承前。
1795年
●北方軍
6月15日から20日に施行された共和国暦3年プレリアル7日(5月26日)の布告により、占領軍に釣り合うまで減少(1)
・司令官
ピシュグリュ将軍、1月1日から3月20日
モロー将軍、3月21日から12月31日(2)
・担当区域
1月1日:ダンケルクからモブージュを除くところまでの国境と町
3月3日(同日の布告に続き):左翼は英仏海峡と北海で、右翼はフラーフェからジヴェまでのムーズで限定され、ベルギーとオランダまで広がり、フランスのノール県、エーヌ県、パ=ド=カレー県、そしてソンム県も含む
7月12日(メシドール24日)(同日の布告):第17軍管区の再統合によりソンム県が外れる
・備考
(1)プロイセンとの講和締結以降、使用可能になった北方軍戦力の大半は、サンブル=エ=ムーズ軍とシェルブール沿岸軍に移った、北方軍は2万5000人まで減り、バタヴィア共和国の経費でオランダに残るか、ベルギーとノール県、パ=ド=カレー県及びソンム県の守備隊となった。バタヴィア共和国の支払いを受ける2万5000人には駐オランダ北方軍、実働軍の名前が、またベルギーとノール県、パ=ド=カレー県の守備隊には領土軍の名前が付けられている例が時にあるが、これは誤りであり、この2つの部隊は単一の同じいわゆる北方軍を形成していた。
(2)3月21日、モロー将軍が北方軍の指揮を執り、ピシュグリュ将軍はパリへ向かったが、軍は3月24日の命令でようやくこの交代を想定した。
p520-521
●サンブル=エ=ムーズ軍
・司令官
アトリ将軍、1月1日から2月28日
ジュールダン将軍、3月1日から12月31日。アトリ将軍、4月20日から6月24日、部下としてルクセンブルク封鎖(1)
・担当区域
1月1日:モブージュを含みロンウィを除くところまでの国境と町
3月3日(同日の布告に続き):左翼をムーズに、右翼をコブレンツからシエルクまでのモーゼルに拠る、ヴェーゼルからコブレンツまではラインでカバーされ、フランス内の担当区域はアルデンヌ県、ムーズ県及びマルヌ県
11月18日:第3軍管区がサンブル=エ=ムーズ軍の担当区域の一部に(2)
・備考
(1)ルクセンブルクは6月7日に降伏したが、封鎖部隊は6月24日までサンブル=エ=ムーズ軍の戦闘地域への復帰を終わらせられなかった。
(2)ピシュグリュ将軍によれば彼は第3軍管区の地域をカバーできず、ジュールダンにそこを占拠するよう要請し、11月18日にそれは実行された。偶然にもサンブル=エ=ムーズの担当区域に移されたこの時以来、第3軍管区は同軍に付属し続けた。
注――ジュールダン将軍に対し増援として送られた北方軍1個師団は、11月18日にデュッセルドルフでサンブル=エ=ムーズ軍と合流したが、引き続き北方軍の一部であり、オランダの支払い下にとどまった。それを指揮するローラン将軍は軍事的な行動についてはジュールダン将軍の命令を受け、管理上の部分については北方軍と連絡した。両軍の担当区域は何の変化もなかった。
p521
●モーゼル方面軍
共和国暦3年フロレアル1日(4月20日)に施行されたヴァントーズ13日(3月3日)の布告により、ライン方面軍とモーゼル方面軍はラン=エ=モーゼルの名の下に統合された
・司令官
モロー[Moreaux]将軍、1月1日から2月9日、暫定指揮
アルベール将軍、2月10日から4月19日、臨時指揮、ルクセンブルク正面の部隊
・担当区域
1月1日:ロンウィを含みビッチュを除くところの国境と町
p522
●ライン方面軍
モーゼル方面軍右翼とまとめられた左翼はマインツ正面軍を形成
・司令官
ミショー将軍、1月1日から4月10日。クレベール将軍、1月1日から2月13日まで部下としてマインツ正面軍を指揮。シャール将軍、2月14日から4月29日まで部下としてマインツ正面軍を、それからマインツ攻囲にあたるラン=エ=モーゼル軍の師団を指揮
クレベール将軍、4月11日から16日、臨時指揮
ピシュグリュ将軍、4月17日から19日、モーゼル方面軍とライン方面軍を指揮(1)
・担当区域
1月1日:ビッチュを含みポラントリュイを除くところまでの国境と町
・備考
(1)共和国暦3年ヴァントーズ13日(3月3日)の布告は3月18日に軍に到着して部分的な施行が始まり、翌日にはピシュグリュ将軍不在の間、ミショー将軍がラン=エ=モーゼル軍司令官の称号を得た。クレベール将軍が4月11日に彼の後を継ぎ、16日まで軍の臨時指揮を執った、だがこれらの将軍は誰もモーゼル方面軍とライン方面軍の組織を変更しなかった。
ピシュグリュ将軍はルクセンブルク正面を通り、4月14日にベンダー将軍に降伏を勧告したが、グンスターブロムのライン方面軍司令部に到着した17日まで、司令官にはならなかった。2つの軍の統合と1つへの組織化は、サンブル=エ=ムーズ軍がルクセンブルク正面のモーゼル方面軍と交代した後の4月20になって実施され、それ以降ようやくラン=エ=モーゼル軍が始まった。
p522-523
●ラン=エ=モーゼル軍
・司令官
ピシュグリュ将軍、4月20日から12月31日(1)
・担当区域
創設時:シエルクからコブレンツまでのモーゼル河畔から始まり、コブレンツからユナングまでのライン流域を占める、国内ではモーゼル県、ムルト県、上ライン県と下ライン県、ヴォージュ県、ドゥー県、オート=ソーヌ県を含む
11月18日:第3軍管区はラン=エ=モーゼル軍の担当区域からサンブル=エ=ムーズ軍の担当区域に移った
・備考
(1)共和国暦4年ブリュメール12日の布告でラン=エ=モーゼル軍司令官に任命されたクレベール将軍はこれを拒否し、ピシュグリュ将軍が軍の司令官にとどまった。
p523
●アルプス方面軍
・司令官
ムーラン将軍、1月1日から10月7日、そして4月5日(1)からはケレルマン将軍の部下
ケレルマン将軍、4月5日から5月5日
ケレルマン将軍、10月8日から12月31日
・担当区域
1月1日:アン県を含みヴァール県を除くところまでの国境と町
・備考
(1)アルプス方面軍とイタリア方面軍の司令官に任命されたケレルマン将軍は、4月5日にシャンベリーに到着し、5日から15日までアルプス方面軍のあらゆる細部を訪れ、それからイタリア方面軍へと出発し、5月5日にニースの司令部に到着した。
p524
●イタリア方面軍
・司令官
シェレール将軍、1月1日から5月5日
ケレルマン将軍、5月6日から9月28日、アルプス方面軍とイタリア方面軍の2軍をまとめて指揮、イタリア方面軍を直率
シェレール将軍、9月29日から12月31日
・担当区域
1月1日:アルプ=マリティーム県を含みローヌ河口までの国境と町
p524
●東部ピレネー軍
共和国暦3年テルミドール26日、フリュクティドール8日及び30日(8月13日、25日、9月16日)の布告により解散、スペインとの和平条約締結後の共和国暦4年ヴァンデミエール20日(10月12日)に消滅(1)
・司令官
ペリニョン将軍、1月1日から5月29日、暫定指揮。シャルレ将軍が1月1日から7月26日まで部下としてモン=リブル師団を指揮
シェレール将軍、5月30日から9月15日
ラメ将軍、9月16日から10月13日
・担当区域
1月1日:ローヌ河口からガロンヌ右岸までの国境と町
8月13日と25日の布告(共和国暦3年テルミドール26日とフリュクティドール8日)(9月初頭に施行):ピレネー=オリアンタル県、アリエージュ県、オード県、オート=ガロンヌ県、エロー県、タルン県、ガル県、アヴェロン県、アルデシュ県、ロゼール県
フリュクティドール14日の布告に続き、共和国暦4年ヴァンデミエール1日(9月23日)に施行:ピレネー=オリアンタル県、アリエージュ県、オード県、オート=ガロンヌ県(2)
・備考
(1)軍担当区域には歩兵18個大隊、騎兵1個連隊が守備隊として残った、戦列歩兵12個大隊、軽歩兵半個半旅団、騎兵1個連隊、土木工兵2個中隊、砲兵5個中隊、労働者1個中隊が、ガル県に休養と訓練用の宿営地を設置することになった。17個半旅団と騎兵1個連隊はイタリア方面軍に移った。
(2)ガルの宿営地を設置することになった兵たちは、ラメ将軍の部下であり彼らの指揮をするハキン将軍の下で第9軍管区に駐屯していたが、共和国暦3年フリュクティドール14日(8月31日)の布告により、共和国暦4年ヴァンデミエール1日(9月23日)に南方軍の名をもらった、ラメ将軍から独立したハキン将軍は、司令官に任命されたカンクロー将軍の到着を待つまで、新たな軍を暫定指揮した、だが共和国暦4年ブリュメール26日(10月16日)の布告が合流前にカンクロー将軍の任命を取り消し、南方軍の名を削除したため、この軍は決して編成されることがなかった。だが1796年1月までこの名称は、第9軍管区に駐留する兵を示すものとして時に誤って使用された、1月末、これらの兵はイタリア方面軍に差し向けられた。
p525-526
●西部ピレネー軍
共和国暦3年テルミドール26日、フリュクティドール8日及び30日(8月13日、25日、9月16日)の布告により解散、スペインとの和平条約締結後の共和国暦4年ヴァンデミエール20日(10月12日)に消滅(1)
・司令官
モンスイ将軍、1月1日から10月12日
・担当区域
1月1日:ガロンヌ左岸に位置する共和国領土の一部全体の国境と町
8月13日と25日の布告(共和国暦3年テルミドール26日とフリュクティドール8日)(9月初頭に施行):オート=ピレネー県、バス=ピレネー県、ジェール県、ランド県、ロト=エ=ガロンヌ県、ジロンド県、ドルドーニュ県
・備考
(1)軍担当区域には歩兵18個大隊と騎兵1個連隊が守備隊として残った、歩兵36個大隊と騎兵2個連隊は西方軍に合流した。
p526
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