「孔子の罠」

 「多くの人が正しいと思っている、間違った知識」の見分け方、という記事の中に最近思っていることがズバリ書かれていた。「たくさんの読書をすることをウリの1つにしているブロガーの書いた本を読んでみると、その主な主張が十数年前とほとんど変わっていなかったりします」「本をいくら大量に読んでも『見分ける』作業をやらない限りニセ知識はなかなか除去できないのです」の部分だ。これを私は(勝手に)「孔子の罠」と呼んでいる。
 まず基本的な前提として、知識というものは時間をかけるほど多く得ることができる。もちろん人によって効率的に知識を得る能力がある人と、時間のかかる人がいるのは確かだが、同じ程度に知識の習得ができる人の間では、時間をかけた方が有利なのは間違いない。だから知識について言えば年寄りの方が有利な状況にある。年配の研究者による「この分野は素人なのですが」の破壊力がでかいのは、過去に蓄えてきた知識量によって「素人」と謙遜する分野であっても若手よりは要点をつかんでいる可能性が高いからだろう。
 もう1つの大前提は、「全ての知識を手に入れるのは人間には無理(時間的に)」という点だ。ヒトの一生はこの世界に存在する既知のあらゆる知識に比べてあまりにも短すぎる。時間をかければそれだけ知識を蓄えられるのは確かだが、ヒトである以上、得られる知識には物理的上限がある。色々なことを知りたいと考えるなら、効率よく知識を得ることを考えなければならない。そのためにはどのような方法を取ればいいのだろうか。
 ここで上の記事に書かれている指摘とつながりが生じる。効率よく知識を得る方法として、2つの道筋がある。1つはとにかく新しいことを幅広く吸収するというやり方だ。「たくさん読書をする」のをウリにしているブロガーは、この方法を使っているのだろう。既に手に入れた知識についてさらに新しい本を読むのは、知識の仕入れ方としては効率が悪いという判断だ。こういう人は幅広い分野について手当たり次第に本を読む。そして読んだ本の内容を(中身が古くなっていても)ほぼそのままアウトプットする傾向がある。
 もう1つの方法は特定分野を極めるというやり方だ。世界の知識全てを手に入れる時間はなくとも、特定分野に絞ればその知識を上限近くまで入手するのは不可能ではないという発想であり、つまり一種のオタクを目指す方法だ。こちらの場合、既に知っている分野であっても新しい知識に触れた文献が出てくれば、当然それもフォローする。知識のアップデートができるわけで、上の記事で指摘しているように「主な主張が十数年前とほとんど変わっていなかったり」する事態は避けやすくなる。ただし知識の範囲は非常に狭くなる。

 こうしたスタンスの違いは、孔子の言う「學而不思則罔思而不學則殆」とある意味で通じているのではないか、というのが私が最近思っていることだ。学ぶだけで自分で考えないと「罔い」という部分は、読んだ本の数で勝負しようとする人に対する戒めだろう。読んだ本が本当に真っ当な知識を載せているのか、実はそれは最初から「ニセ知識」を載せていたり、あるいは時とともに「ニセ知識」であることがバレてしまったような内容を記しているのではないか。そうした可能性を考えることなく、単に本を積み重ねるだけだと、行き着く先は「罔」となる。
 逆にオタクが用心すべきなのは、後半の「自分で考えるだけで他に学ばない」場合のリスクだ。オタクは自分の得意分野については確かに学んでいるが、一極集中の結果として他の分野についての学びが薄くなってしまいがち。そして人間は、知識がないほど決めつけで意見を述べたがる傾向のある生き物だ。自分がろくに知識を持たない分野について安易に発言した結果として大やけどをしてしまう事例は枚挙にいとまがないし、それは他山の石としなければならない。まさに「殆い」状態と言える。
 孔子はおそらく「バランスを取ってやれ」と言いたいのだろう。最初に紹介した記事でも「重要なのはバランス」と言っている。もちろんバランスが取れれば問題ない。だがどこが適切なバランスであるかは残念ながら誰にも分からないし、誰かにとっていいバランスが自分にとっても好都合という保証はない。「学び方」を学ぼうとしても、基本的分野ならともかく、ある程度の水準以上になれば学べない可能性が高まってしまう。だから結局のところ試行錯誤してバランスを見つけ出すしかないのだが、この方法はどうしても無駄が生じる。
 無駄を嫌う人はおそらく「學而不思」の方に偏ってしまうのだろう。同じ分野の複数の本を読むのは、たとえ新しい知見が入っているとしても、ダブリがある可能性が高いからだ。ただし効率ばかり気にしていると「ニセ知識」のアップデートができず、無駄を避けたはずなのに結果的に「無駄な知識ばかりを抱えた人」になってしまう。だが、それを避けるためにアップデートを続けようとしたら、幅広い分野をカバーするのは不可能となる。ヒトにそれだけの時間はない。孔子の言うことは正しいのだが、両立させようとすると時間が足りなくなるという「罠」が待っているのだ。
 私が専門家の言うことを重視するのも、少なくとも彼らはその分野についてはアップデートを続けているはずの人々だからだ。中には専門家なのにアップデートしてなさそうな人もいるが、複数の専門家に当たればそうしたリスクは減らせる。その際には上の記事にある通り論文を読んでもいいし、専門家の書評を頼ってもいい。逆に専門家ではなく、幅広に読んでいるけど専門家とは言い難い人の文章は、あくまで入り口として読むにとどめるべきだろう。wikipediaのようなもので、関心がある分野のとっかかりとして使えれば御の字だ。
 だから一番やってはいけないのは、「たくさんの読書をすることをウリの1つにしているブロガーの書いた本」を虎の巻にして、それ一冊で知識を賄おうとする読み方だ。残念ながらその手の本がベストセラーに名を連ねる例がしばしばある。こちらの評論家が書いた本にもある通り、ベストセラーというものは「ふだん本を読まない人が読むからベストセラーになる」わけで、虎の巻1冊で済ませようとする人がそうした本に飛びついている可能性は高い。かくして世の中には間違った知識がいつまでも残るわけだ。

 考えていたことは大方以上の通りなのだが、それ以外に最初に紹介した記事を読んで思ったことをいくつか。まず論文が高価なのは否定しない。私が関心を持っている歴史分野ではよく論文集的なものが出版されるのだが、まあ高い。ただ幸いにして歴史分野について言えば論文より大切な「一次史料」というものがある。これは探し方によってはネット上に史料があったりデータベース化されていたりと、それなりに見つけ出す手段がある。分野によってかかる費用はかなり違ってくると思う。
 論文について主に取り上げているのは「心理学・教育学・社会学などの分野」らしいが、これらの分野には私は興味が薄いので、おそらくわざわざ論文を読むことはないだろう。同時にこれらの分野は私が個人的にあまり信用していない学問分野でもあり、そもそもそうした分野に基づく文章が出てきたら、その時点で「保留」マーク付きで読むようにしている。もちろんこれらの分野についてもニセ知識から真っ当な研究まで幅広く存在しているのだろうが、詳しく知らない以上は一歩引いた態度でいるのが安全だ。
 また、人が知識を求める理由については「成功」や「効率」というキーワードでの説明が中心となっている。もちろん成功や効率を求めて知識を探す人もいるだろうが、そうでない人もいる。単純に知識そのものを欲する場合、非効率や成功不成功は判断基準にならないため、役に立ちそうだからという理由で知識を追い求めることはしない。心理学や教育学・社会学といった分野は、もしかしたら成功や効率を求めるうえでは学んだ方がいい分野なのかもしれないが、そこに重きを置いていない人間にとってはどうでもいい分野だ。私が好んで調べている歴史の分野も、中を見れば玉石混淆、というか石が大半の酷い分野と言える。効率や成功を求めて知識を探しにいくのなら、そもそも近寄らない方が圧倒的に効率はいい。
 そして最後に、過去に正しいと思われていた知識が後になって否定されることは珍しくない。だからこそアップデートが必要になるし、同時に今から見れば誤っている過去の知識に対してはさっさと手の平を返しても問題なし。易経に曰く「君子豹変」。どうせなら面白がるくらいでいい。
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コメント

Hiroshi
考えさせられますね。

リタイヤしてからできるだけ広い分野の、しかも最新の本を読もうと心がけていますが、どれだけきちんと読み込めているか自信はありません。

ま、私の場合は「ボケ防止」が目的ですので、それでもOKと気楽に考えるようにしています(笑)

以前、世の中の『サピエンス全史』に対する高評価に疑問を持って、いろいろな人の書評を調べ、ここにたどり着きコメントを書いた者です。それ以来、時々参考にさせてもらっています。
https://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/5694/trackback

desaixjp
お久しぶりです。
知識について一番安全なスタンスは、自分自身ですら疑う、というものだと思っています。
疑っていれば新しい知識を手に入れようとするでしょうし、また知らない分野についてうっかり決めつけて話すのも避けるようになるでしょう。
全ての知識を手に入れるのが不可能である以上、「罔」や「殆」にならないためにはそうした方法くらいしかないのかな、と考えています。
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