伝言ゲーム 上

 一つ奇妙な記述を見つけたので調べてみた。1247~1248年のセビリャ攻囲に関するwikipediaを見ると、そこに「防御側のムーア人は攻囲の際に岩を撃ちだす兵器を使ったとアルベルトゥス・マグヌスは書いているのだが、これが火器の一種を記したものかどうかは定かではない」との一文がある。この文章のどこが問題なのか。
 1247~48年という年号から分かる通り、この時期に欧州で火器が使われていた可能性はあまりない。Medieval Military Technologyにもあるように、欧州で火器が使われた「より論争の少ない」証拠とされているのは1326年のMilemeteの図像であり(p138)、それ以前の証拠とされるものについては色々と疑義が呈されている。だからこの話が事実であったかどうか、という点が奇妙なのではない。
 というかこのセビリャの攻囲については、既にソースとされる文献を調べ、それが論拠としてはかなり怪しいものである点を指摘済み。この話をHistorische Abhandlungenの中で紹介しているTemlerは、火器の存在を窺わせるレオンの司教ペーターが残した文章に対し、様々な疑問点を指摘している。PartingtonがA History of Greek Fire and Gunpowderの中で行った引用のやり方が拙かったのではないか、というのが私の考えだ。
 だが今回のwikipediaにある文言は違う。そこに登場するのはレオンの司教ではなく、アルベルトゥス・マグヌスだ。彼はドイツの神学者であり、トマス・アクィナスの師として知られているのだが、錬金術も手掛けていたらしい。火薬関連でもよく名前が出てくる人物であり、実際、Simplified Rifle Shootingの中には「1280年、アルベルトゥス・マグヌス司教は、1247年のスペイン・セビリャの攻囲で火薬が使われたと述べた」(p2)という一文があるし、Handbook of Firearms and Ballisticsにも同様の記述がある(Appendix 1)。wikipediaの記述はこうした書物から引用したものだろう。
 なぜレオンの司教が(誤った)論拠になっていたはずの主張に、ドイツの神学者の名前が出てきたのだろうか。一応、アルベルトゥス・マグヌスについては、火薬の組成についてロジャー・ベーコンなどと並びかなり初期に言及した人物として紹介されていることが多い。例えばPartingtonは書籍の中で、火薬について言及しているアルベルトゥス・マグヌスのDe Mirabilibus Mundiについて1節を充てて説明している(p81-87)。ただし、1999年版の前書きを書いているHallによれば、この本はアルベルトゥスのものではないという。
 それに、このDe Mirabilibus Mundiフランス語訳はこちら)の中にセビリャの文字を探しても、どこにも見つからない。この、本当はアルベルトゥス以外の誰かがまとめた書物の中に火薬の話があるのは事実だとしても、そこに1247年にスペインで使われたという記述があるかと言われると、正直言って疑わしい。どこかで何らかの勘違いが起きているのではないか、という疑念があるのだ。

 おそらく勘違いの元となったのは、Auguste Demminが記したAn Illustrated History of Arms and Armourではないかと思われる。その中に「1232年に中国人とタルタル人が戦争で通常火薬を使っており、またセビリャ攻囲(1247年)でも使用されたという証拠があり、さらにラケットと呼ばれていたこの粉の製法が1280年にレーゲンスブルク司教アルベルトゥス・マグヌスが書いた書物、De Mirabilibus Mundiに記されていることから、この疑問[火薬の存在した時期]についてはっきりとした日付を定めることができる」(p60)という文章がある。
 よく読めば分かる通り、中国での使用例、セビリャの攻囲、そしてアルベルトゥスの書物という3つの事例を並べて書いているが、「アルベルトゥスの書物にセビリャの攻囲で火器が使われた」とは書かれていない。この本は元々ドイツ語(p71-72)とフランス語(p74)で先に出版されたのだが、やはりどちらも同じような言い回しとなっている。少なくともアルベルトゥスの本にセビリャの攻囲についての言及がある、という記述はない。
 なのになぜこれらの本が影響したと言えるのか。この本の後になって、他の書籍内に「セビリャで火器が使われた」という内容の言及が増えたのが理由だ。上記の書籍はドイツ語版とフランス語版がいずれも1869年、英語版は1894年に出版されているのだが、1889年出版のChambers's Encyclopaedia, Vol. IVには「1247年にはセビリャが射石砲によって守られた」(p636)という言及がなされているし、1893年出版のTunneling, Explosive Compounds, and Rock Drillsにも「セビリャが火を使った弾によって防御された」(p46)という記述がある。
 しかしDemminの本が出る前の1830年に出版されたThe Romance of History: Spain, Vol. IIを見ると、セビリャの攻撃についての言及はあるが、火器らしき記述はどこにもない。同時期に海戦が行われたこと、攻囲は18ヶ月もかかったこと、その間に多くの騎士たちが活躍したこと(何人かの名前も紹介されている)などが記されているのだが、防御側の使った兵器に関する特段の記述は見当たらない。少なくともこの時点で、英語圏においてセビリャ攻囲と火器を結びつける議論はあまりなかったのだろう。
 ではDemminは1247年のセビリャと火器を結びつける話を、いったいどこから見つけてきたのだろうか。考えられる1つのルートが、上でも触れたTemlerの本だ。Temlerはデンマーク人(Partington, p94)であり、彼の書籍はまず1781年にデンマーク語で出版された。続いてドイツ語版は1782年に出版されているのだが、それ以外の言語に翻訳された形跡はない。ドイツ語圏で彼の主張はそこそこ知られていたかもしれないが、英語圏では目新しい議論だったと思われる。
 ドイツ人のDemminが彼の議論を思い切り雑に取り上げたことが、おそらく間違いの始まり。Temler自身は否定していた話を、Demminは事実であるとして紹介した。彼がTemlerの本を直接読んでいたのか、それとも誰かが間違って紹介した話を孫引きしただけなのか、それは分からない。だがDemminの本が(当時の欧州における国際語だった)フランス語に、さらには英語に翻訳されてしまったため、この誤った認識はより広範囲に広がった。
 おまけに英語版が出た1894年以降に、セビリャで火器が使われたという記述がアルベルトゥスの書籍内にあるという、別の勘違いが上乗せされた。こちらは多分、英語圏で生じた間違いだと思うが、やはりいくつかの書籍を孫引きされながら渡り歩き、今ではwikipediaの中にしっかりと腰を据えている、のだろう。元々存在した記録は、レオンの司教の記した「セビリャのイスラム王国がチュニスの王国と海戦をした際に火器が使われた」という(真偽不明の)ものだったはずが、いつの間にか「セビリャ攻囲の際に火器が使われたとアルベルトゥス・マグヌスが書き記した」という内容に変わっていたわけで、まさに伝言ゲームだ。
 もちろん以上の推測には私の勘違いや見落としが含まれている可能性はある。でももしこれが正しい経緯だったのだとしたら、結論は「きちんとソースに当たろう」になる。歴代の書き手が全員そうしていれば、私が苦労して元ネタを探す必要もなかったはずなのだが。

 ついでに同じく欧州での古い火器に関する記録をもう1つ。こちらには1284年にイタリア・フォルリの攻囲で火器が使われたのではないかという話が紹介されている(真偽については怪しいと評価されている)。こちらにも同じ話が載っているが、後に挿入されたものだと疑われている。
 La guerre au Moyen Ageによれば、このsclopiと呼ばれる火器の使用を伝えたのはグイド・ダ・モンテフェルトロらしい。ただしこの記述は「孤立し、疑わしい証言」(p260)とされている。というかそもそもグイドは1283年にフォルリを失い、1284年にはウルビノに場所を移して戦っていたそうであり、戦闘が終わっていたフォルリで火器が使われたという話は信用し難い。欧州における13世紀の火器関連の記述とされるものは、やはりあまり信用しない方がよさそうに見える。
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