革命フランス軍組織 14

 承前。

(参照:Région militaire

1798年

●イタリア方面軍
 共和国暦6年プリュヴィオーズ15日(2月3日)の命令に従い、2月20日にイタリア方面軍とローマ方面軍に分割

・司令官
 ベルティエ将軍、1月1日から2月19日
 ベルティエ将軍、2月20日から4月3日
 ブリュヌ将軍、4月4日から7月27日
 ゴルティエ将軍、7月28日から8月18日、臨時指揮
 ブリュヌ将軍、8月19日から10月31日
 ジュベール将軍、11月1日から12月31日、ローマ方面軍への上位指揮権を持つ。12月11日から25日、モローが軍を指揮

・担当区域
 1月1日:チサルピナ共和国、リグリア共和国、ピエモンテ、コルシカ、イオニア諸島
 10月10日(共和国暦7年ヴァンデミエール19日)(布告による)、ヴァンデミエール30日(10月21日)にイタリア方面軍で施行:マルタ島が担当区域に統合

・備考
 (1)12月7日、ジュベール将軍はイタリア方面軍を2つに分割し、アディジェ河畔に残した4個師団の指揮をモロー将軍に委ね、軍の残りとともにトリノへと行軍した。11日、ピエモンテ革命は終わり、彼は辞任して連れてきた兵を元の陣地に戻し、ピエモンテ軍をそれに追随させ、彼自身はトリノに残って後継者の到着を待った。イタリア方面軍は実際にはモロー将軍の指揮下にあった、だがジュベール将軍はトリノで司令官の称号を保持しており、その権限に基づいてシャンピオネ将軍と連絡を続けていた。最終的に総裁政府の強い勧めもあり、彼は25日にミラノの司令部に再合流し軍の全指揮権を握った。
p547-548

●ローマ方面軍
 2月20日に施行されたプリュヴィオーズ15日(2月3日)の布告により創設(1)。3月28日に施行されたヴァントーズ18日(3月8日)の布告によって解体され、ローマ軍団の名で知られるイタリア方面軍の1個師団となった。共和国暦7年ヴァンデミエール27日とブリュメール15日(10月18日と11月6日)の布告が11月20日に施行され、再編成された

・司令官
 マセナ将軍、2月20日から25日(2)
 ダルマーニュ将軍、2月26日から3月27日、暫定指揮
 サン=シール将軍、3月28日から7月25日。ローマ軍団はイタリア方面軍司令官の部下
 マクドナルド将軍、7月26日から11月19日、暫定指揮。ローマ軍団はイタリア方面軍司令官の部下
 シャンピオネ将軍、11月20日から12月31日、ジュベール将軍の部下

・担当区域
 創設時:ローマ教皇領、後にローマ共和国となる

・備考
 (1)ベルティエ将軍が先頭に立ったイタリア方面軍の強力な師団は2月10日にローマに入城した、マセナ将軍がプリュヴィオーズ15日(2月3日)の命令で在ローマ教皇領のフランス兵司令官に任命され前日にローマに到着した後、2月20日にはローマ方面軍の名を受け取った。
 (2)2月26日から3月18日、ローマ方面軍に反乱されたマセナ将軍は、軍の幕僚たちとともにロンチリョーネにとどまり、そこで司令官の称号を保持した。彼が不在の間はダルマーニュ将軍が指揮を執り彼に報告した。
p548-549

●英方面軍

・司令官
 ボナパルト将軍、1798年4月12日まで
 ドゼー将軍、1月1日から3月27日、暫定指揮、ボナパルト将軍の部下(1)
 キルメーヌ将軍、3月27日から10月7日、東方軍の出発(5月19日)までは暫定指揮(2)
 ムーラン将軍、10月8日から11月1日(3)
 キルメーヌ将軍、11月2日から1799年1月2日

・担当区域
 1月1日:ブレストからオステンドまでの沿岸10リュー幅の地域
 1月12日(共和国暦6年ニヴォーズ23日)(布告による):第13、第14、第15、第16、第1、第24軍管区(10月30日、布告により第24軍管区が外れる)
 12月25日(共和国暦7年ニヴォーズ5日):第12、第13、第14及び第22軍管区、第1、第15、第16、第24行政区画は外れ、行政区画を指揮する将軍たちの直率下に入った(4)

・備考
 (1)軍はまだ合流しておらず、ボナパルト将軍とドゼー将軍は司令部をパリにとどめた。
 (2)キルメーヌ将軍はパリにとどまり続けたが、兵は軍の担当区域に到着しはじめ、参謀はルーアンで編成されたが、キルメーヌ将軍は6月11日まで彼らに合流しなかった。
 (3)アイルランドに対する遠征の司令官として呼ばれたキルメーヌ将軍は4月8日にパリに到着し、英方面軍司令官の称号を保持し、彼が不在の時はムーラン将軍が軍を指揮した、彼が行うべきだった遠征はキャンセルされ、キルメーヌは11月初頭にルーアンに戻り、英方面軍の指揮を再開した。
 (4)共和国暦7年ニヴォーズ5日(12月25日)の布告は、英方面軍の担当区域を修正することでその司令部をルーアンからレンヌに移した。この軍は以後、西方各県で再発生し始めた反乱を鎮圧し、沿岸を監視する任務を負った。この軍のパーツを構成した兵たちは他の軍のように実働師団に編成されなかった、彼らはセーヌとジロンド間から成る4つの行政区域を指揮する将軍たちの直率下にとどまり、4つの個別の部隊を構成してそれぞれに割り当てられた区域に囲まれた範囲で行動した。レンヌにとどまった司令官は全作戦を命じる役を与えられた。ルーアンで病気になっていたキルメーヌ将軍は12月30日、一時的に軍の指揮を執るようにとの命令とともに総裁政府の命令をレンヌのムーラン将軍に送った、だが司令部は1799年1月2日までルーアンを離れず、キルメーヌ将軍の指揮権もこの時までは実際に停止しなかった。
p549-550

●東方軍(1)
 共和国暦6年ヴァントーズ15日(3月5日)の布告により創設。3月末から5月10日まで英方面軍の名の下に編成、10日に地中海軍の名を、7月2日(共和国暦6年メシドール14日)、上陸後はエジプト方面軍の名を得たが、8月前には東方軍の名前に変わった

・司令官
 ボナパルト将軍、5月8日から12月31日(2)

・担当区域
 3月末から5月中旬まではトゥーロン、ジェノヴァ、チヴィタ=ヴェッキア、アジャクシオの港で編成
 5月9日から6月8日(共和国暦6年フロレアル30日からプレリアル20日)、海上
 6月8日から6月18日(プレリアル20日から30日)、マルタ正面
 6月19日から7月1日(メシドール1日から13日)、海上、1個師団はマルタにとどまる
 7月2日(メシドール14日)、アレクサンドリア近くに上陸
 10月10日(共和国暦7年ヴァンデミエール19日)(布告による)、イタリア方面軍ではヴァンデミエール30日(10月21日)に施行:マルタ島がイタリア方面軍の担当区域に移動

・備考
 (1)構成する兵はイタリア方面軍とローマ方面軍、及び英方面軍に差し向けられた軍から集められた
 (2)3月5日に東方軍司令官に任命されたボナパルト将軍はしばらく英方面軍司令官の称号を保持したが、実際は東方軍の軍備を監督した。5月3日にパリを発った彼は8日にトゥーロンに到着し、すぐこの町に集められた師団の指揮を直接執り、自らの指揮下にある兵に地中海軍の名を与え、この軍は英方面軍の一翼にすぎないと告げた。
p550-551

●第2次アイルランド遠征
 この名の下にいくつかの小規模な孤立した遠征が、8月、9月及び10月(共和国暦6年フリュクティドールから7年ヴァンデミエール)の間にラ=ロシェル、ブレスト及びテセルで組織された
 これらの遠征はユンベール将軍、アルディ将軍、コルテス参謀副官、ミシェル少佐、キルメーヌ将軍が指揮した

・備考
 共和国暦6年フリュクティドール5日(8月22日)にキララ湾に上陸したユンベール将軍は、1500人のアイルランド反乱軍と合流した自らの指揮下にある兵たちにアイルランド方面軍の名を与えたが、これは誤り、ユンベール将軍は准将にすぎず、またこれらの孤立した遠征が成功すれば、上位の指揮を執り連動させるのはキルメーヌ将軍だった。
p551-552

1799年

●駐バタヴィア共和国フランス兵(1)
 8月26日(共和国暦7年フリュクティドール9日)、共和国暦7年ブリュメール15日(1798年11月5日)の布告に従い、戦争再開時に戻されることになっていた在バタヴィア共和国軍の名を得る。9月23日(共和国暦8年ヴァンデミエール1日)にバタヴィア方面軍となった

・司令官
 アトリ将軍、1月1日から8日(共和国暦7年ニヴォーズ12日から19日)
 ブリュヌ将軍、1月9日から8月25日(ニヴォーズ20日からフリュクティドール8日)、そして7月16日(メシドール28日)以後、バタヴィア兵も指揮
 在バタヴィア共和国軍
 ブリュヌ将軍、8月26日から9月22日(共和国暦8年フリュクティドール9日から閏6日)、バタヴィア軍も指揮
 バタヴィア方面軍
 ブリュヌ将軍、9月23日から11月27日(共和国暦ヴァンデミエール1日からフリメール6日)
 ケレルマン将軍、11月28日から12月5日(共和国暦8年フリメール7日から14日)、暫定指揮
 デジャルダン将軍、12月6日から31日、暫定指揮

・担当区域
 1月1日:(共和国暦7年ニヴォーズ12日):ヘルデルラントの一部、ユトレヒト州、バタヴィア領ブラバント、ゼーラント及び南ホラント
 在バタヴィア共和国軍――8月26日(フリュクティドール9日):バタヴィア共和国
 9月24日(共和国暦8年ヴァンデミエール2日):第24及び第25軍管区が担当区域に追加
 バタヴィア方面軍――バタヴィア共和国、第24及び第25軍管区

・備考
 (1)共和国暦7年フリュクティドール27日と共和国暦8年ヴァンデミエール2日(1799年9月13日と24日)付の2つの布告により、ヘルデルに上陸したロシア軍に対抗する予備部隊を欲した総裁政府は、北方軍の名称下で1軍を組織するよう命じ、この軍に第24及び第25軍管区を割り当て、在バタヴィア共和国軍の司令官と合わせてこの軍の司令官もブリュヌ将軍に任せた。
 アルクマールとカストリクムの勝利(1799年9月19日と10月6日)(共和国暦6年閏3日と7年ヴァンデミエール15日)がこの対応を無駄にし、総裁政府にとって耳障りな名称を持っていたこの新たな軍の編成は放棄された、だがこの軍に割り当てられた担当区域の兵たちはブリュヌ将軍の指揮下にとどまり、それによって在バタヴィア共和国フランス軍に含まれるようになり、その担当区域には第24及び第25軍管区が増え、軍の名はバタヴィア方面軍となった。
p553-554

●ヘルヴェティア方面軍
 フロレアル10日(4月29日)に施行されたフロレアル2日(4月21日)の布告により、消滅させられドナウ方面軍に統合された

・司令官
 マセナ将軍、1月1日から4月4日(ニヴォーズ12日からジェルミナル15日)、ジュールダンの部下
 メナール将軍、4月5日から16日(ジェルミナル16日から27日)、マセナの部下として暫定指揮(1)
 マセナ将軍、4月17日から28日、ヘルヴェティア方面軍とドナウ方面軍を指揮

・担当区域
 1月1日(共和国暦7年ニヴォーズ12日):モン=テリブル県とヘルヴェティア共和国

・備考
 (1)4月5日(共和国暦7年ジェルミナル16日)午前3時、マセナはザンクト=ガレンでジェルミナル11日(3月31日)付の命令を受け取り、ドナウ方面軍の暫定指揮官となった、彼はヘルヴェティア方面軍をメナール将軍の指揮下に残し、正午にはストラスブールに向けて出発し、8日にそこに到着した。ジュールダンはそこで彼を待っており、ドナウ方面軍の指揮権を彼に与えてパリに向かった。
 4月15日(ジェルミナル26日)に司令部をバーゼルに移したマセナ将軍は、彼をドナウ方面軍とヘルヴェティア方面軍の司令官に最終的に任命した16日付の新たな布告を受け取り、17日(ジェルミナル28日)に適法となり、この日からすぐ臨時の措置なしに4月29日(フロレアル10日)まで両軍を指揮し、そこで両軍は1つに統合した。
p554-555
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