マーケット・ガーデン作戦関連本として、Robert Kershawの
It Never Snows In September を読了した。
以前にも書いた ように、ドイツ軍の動向に焦点を当てて記した書物だ。amazonで見つかるのは2004年や2008年に出た版だが、初版の発売は実は1990年まで遡る。何しろ1991年には解散した
「ワルシャワ条約機構」 の名前が出てくるほど。Warsaw Pactという文字列を見てすぐにピンとくる人は、正直おっさんだろう。
逆に、今から30年ほど前の書物だからこそ、まだ戦いの生存者に多く話を聞けたのだろう。当時はマーケット・ガーデン作戦から既に45年強が経過していたことになるが、ドイツ軍側で戦った若者たち(戦争時は20歳未満)はまだ60歳台であり、著者のインタビューに応じることができた人も数多くいたことだろう。当時の関係者を現時点で探そうとするなら100歳近い人になってしまう。歴史について言えば、やはり同時代に近い人の方が調べるうえで有利なのは間違いない。
ただし、同時代人に後から話を聞くという方法には一長一短ある。当事者であっても回想録が当てにならないという話は、過去に何度も紹介した。インタビューという形式の場合、自分自身を宣伝しようとしがちな回想録よりはマシな印象があるが、それでも時間が経過すれば勘違いや記憶違いは避けられない。Kershawは引用元について巻末の注で記しているので、信頼度を測りたければそちらの方もきちんとチェックした方がいいのだろう。
全体としてこの本の書き方は、
前に紹介した Little Sense of Urgencyとはかなり異なる。あちらの本が一次史料を中心に事実(と思われること)の淡々とした描写に終始しているのに対し、こちらの本はより情緒的な書き方がかなり多く出てくる。文章的には「面白さ」が豊富である一方、正確さにいささかの不安を覚える格好。むしろ、コーネリアス・ライアンの
遥かなる橋 の書き方に近い本と言えそうだ。
本の内容はフランスからの撤退戦を皮切りに、後は時系列に沿って様々な戦場を順番に取り上げており、そのあたりも「遥かなる橋」と似たような形だ。ただ「遥かなる橋」に比べれば写真や地図の数がかなり豊富。写真の中には、当時のドイツ軍が撮影したニュース映像から切り出したものもあるし、インタビューを受けた兵士が自分のカメラで撮影したものもある。地図についてはLittle Sense of Urgencyほと充実しているとは言えないが、全体として戦況を把握するのには苦労しない。
上にも書いた通り、内容面ではドイツ側の視点から見たものが基本であり、連合軍側についてはごく限られた言及しかない。逆にドイツ側については、各地域でどのような部隊がどのように編成され、どのように戦ったかについてきちんと書かれている。もちろん一次史料がきちんと残っている連合軍側ほど異様に細かいデータ(どの場所でどの戦車が擱座したか、といったことも分かる)があるわけではない。それでもこの本を読めば、ドイツ軍がどのような状況であったかが、「遥かなる橋」を読むよりもずっと詳しく分かるのは確かだ。
例えば9月17日に降下した連合軍の空挺部隊は、英軍が6個大隊、米軍が18個大隊だった。それに対しドイツ軍は同日真夜中の段階でアーンエム付近にあつめられたのが10~11個大隊、ナイメーヘン地域がたったの2個大隊、フラーフェからアイントホーフェン間が3個大隊にとどまっていたという。この時点でアーンエム地域におけるドイツ軍の反撃がかなり素早かったことが分かる。
それから24時間もすると、ドイツ軍はそれぞれ13~14個大隊がアーンエムに、ほぼ同数がナイメーヘンに、そして9個大隊がソンとベスト周辺に集結。9月19日にはそれぞれ17個、15個、14個まで数が膨らんだという。この時点で既にドイツ軍は空挺部隊だけでは手に負えない数になっており、陸上部隊(第30軍団)の素早い進撃がなければヤバイ事態が発生し得た。9月23日にはアーンエム付近のドイツ軍は27個大隊に到達しており、英第1空挺師団はそれだけ追い詰められることになった。
もちろんドイツ軍の1個大隊がエリートである連合軍空挺部隊の1個大隊に匹敵する能力を持っていたかと言われると、そうではないことがこの本でも強調されている。ドイツ兵の多くはまだ10代の若者か、戦闘に向かないような人、あるいは陸軍以外からいきなり歩兵として引っ張り出された戦闘未経験者が多く、彼らの戦闘能力は正直なところかなり低かったようだ。一方、空挺部隊に欠けていた重火器はドイツ側に数多く存在しており、その分はドイツ側にプラスに働いたことになる。
実際の戦闘に際しては、ドイツ軍が防御に回った時には経験の少ない兵士たちでも十分に戦えたが、いったん反撃が始まるとかなり機能不全になる部隊が多かったという。実際、英第1空挺師団によるアーンエムへの攻撃に対しては頑強に抵抗してこれを撃退することに成功したドイツ軍も、オーステルベークに立てこもる英軍への攻撃を行う段階になるとほとんど前進できなくなったことが指摘されていた。連合軍陸上部隊からの砲撃支援が届くようになったのも要因の一つだとされる。
戦車が郊外の平野部より市街地で役立った、という話も興味深いところだろう。オランダのこのあたりは運河や土手などで地形が分断されており、地盤も軟弱だったようで、平野部に投入された戦車はあまりうまく活動できなかったようだ。逆に市街戦では移動可能なトーチカとしてかなり役立ったそうで、経験の浅いドイツ軍兵士たちを支えて英軍を撃退するのに貢献したという。
書籍ではドイツ側の損害について、公式に報じられているよりずっと多い6000~8000人ではないかと推測している。ただし、それでもこの数は連合軍が失った数(マーケットとガーデン両方を合わせて1万3000人以上)よりはずっと少ない。Kershawによればドイツ軍と連合軍のキルレシオは1:2だとの推計値を示しており、この作戦についても結果的にはその推計値に近い数字になったと想定している。
この本ではマーケット・ガーデン作戦についていくつかの論点も指摘している。まず1つは奇襲効果について。実は第2SS軍団は以前から空挺攻撃に抵抗するための訓練を行っていたそうで、この戦いでも彼らは連合軍の降下に対して実に素早く反応していた。空挺部隊が最も脆弱なのは降下直後であり、そのタイミングで攻撃をかければ大きな戦果が期待できたそうだ。だが英第1空挺師団が降下したアーンエム西方地域はSSが展開していた地域からは少しばかり遠く、連合軍の再編と前進を妨げることはできなかったという。
逆にもし英第1空挺師団がアーンエム付近に降下していれば、SSの各部隊はずっと近くにいたため、史実よりはるかにに早く反撃できたはず、というのがこの本の主張だ。ドイツ軍自身、アーンエムの戦いが終わった直後に連合軍の敗因について「全師団を1回で降下させるのではなく3回に分けたのが失敗」としており、降下地点が間違っていたとは見ていない。実際に英軍が降下した地域は周辺を森で囲まれており、そのため敵の反撃を受けづらかったが、アーンエム周辺にはそうした守りやすい降下地点はなく、ドイツ軍の反撃に対してはより脆弱だったという指摘もある。
この話はなかなかに興味深い。
Lost at Nijmegen では降下する側の持つ奇襲効果を強調していたが、迎撃する側にとっても降下直後が狙い目だというのはおそらく事実だろう。もちろん、ナイメーヘン付近のドイツ軍はそもそも数が少なく、かつ第2SS軍団のような対空挺作戦用の訓練を受けていたとは思えない部隊が中心だったため、アーンエムとは話が違う可能性はある。一方、連合軍が降下した時点でナイメーヘンには既に750人のドイツ軍がいたとも書かれており、それが事実なら1個大隊程度で橋が奪取できたはずという見解も無条件で信じるというわけにはいかなくなる。
もう一つは、20日に連合軍がナイメーヘン橋を奪った直後なら、アーンエムまでの道はほぼがら空きだったという主張だ。このタイミングで前進していれば連合軍はネーデルラインを渡ることができたのではないか、というのがKershawの考え。クナウストの部隊がエルストに防衛線を築いたのは翌日の夕方になってからだった。
ただしこちらも安易にその通りと認められるかどうかは不明。20日夜の時点でナイメーヘン橋を渡り終わっていた英軍の戦力がどのくらいあったかを確認しなければ、この主張を受け入れるわけにはいかないだろう。20日夜の時点で橋を渡っていたのは最初に渡った3両の戦車以外には、M10駆逐戦車2個小隊と戦車2個中隊しかワール北岸にはいなかったそうで、この数だけでアーンエムまで向かうのはさすがに無理があったのではなかろうか。おまけに19日の時点でエルスト手前のレッセンに既にドイツ側の対戦車砲が設置されていたとの情報もあり、連合軍がそう簡単に前進できたかというと微妙だ。
マーケット・ガーデン作戦に関する本に書かれている著者の主張を見ると、ドイツ側から見れば連合軍の、連合軍側から見ればドイツ軍の状況がよく分からないまま述べているものがあるように思える。複数の視点から見ることは歴史においては大事なはずだが、実際にやろうとするとかなり大変なのだろう。
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