と合流し、8月4日(テルミドール17日)にそれを実行した。
・司令官
シャンピオネ将軍、1月1日から23日(ニヴォーズ12日からプリュヴィオーズ4日)、イタリア方面軍司令官の部下
ナポリ方面軍
シャンピオネ将軍、1月24日から2月27日(プリュヴィオーズ5日からヴァントーズ9日)、イタリア方面軍司令官の部下
マクドナルド将軍、2月28日から8月3日(ヴァントーズ10日からテルミドール16日)、イタリア方面軍司令官の部下
・担当区域
1月1日(ニヴォーズ12日):ローマ共和国とナポリ王国内の征服地
ナポリ方面軍――1月24日(プリュヴィオーズ5日):ナポリ王国とローマ共和国
1月30日(プリュヴィオーズ11日)(布告による):イオニア諸島、マルタとその属領が担当区域に移る
p560
●イタリア方面軍
メシドール17日(7月5日)の布告によりアルプス方面軍とイタリア方面軍に分割となり、7月21日(テルミドール3日)に施行
フリュクティドール12日(8月29日)の布告でアルプス方面軍の消滅とイタリア方面軍への再統合が決まり、9月1日(フリュクティドール15日)に施行
・司令官
ジュベール将軍、1月1日から31日(ニヴォーズ12日からプリュヴィオーズ12日)、ローマ方面軍に対する上位指揮権を持つ
デルマ将軍、2月1日から3月6日(プリュヴィオーズ13日からヴァントーズ16日)、臨時指揮
ブリュヌトー・サント=シュザンヌ将軍、3月7日から11日(ヴァントーズ17日から21日)、暫定指揮
シェレール将軍、3月12日から4月26日(ヴァントーズ22日からフロレアル7日)、ナポリ方面軍に対する上位指揮権を持つ
モロー将軍、4月27日から8月4日(フロレアル8日からテルミドール17日)、ナポリ方面軍に対する上位指揮権を持つ(1)
ジュベール将軍、8月5日から15日朝(テルミドール18日から28日)、イタリア方面軍とアルプス方面軍を指揮
シャンピオネ将軍、7月21日から8月31日(テルミドール3日からフリュクティドール14日)、アルプス方面軍を指揮、8月15日までジュベール将軍の部下(テルミドール3日から28日)(2)
モロー将軍、8月15日から9月20日朝(テルミドール28日から閏4日)、暫定指揮
シャンピオネ将軍、9月21日から12月30日(共和国暦7年閏5日から同8年ニヴォーズ9日)(3)
スーシェ将軍、12月31日(ニヴォーズ10日)、臨時指揮
・担当区域
1月1日(共和国暦7年ニヴォーズ12日):ピエモンテ、チサルピナ共和国、リグリア共和国、イオニア諸島、コルシカ、マルタとその属領
1月30日(プリュヴィオーズ11日)(布告による):イオニア諸島、マルタとその属領はナポリ方面軍の担当区域に移行
6月3日(プレリアル15日)(布告による):第7、第8軍管区がイタリア方面軍に割り当て
7月6日(メシドール18日)(布告による):ジェノヴァからバルチェロネット峡谷までのアルプス防衛はアルプス方面軍に任せられ、彼らは第7、第8、第19軍管区を担当区域とする。イタリア方面軍はジェノヴァとアペニンを占拠
8月29日(フリュクティドール12日)(布告による)、9月1日から21日に施行:アペニンとアルプスの山脈、ジェノヴァからサン=ベルナール、第7、第8、第19軍管区
・備考
(1)4月26日(共和国暦7年フロレアル7日)、シェレール将軍に呼ばれたモロー将軍はカッサーノにある軍司令部に到着し、司令官がミラノに出発していたのを知って臨時に指揮を執った。オーストリア軍のアッダ渡河の知らせを受け取った彼はすぐシェレールに知らせ、急ぎ軍の指揮に戻るよう主張した。回答の代わりにシェレールは翌27日(フロレアル8日)、総裁政府からのフロレアル2日(4月21日)の命令を送った。この命令はモローをイタリア方面軍とナポリ方面軍の司令官に任命していた。既に前哨線は敵と戦っており、モローは戦場で兵士たちに対し、総裁政府が彼に指揮権を与えたことを知らせた。
(2)7月21日(テルミドール3日)、グルノーブルに到着したシャンピオネ将軍はアルプス方面軍司令官として承認され、急ぎ組織することになったこの軍に割り当てられた第7、第8、第19軍管区を指揮した。
8月2日(テルミドール15日)、ジュベール将軍はジェノヴァに到着したがモロー将軍を見つけられなかった。後者は移動を監督するために離れており、戻って来た5日(18日)までこの将軍から命令を受けることはなかった。4日、彼はナポリ方面軍をイタリア方面軍に再統合するよう命じた。
(3)8月31日(フリュクティドール14日)午後11時、シャンピオネ将軍はアンブリュンでアルプス方面軍を消滅させ、イタリア方面軍と統合してその軍の指揮権を与えるというフリュクティドール12日(8月29日)付の命令を受け取った。彼はすぐそれを実行した、9月1日(フリュクティドール15日)以降、彼はアルプス方面軍の幕僚を解散し、イタリア方面軍の左翼となったそれを構成する兵の指揮をグルニエ将軍に渡し、9月3日(フリュクティドール17日)に司令部があるジェノヴァへと出発した、だが彼がそこに到着し、最終的にモロー将軍の指揮権を受け取ったのは9月21日(閏5日)だった。
p561-562
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