宋金元史 上

 これまでも初期の火薬に関する記述は色々と紹介してきたが、見落としもあるかもしれない。というわけでChinese Text Projectを使い、火薬が発明された初期の頃の正史を使って、火薬に関連する可能性のある文言がどのくらいあるかを調べてみた。対象としたのは宋史、金史、元史の3つ。まずは火薬絡みで使われることが多い「火砲」(あるいは火炮)について、時系列に並べてみよう。
 火砲という語がこれら3つの正史に出てくるのは北宋が滅亡した1127年だ。最初に言及されるのは皇帝の一族である趙士晤。靖康の変で他の皇族と一緒に金に連れていかれそうになった彼だったが、途中で脱走に成功し、逃げたその先で義勇兵を集め、近くの洺州の攻囲を解くために動いた。彼は夜間にこの町に近づいて攻囲を破り、翌日には入城。城内での抵抗を手助けし、「飛火炮碎其攻具」、つまり火砲を飛ばして敵の攻城兵器を砕いたと宋史に書かれている。
 この時期にはまだ鉄火砲や震天雷といった爆発兵器は存在していなかったと見られる。となると、ここで使われたのも、投石機を使って可燃物を投げるというタイプの兵器だろう。その可燃物に火薬が使われていたかどうかはこの文章を読むだけでは分からないが、11世紀の武經總要で毬と呼ばれる投石機で打ち出される火薬兵器がいくつか書かれているのを見ても、火薬が使われていた可能性は十分にあるだろう。
 次に火砲が出てくるのは金史。金に抵抗した南宋の水軍指揮官、李宝が1161年に行なった戦いだ。いったんは落ち着いた金と南宋の関係が金皇帝の野心によって崩れ、金軍は大軍で南宋に攻め寄せてきた。だが水軍を率いていた皇族の1人、完顏鄭家は、水上の戦いについてよく知らず、南宋軍に備えよという忠告を無視した。金軍に接近した時、相手が何の準備もしていないのを見て取った李宝は「即以火砲擲之」、つまり「火砲で投げた」。鄭家は脱出しようとあたりを見たが全ての船が燃えており、結局41歳で水死した。
 ここに出てくる「火砲」も、投石機を使ったものと見て間違いないだろう。擲の文字が使われているのを見ても、可燃物を投げて攻撃したのはほぼ確実。またこの可燃物が火薬を使った毬である可能性も十分にある。ちなみに宋史におけるこの戦いの描写はずっと詳細なのだが、なぜか使われていたのは火砲ではなく火箭となっている。「寶亟命火箭環射,箭所中,煙焔旋起,延燒數百艘」とあるので、取り囲むように火矢を射るよう命じ、それによって金軍の船を燃やしたのだろう。もしかしたらこの戦いでは火矢と火砲の両方が使われたのかもしれない。
 次に宋史では1168年に火炮について記述したものが2つ見つかる。この時期は金との関係が再び平和になっていた時であり、記述内容は軍事パレードの閲兵に関するものとなっている。一つは「繼而進呈車炮、火炮、煙槍」という記述で、もう一つは「兵分東西,呈大刀、火炮」とある。どちらにも李舜舉という人物への言及があるので、同じパレードを別の場所で言及している可能性もある。ここでの火炮が何であるかは正直分からないが、わざわざパレードで見せたほどだからそれなりに重要な武器だったのだろう。
 次に来るのは金の滅亡直前、1231年の出来事だ。逃走する金軍の退路をモンゴル軍が塞ごうとした時、金軍は「船中有齎火砲名『震天雷』者連發之」、つまり船内にあった震天雷を打ち出し、それによって「力斫橫船開」、つまり退路を切り開いて脱出に成功したという。この話は「中国、宋代における火器と火薬兵器」にも載っている(p65)のだが、おそらく震天雷を用いた最初の記録だそうだ。
 次はその翌1232年、開封府の戦いに関する金史の記録だ。ここでは震天雷について「鐵罐盛藥,以火點之,砲起火發,其聲如雷,聞百里外,所熱圍半畝之上,火點著甲鐵皆透」といった説明が載っている。これまた「中国、宋代における火器と火薬兵器」にも紹介されている(p65-66)。どちらにせよ震天雷が火薬を使った兵器なのは間違いないだろう。
 金の歴史はこの直後に終わり、次に火砲の記述が出てくるのは元史となる。1267~1273年に行なわれた襄陽・樊城の戦いに参加していた劉國傑が、おそらく1269年に負傷したという話。そこには「從攻樊城,破外城,火砲傷股」とあり、火砲によって彼が傷つけられたことが分かる。同じ戦いでは1272年にも火炮にかかわる言及が出てくる。「各船置火槍、火炮」と船にこれらの武装を載せて運んだことが分かる。このあたりの時期になるとこれらが火薬兵器である可能性はさらに高いだろう。
 面白いことにその翌1273年、宋が行った防御施設の見直しには「火箭火炮不能侵」という言葉が出てくる。宋側が火炮に対する防衛策を打ち出したということは、遅くともこの時期には元の側も火砲を使えるようになったことを意味する。逆に言えば、襄陽・樊城の戦いより前の時点では、まだ明確に元が火薬兵器を使っていた証拠はないことになる。さすがにそうは行っても金を征服した後には火薬についてのノウハウを手に入れていた可能性は高いとは思うものの、文献資料の欠如はなかなか興味深い。
 実際、この直後に初めて元側が火砲を使う話が元史に出てくる。張榮が1274年に、まずは沙洋攻撃の際に「火砲焚城中民舍幾盡」、つまり火砲が城内の民家を焼いた。さらに「又以火砲攻陽邏堡」、陽邏堡を火砲で攻撃してこれを破っている。1275年にはバヤンが臨南を攻撃する際に「又多建火砲」という表現が出てくる。これらも投石機を使った兵器なのは間違いなく、また火薬兵器の可能性も高そうだ。
 次に出てくるのは南宋での最後の火炮使用例。静江府の防衛部隊の生き残りが元軍と戦った際に「擁一火炮然之,聲如雷霆,震城土皆崩」、つまり火炮を燃やしてかなりの破壊をもたらしたという。「中国、宋代における火器と火薬兵器」では「かなり強力な爆発力をもったもの」(p64)と指摘し、震天雷の可能性を想定している。
 だがその次に出てくる記述で、火砲の意味は大いに変わる。1287年と88年、反乱を起こしたナヤンに対して李庭が攻撃を行う際に、まずは「乃引壯士十人,持火砲,夜入其陣」、つまり火砲を持って夜襲したという話がある。次には「選鋭卒,潛負火砲,夜水斥上流發之」と、ここでも火砲を背負っている。この話はNeedhamも紹介している有名なものだが、持ち運びができるので投石機でないことは明白。おそらく銃砲と考えていいだろう。
 元史にある火砲の記述は、残り2つ。いずれも14世紀の紅巾の乱での使用例だ。1つは1352年に彭庭堅が「設雲梯火砲,晝夜攻撃」したという話で、攻城兵器である雲梯と並べて載っていることから、持ち運べる銃砲でないことは確かだろう。ただし昔ながらの投石機なのか、それとも据え置き式の銃砲を意味するのかは不明だ。
 もう1つも同じ1352年の事例。城外に伏兵を置く際に「皆授以火砲」、つまり火砲を兵に与えて「見旗動,砲即發」と命じている。1人ずつ渡したように見えることから、これは手持ち式の銃砲の可能性が高いだろう。火砲という言葉の意味が時とともに変わっていったのが分かる。
 以上が火砲に関する3つの正史の記述だ。ついでに元史には火銃という記述もある。1364年という元の末期の話だが、「火銃什伍相聯」、つまり火銃を装備させた部隊を相連ねたと書かれている。これまたおそらく手持ち式の銃砲を意味しているように見える。14世紀になれば火器の使用が増えてきた様子が窺える。

 以上で火砲に関連する記述は終わり。次回は火槍や火箭に関する記述をピックアップする。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント