そして伝説へ

 最近ソードマスターヤマト"http://kbys.blog63.fc2.com/blog-entry-65.html"がちとツボに入っている。そのせいか、ナポレオン漫画最新号のロディが終わったシーンでは思わず以下のフレーズが脳内に。

 ナポレオンの勇気が革命を救うと信じて…!(ご愛読ありがとうございました!)

 その後にジュノーのシーンがあったので打ち切りではないと思われるが(思いたいが)そろそろ話の展開を早めた方がいいのかもしれない。それと、最後の方で出てきたあのネーチャンはやはり後のジュノー夫人ロールなのだろうか? 私の知っているロールといえばこんな"http://www.britannica.com/eb/art-12213?articleTypeId=1"サ○エさんみたいな髪形をした姿なのだが。

 話をロディに戻すと、戦報でも指摘されている通り、橋を渡ろうとした時にオーストリア軍が放ってきたのは普通の砲弾ではなく散弾である、と思われる。たとえばMartin Boycott-Brownは「ヴィゴ=ルシヨンによると、敵砲兵は1回だけぶどう弾を発射する時間があった」(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p314)と書いている。もっとも日本語訳の「ナポレオン戦争従軍記」では「敵砲兵隊に二発目を発砲させる余裕を与えなかったが、一回目の砲撃で我が方にかなりの死傷者が出た」(p43)となっており、撃ったのが散弾かどうかは不明だ。
 また英国の連絡将校として連合軍と伴に行動していたトーマス・グレアムも「彼ら[フランス軍]が橋の先端まで到達するや否や、彼らは持ちこたえることが不可能な恐ろしいぶどう弾の斉射を受けた」(Graham "A Contemporary Account of the 1796 Campaign in Germany and Italy" p90)と記している。ただし、グレアムがロディの戦場にいた可能性はおそらく低い。両軍の関係者が記しているのだから散弾で問題ないと思われるが、確言するにはちと力不足な証拠しかないのもまた事実だ。

 次に突撃したメンツ。「戦いはこれからだ」、もとい、「ロディは伝説となった」の部分に名前が出てくる連中のうち、突撃に参加したと言って問題ないと思われるのはベルティエ、マセナ、ランヌの3人。残りは問題が色々とある。
 まずボナパルトについては前回も色々と指摘した通り、おそらく突撃に参加していない。彼の副官だったマルモンの回想録には、アルコレの戦いについて記した部分に「私が見た中で、ボナパルト将軍が本当に個人的な危険に大いに身を晒したのは、イタリア戦役を通じてこの時が唯一だった」(Memoires du Marechal Marmont Duc de Raguse, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=WXsvAAAAMAAJ" p238)と書かれており、間接的にロディでボナパルトは危険に身を晒していないことを指摘している。
 ボナパルトの報告を受けて総裁政府のカルノーが送って来た返信を見ても、突撃メンバーにボナパルトが入っていないとの認識が示されている。

「パリ、共和国暦4年花月26日(1796年5月18日)
(中略)
 ロディの征服者に不滅の栄光を! 町の門に大胆な攻撃を目論み、フランスの戦士たちの戦列に混じって自身敵の殺人的な砲火に身を晒し、敵の敗北を確実にするためにあらゆる布陣を行った指揮官に名誉を! 敵を打ち破り屈服させた不屈で恐るべき共和国の縦隊の先頭へと突進した果敢なベルティエに名誉を!」
Correspondance inedite officielle et confidentielle de Napoleon Bonaparte, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=UlwuAAAAMAAJ" p195

 ボナパルトは「敵の殺人的な砲火に身を晒し」ていたと記されているが、おそらくこれはロディ橋攻撃に備えて指揮官自身が大砲を配置したことを意味しているのだろう。もしボナパルトが先頭に立って突撃したと考えているのなら、上の手紙でベルティエの名が入っている部分にボナパルトの名前を入れるべきである。戦報も「将官達」と書くにとどめ、ボナパルトの名は出していない。
 マルモンもおそらく突撃には不参加だった。彼の回想録を読むと(これまた戦報に書かれているように)ナポレオンの命令で偵察に出たことは記されているが、橋の上を突撃したという話はどこにもない。マルモンはロディの4日後に母親に手紙を書いているが、そこには「戦闘の詳細な経緯については記しません。公報のいくつかで読めるであろう報告は極めて正確で、真実を完全に明らかにしてくれるでしょう」(Memoires du Marechal Marmont duc de Raguse, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=WXsvAAAAMAAJ" p320)とあり、マルモンを突撃メンバーに含めていないボナパルトの報告が正確だと太鼓判を押している。
 長塚隆二は「マッセナをはじめベルティエ、マルモン、またデーゴの戦闘で獅子奮迅の働きをして少佐から大佐に二階級特進したランヌがそのあとにつづく」(ナポレオン・上 p167)と書いているが、ここにマルモンの名を出すのは間違いと言ってもよさそう。これまた事実に反するランヌの二階級特進話も含め、長塚の本には理解できない記述が目立つ。
 オージュローは先頭に立って突進していないのでこれはまあいいだろう。途中で橋から飛び下り、どこから取り出したのか不明だが牛の頭を被って水中から出てきたスーシェと、小船から八艘跳びを見せたヴィクトールに関しては、そもそもロディの戦場にいたかどうか分からない。Ramsay Weston Phippsによると、彼らは4月下旬段階でラアルプ師団と伴にあり(Phipps "The Armies of the First French Republic" p27)、ロディの後の再編でマセナ師団に所属したという(Phipps p45)。しかし、肝心のラアルプの死後からロディまでの期間にどこで何をしていたかについてPhippsは何も述べていない。ボナパルトが記したロディの報告書にも彼らの名は出てこないので、たとえ戦場にいたとしても指揮官のお眼鏡に叶うほどの活躍をしなかったことは確かだろう。
 残るはミュラだが、彼はそもそもイタリアにすらいなかった可能性がある。まず彼はピエモンテとの休戦を総裁政府に伝えるため、4月28日にパリに向かって出立した(Phipps p28, Boycott-Brown p286)。この時、パリに送られていたのはジュノーだけではないのだ。
 それでもとんぼ返りすればロディの戦い(5月10日)に間に合ったかもしれないが、その可能性は薄い。まず一つに、彼は5月10日付で総裁政府から准将へと昇進させてもらっている(Phipps 28)。休戦の話をパリに伝え、いくつかのセレモニーに参加し、そのついでに昇進も成し遂げた、と考えた方が、とんぼ返りの後で昇進が決まったと考えるよりありそうな感じがする。
 しかしそれより何より、5月13日にボナパルトがジョゼフィーヌに宛てた手紙の中で「あなたは本当に妊娠しているのですね。ミュラがそう書いて寄越しました」(Boycott-Brown p321)とあるのが決定的だ。もしミュラがとんぼ返りしていたのなら、ジョゼフィーヌの(ウソの)妊娠話をわざわざ「書いて」寄越すことなどあり得ない。ナポレオンがこの手紙を書いた13日時点で、ミュラはまだパリへの任務からイタリアへ戻ってきていなかったと考える方が妥当だろう。
 問題があるとしたらPhippsが紹介している挿話(Phipps p37-38)。それによるとロディ司教がロディの戦い翌日にボナパルトと食事をしている時、修道士の姿をした男がオーストリア軍のスパイから手に入れた手紙の袋を持って現れたという。その修道士がかつらを取ると、実はミュラの変装だったというのがこの話のオチ。ただ、これがどこまで現実にあった話なのかというと実に怪しい。そもそもなぜミュラがわざわざ変装する必要があるのか、さっぱり分からない。この挿話に信頼を置くよりも、素直にミュラはロディの戦いに参加しなかったと考える方が安全だと思う。

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