革命フランス軍組織 11

 承前。

(参照:Région militaire

1795年

●西方軍
 共和国暦4年ニヴォーズ15日と18日(1796年1月5日と8日)に施行されたニヴォーズ5日(1795年12月26日)の布告により、西方軍、ブレスト沿岸軍及びシェルブール沿岸軍の3軍は、大西洋沿岸軍の名の下に1つに統合された(1)

・司令官
 カンクロー将軍、1月1日から9月6日
 グルーシー将軍、9月7日から10日、臨時指揮
 オッシュ将軍、9月11日から12月17日
 ウィロー将軍、12月18日から1796年1月6日、臨時指揮

・担当区域
 1月1日:ジロンド河口からロワール河口までの沿岸と町、及びアンドル=エ=ロワール県からのロワール右岸

・備考
 (1)1月5日にアンジェに到着したオッシュ将軍は、即座に3軍の指揮を執り、共和国暦4年ニヴォーズ5日(1795年12月26日)の布告で自分が指揮を執ることを将軍たちに伝えた。だがこの布告を西方軍が受け取り実行したのはようやく6日になってからで、ブレスト沿岸軍とシェルブール沿岸軍では1796年1月8日になった。
p527

●ブレスト沿岸軍

・司令官
 オッシュ将軍、1月1日から4月30日、ブレスト沿岸軍とシェルブール沿岸軍をまとめて指揮、5月1日からはブレスト沿岸軍のみ指揮
 レイ将軍、9月10日から12月23日、暫定指揮
 エドゥーヴィユ将軍、1795年12月24日から1796年1月8日

・担当区域
 1月1日:ロワール河口からサン=マロを含むところまでの沿岸と町、ロワール右岸に位置するメール=エ=ロワール県の一部を含む
 4月20日(フロレアル1日)、布告:イル=エ=ヴィレーヌ県、コート=デュ=ノール県、フィニステール県、モルビアン県、及びローヌ右岸に位置しているロワール=アンフェリウール県の一部とメーヌ=エ=ロワール県の一部
 5月20日(プレリアル1日)、命令:モルビアン県、フィニステール県、コート=デュ=ノール県、イル=エ=ヴィレーヌ県、マンシュ県、及びロワールの右岸に位置するロワール=アンフェリウール県の一部
p527-528

●シェルブール沿岸軍

・司令官
 オッシュ将軍、1月1日から4月30日、ブレスト沿岸軍とシェルブール沿岸軍をまとめて指揮
 オーベール=デュバイエ将軍、5月1日から11月11日(1)
 ボノー将軍、1795年11月12日から1796年1月8日、暫定指揮

・担当区域
 1月1日:サン=マロを除きオティーまでとサルト県内の沿岸と町
 4月20日(フロレアル1日)、布告による;セーヌ=アンフェリウール県、ウール県、サルト県、マイエンヌ県、オルヌ県、カルヴァドス県、マンシュ県
 5月20日(プレリアル1日)、布告:アンドル=エ=ロワール県からアングランデまでのロワール右岸とマイエンヌ県、サルト県、カルヴァドス県。パリに食糧を容易に届けられるよう、ウール県とセーヌ=アンフェリウール県ははずされた
 8月11日(テルミドール24日)、公安委員会の命令:マンシュ県が軍に戻される

・備考
 4月29日にアランソンに到着したオーベール=デュバイエ将軍は、30日に指揮権を受け取り、ようやく5月1日にオッシュ将軍が、ブレスト沿岸軍の司令官として署名した。だが軍がこの変更を告知されたのはようやく5月10日だった。
p528-529

●国内軍
 共和国暦2年メシドール24日(7月12日)に創設、第17軍管区に駐屯する兵で形成

・司令官
 ムヌー将軍、7月17日から10月4日(1)
 バラス将軍、10月5日から10月26日、ブオナパルテ(ママ)将軍が副司令官
 ブオナパルテ(ママ)将軍、10月27日から12月31日

・担当区域
 創設時は第17軍管区、つまりオワーズ県、セーヌ県、セーヌ=エ=オワーズ県、セーヌ=エ=マルヌ県、ウール=エ=ロワール県、ロワレ県であり、プレリアル4日及び共和国暦3年メシドール24日の布告により、エーヌ県と、ソンム県、セーヌ=アンフェリウール県、ウール県が追加された。

・備考
 (1)5月22日以来、ムヌー将軍はサブロン宿営地とマルリー宿営地、パリ内部と、エーヌ県を含む第17軍管区の兵たちを指揮していた、だがこの指揮権が国内軍の名称を受け取り、ムヌーが司令官の称号を得たのはメシドール24日の布告によってであり、この布告は第17軍管区にソンム県、ウール県、セーヌ=アンフェリウール県を加えた。
p529

1796年

●北方軍

・司令官
 モロー将軍、1月1日から3月29日
 スーアン将軍、3月30日から4月3日、臨時指揮
 ブールノンヴィユ将軍、4月4日から9月15日、5月中旬からはバタヴィア軍の司令官
 ドジャン将軍、9月16日から12月31日、臨時指揮(1)

・担当区域
 1月1日:バタヴィア共和国、第1、第16及び第24軍管区。サンブル=エ=ムーズ軍に付属している1個師団は1月21日までデュッセルドルフを占拠(2)。9月20日以降、サンブル=エ=ムーズ軍に付属する2個師団がデュッセルドルフ周辺を占拠

・備考
 (1)ブールノンヴィユ将軍は共和国暦4年フリュクティドール23日(9月9日)の布告でサンブル=エ=ムーズ軍司令官に任命され、ドジャン将軍にバタヴィア共和国の防衛を暫定的に任せた後で、9月16日以降、ユトレヒトから北方軍の全戦力を引き抜くよう命じられた、バタヴィアには歩兵3個半旅団と兵站部騎兵4個連隊のみが残された。18日にケルンに到着した彼は23日にサンブル=エ=ムーズ軍の指揮をジュールダン将軍から受け継いだが、この指揮権については暫定的にのみ引き受け、北方軍司令官の称号を保ったまま、兼サンブル=エ=ムーズ軍暫定司令官と付け加えた。最終的にブールノンヴィユは、北方軍司令官の称号とともにサンブル=エ=ムーズ軍の指揮を執り、北方軍の各師団(歩兵24個大隊と騎兵23個大隊)は一時的に後者に統合され、この指揮権に関連する文書はすべてサンブル=エ=ムーズ軍に提出されることになった。北方軍の残余を臨時指揮していたドジャン将軍はバタヴィアに残り、北方軍を暫定指揮する将軍の称号をえた。
 (2)サンブル=エ=ムーズ軍に付属する師団は6月21日にデュッセルドルフを発ち、ティーネン、モンス、ブリュッセルへと向かい、かくして北方軍の担当区域に戻った。
p530-531

●サンブル=エ=ムーズ軍

・司令官
 ジュールダン将軍、1月1日から21日
 クレベール将軍、1月22日から2月28日、暫定指揮
 ジュールダン将軍、2月29日から7月30日
 クレベール将軍、7月31日から8月7日、暫定指揮
 ジュールダン将軍、8月8日から9月23日
 ブールノンヴィユ将軍、9月23日から12月31日まで暫定指揮、12月14日からはクレベール将軍と合同指揮(1)

・担当区域
 1月1日:第2、第3及び第25軍管区とデュッセルドルフからコブレンツまでのライン流域全体を防衛、右翼はブリース沿岸のオットヴァイラーまで延伸し、そこでラン=エ=モーゼル軍と接触

・備考
 (1)12月14日、病気になったブールノンヴィユ将軍は、サンブル=エ=ムーズ軍(北方からの2個師団含む)の指揮権をクレベールと分かち合った、大臣及び総裁政府との連絡は自らにとどめ、クレベール将軍には兵の指揮と配置を任せた。
p531

●ラン=エ=モーゼル軍

・司令官
 ピシュグリュ将軍、1月1日から3月4日
 ドゼー将軍、3月5日から4月20日、臨時指揮
 モロー将軍、4月21日から12月31日

・担当区域
 1月1日:第4、第5、第6軍管区、一時的に第7軍管区に付属していたアン県を除く
p532

●アルプス方面軍

・司令官
 ケレルマン将軍、1月1日から12月31日

・担当区域
 1月1日:第7及び第19軍管区と、一時的に第7軍管区に付属していたアン県を含む
 10月12日(共和国暦5年ヴァンデミエール21日)、布告:バス=アルプ県がイタリア方面軍から外れアルプス方面軍の担当区域に移る
p532

●イタリア方面軍

・司令官
 シェレール将軍、1月1日から3月26日
 ボナパルト将軍、3月27日から12月31日(1)

・担当区域
 1月1日:第8軍管区とその一部となったアルプ=マリティーム県、及びジェノヴァ河の一部
 10月12日(共和国暦5年ヴァンデミエール21日)、布告:イタリア方面軍の担当区域から外されたアルプ=マリティーム県を除く第8軍管区、それからこの軍はヴァールを与えられ、征服した地全体へと拡大していった
 12月2日:英軍を完全に放逐したコルシカがフランスの支配下に戻り、再びイタリア方面軍の担当区域の一部となる

・備考
 (1)ボナパルト将軍は既に5日もイタリア方面軍の区域内にいたが、ニースの司令部に合流し司令官の職を得たのは3月27日(共和国暦4年ジェルミナル7日)になってからだった、彼はそれから名前をフランス風に変え、初めてボナパルトと署名するようになった、帝位につくまで彼はその署名を続けた。
p532-533
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント