革命フランス軍組織 9

 承前。

(参照:Région militaire

1794年

●モーゼル方面軍
 共和国暦2年メシドール11日(6月29日)の国民公会の布告により、左翼はアルデンヌ方面軍及び北方軍右翼とともにサンブル=エ=ムーズ軍を形成する。モローの指揮下にとどまった右翼は、単独でモーゼル方面軍を構成した

・司令官
 オッシュ将軍、1月1日から3月18日、1月13日までライン方面軍への上位指揮権を持つ
 ジュールダン将軍、3月19日から6月2日(1)。5月21日から7月1日まで、モロー[Moreaux]将軍はロンウィとカイザースラウテルン間に位置する部分を、ジュールダンの部下としてまた彼の不在の間に指揮
 ジュールダン将軍、6月3日から7月1日、モーゼル方面軍とアルデンヌ方面軍をまとめて、及び北方軍右翼を、ピシュグリュの部下として指揮
 モロー[Moreaux]将軍(2)、7月2日から12月31日、暫定指揮、7月11日までは臨時で、7月7日から8月3日までミショー将軍の部下

・担当区域
 1月1日:ロンウィを含みビッチュを除くところまでの国境と町

・備考
 (1)ジュールダン将軍はモーゼル方面軍からの3万人とともに5月21日にナミュールへと移動、同軍は2つの部分に分かれ、ナミュールへ行軍した側はジュールダン将軍が指揮し、ロンウィとカイザースラウテルン間に配置された他方は一時的にモロー将軍の指揮下に渡る。ジュールダンが遠くにいたためモローは事実上独立していたが、にもかかわらずこの将軍はジュールダンへの報告を続け公安委員会とは連絡を取らなかった。
 (2)モーゼル方面軍の法的な分割は共和国暦2年メシドール11日(6月29日)の布告のおかげで実行されたにもかかわらず、この書類の命令においてはジュールダンがアルデンヌ方面軍と北方軍と合流した日(6月3日)まで遡るのがふさわしく、これに先立つ時期は全てモーゼル方面軍で、その後は全てサンブル=エ=ムーズ軍となる。
p513-514

●ライン方面軍
 左翼はモーゼル方面軍右翼とまとめ、11月29日(共和国暦3年フリメール9日)の布告でマインツ正面軍の名を受ける

・司令官
 ピシュグリュ将軍、1月1日から13日、オッシュの部下
 ミショー将軍、1月14日から12月31日、3月14日から24日と5月15日から20日、ミショーが軍の全駐屯地を訪問している間、ドルネ将軍が署名、大臣との連絡、および日常業務の提供を行った。彼はまたミショー将軍が6月4日から7日までビッチュへ行った間も指揮を執った。クレベール将軍、12月4日から31日までマインツ軍の部下に(1)

・担当区域
 1月1日:ビッチュを含みポラントリュイを除くところまでの国境と町

・備考
 (1)10月26日(共和国暦3年ブリュメール5日)、マインツ奪回の助けとしてミショー将軍が使えるようになったモーゼル方面軍の右翼3個師団は、この将軍によってこの地の攻囲のためにライン方面軍左翼の2個師団とともに使われ、ライン方面軍に送られた増援と考えられた。
 11月末、公安委員会はクレベール将軍にマインツ攻囲の運営を委ね、モーゼル方面軍とライン方面軍の派遣議員は(12月4日に命令として出された11月29日付の布告により)、マインツ城下に集まった各師団にマインツ正面軍の名を与えたが、特定の軍を編成したわけではなく、いわゆるマインツ正面軍はこの布告後も、それ以前と同様、モーゼル方面軍右翼に増援されたライン方面軍左翼であった。クレベール将軍は誰からも指揮されることなく攻囲を指揮したが、ライン方面軍の司令官の部下であり、マインツ正面軍に関連するすべてのことは、ライン方面軍のものと分類されるべきだ。
 注――モーゼル方面軍左翼とライン方面軍右翼は同じ布告(11月29日)で、ルクセンブルク正面軍とマンハイム正面軍の名を受け取った、だがこれらの名称は考慮に入れるべきではない、それらは滅多に使われず、長続きもせず、モロー[Moreaux]将軍とミショー将軍は常にモーゼル方面軍とライン方面軍の司令官の称号を保持した。
p514-515

●アルプス方面軍

・司令官
 ペラプラ将軍、1月1日から20日、暫定指揮
 A・デュマ将軍、1月21日から7月6日
 プティ=ギヨーム将軍、7月7日から11月30日、暫定指揮
 ムーラン将軍、12月1日から31日

・担当区域
 1月1日:アン県を含みヴァール県を除くところまでの国境と町
p515-516

●イタリア方面軍

・司令官
 デュメルビオン将軍、1月1日から11月20日、5月26日までは暫定指揮(1)
 シェレール将軍、11月21日から12月31日

・担当区域
 1月1日:アルプ=マリティーム県を含みローヌ河口までの国境と町

・備考
 (1)イタリア方面軍指揮官に任命されたオッシュ将軍は3月30日、ニース到着時に逮捕され、パリへ護送された。デュメルビオン将軍は指揮を止めることは決してなかった。
p516

●東部ピレネー軍

・司令官
 ダウー将軍、1月1日から15日、臨時指揮
 デュゴミエ将軍、1月16日から11月17日。ダゴベール将軍、部下として3月29日から4月18日までセルダーニュあるいはモン=リブル師団を指揮(1)。シャルレ将軍、部下として4月18日から24日まで臨時指揮。ドッペ将軍、部下として4月25日から9月末まで指揮。シャルレ将軍、部下として10月頭から12月31日まで指揮
 ペリニョン将軍、11月17日から12月31日、暫定指揮

・担当区域
 1月1日:ローヌ河口からガロンヌ右岸までの国境と町

・備考
 (1)ダゴベール将軍はこの師団に誤って中央軍の名を与えた、これは東部ピレネー軍の孤立した1個師団にすぎない。
p516-517

●西部ピレネー軍

・司令官
 ミュレ将軍、1月1日から8月30日、暫定指揮(1)
 モンスイ将軍、9月1日から12月31日

・担当区域
 1月1日:ガロンヌ左岸に位置する国境と町、そして共和国領土の一部

・備考
 (1)大フレジュヴィユが1794年3月、ミュレ不在の間に指揮
p517

●西方軍

・司令官
 テュロー将軍、1月1日から5月17日
 ヴィムー将軍、5月18日から9月6日、暫定指揮
 A・デュマ将軍、9月7日から10月23日
 カンクロー将軍、10月24日から12月31日

・担当区域
 1月1日;ジロンド河口からロワール河口までの沿岸と町、ロワール右岸のアングランデからロワール=アンフェリウール県内
 5月13日(共和国暦2年フロレアル24日の布告):ジロンド河口からロワール河口までの沿岸と町、サルト県はシェルブール沿岸軍に、メーヌ=エ=ロワール県の北部はブレスト沿岸軍に渡る
p517-518

●ブレスト沿岸軍
 シューアンに対する統合軍の名で知られる機動縦隊が5月7日に担当区域内で創設され、8月26日に解散される

・司令官
 ロシニョール将軍、1月1日から5月6日
 ムーラン将軍、5月7日から10月10日。ヴァショー将軍、部下としてシューアン相手に5月7日から8月25日まで作戦(1)
 リヴォー将軍、10月11日から23日、臨時指揮
 A・デュマ将軍、10月24日から11月9日
 オッシュ将軍、11月10日から12月31日までブレスト沿岸軍とシェルブール沿岸軍をまとめて指揮

・担当区域
 1月1日:ロワール河口からサン=マロを含むところまでの沿岸と町、ロワール=アンフェリウール県は除く
 5月13日(共和国暦2年フロレアル24日の布告):ワール河口からサン=マロを含むところまでの沿岸と町、ロワール右岸に位置するメール=エ=ロワール県の一部を含む

・備考
 (1)ヴァショー将軍は一時、独立したふりをして、自らの指揮下にある1万8000人に対シューアン軍の名を与えた、だが彼はムーラン将軍へ報告するよう命令を受けており、彼の部下であった。
p518

●シェルブール沿岸軍

・司令官
 ボーフォール将軍、1月1日から5日、暫定指揮(1)
 ヴィアユ将軍、1月2日から8月30日。ティリー将軍は1月26日まで西方軍に付属していた師団を指揮(2)
 オッシュ将軍、9月1日から12月31日、そして11月10日からはブレスト沿岸軍とシェルブール沿岸軍をまとめて指揮

・担当区域
 1月1日:サン=マロを除きオティーまでの沿岸と町
 5月13日(共和国暦2年フロレアル24日の布告):サン=マロを除きオティーまでの沿岸と町及びサルト県

・備考
 (1)カーンに1月1日に到着したヴィアユ将軍はすぐ承認された、だがシューアン追撃に忙しかったボーフォール将軍は彼の司令部到着を1月5日まで知らなかった。
 (2)西方軍に派出されていたティリー指揮下の師団は1月14日にナントを発し、26日にカーンに到着してシェルブール沿岸軍に加わった。
p519
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント