革命フランス軍組織 7

 承前。

(参照:Région militaire

1793年

●ピレネー方面軍
 4月30日の布告で東部ピレネー軍と西部ピレネー軍に分割

・司令官
 セルヴァン将軍、1月1日から2月16日
 デュブーケ将軍、2月17日から4月4日、臨時指揮
 セルヴァン将軍、4月5日から30日。ラウリエール将軍、彼の指揮下で東部師団を指揮していたが、4月17日以降は多かれ少なかれ孤立し事実上独立していた。4月25日、シャムロン将軍が臨時指揮
 東部ピレネー軍(1)
 シャムロン将軍、5月1日から13日、臨時指揮
 ド=フレール将軍、5月14日から8月6日
 ピュジェ=バルバンターヌ将軍、8月7日から9月11日、暫定指揮。ダゴベール将軍、オレットからガロンヌまでに駐留する全兵力を指揮下に(2)。9月4日から17日、ダウー将軍がペルピニャンに残った部隊を指揮下に。9月11日から17日、ゴーゲ将軍がサルス師団を指揮(3)
 ダゴベール将軍、9月18日から28日、ペルピニャン城下に集まった全軍(4)
 ダウー将軍、9月29日から10月11日、暫定指揮、ダゴベール将軍が30日にセルダーニュ師団に戻る
 テュロー将軍、10月12日から11月21日(5)
 ダウー将軍、11月22日から27日、暫定指揮
 ドッペ将軍、11月28日から12月20日
 ダウー将軍、12月21日から12月31日、臨時指揮

・担当区域
 1月1日:ブーシュ=デュ=ローヌからジロンド河口まで、第9、第10,第11及び第20軍管区
 3月1日(同日の布告):ローヌ河口からピレネーまでの地中海沿岸、スペイン国境、アンダイエからジロンド河口までの大西洋沿岸、第9、第10,第11及び第20軍管区
 東部ピレネー軍――4月30日(同日の布告):ローヌ河口からガロンヌ右岸までの国境と町

・備考
 (1)ピレネー方面軍の分割により、トゥールーズは両軍の共通補給センターにとどまる。
 (2)中央軍、セルダーニュ軍、モン=リブル軍という名で指摘されているダゴベール将軍指揮下の兵たちは、大臣からは東部ピレネー軍の1個師団とだけ考えられていた。
 (3)ピュジェ=バルバンターヌ将軍は9月3日から4日にかけての夜間に東部ピレネー軍の一部とともにサルスへ後退し、この軍は3つの部隊に分割され、うち2つはセルダーニュとペルピニャン城下にいてダゴベール将軍やダウー将軍に指揮され、それぞれ中央軍とペルピニャン軍という誤った名称を受けとっていた。これらの部隊は特定の軍ではなく東部ピレネー軍の強力な分遣隊にすぎず、その司令部はサルスに宿営していた兵に追随していた。
 (4)9月12日から17日、ピュジェ=バルバンターヌ将軍の辞任からペルピニャンへのダゴベール将軍到着の間、東部ピレネー軍の3つの部隊はほとんど孤立した状態にとどまっていた。派遣議員によって司令官に任命されたダゴベールは、ペルピニャンに到着した18日までその任務を実行できず、そこではサルスとペルピニャンの2つの部隊が前日のペレストルトの勝利に続いて再合流した。
 (5)テュロー将軍は10月12日に司令官として承認されたが、指揮権を実行せず、派遣議員のファブル及びガストンはダウー将軍に指揮権を維持させた。テュローの見解に不満だったこれらの派遣議員は11月22日(共和国暦2年フリメール2日)の布告で彼から名目上の指揮権すら奪い取り、それを暫定的にダウー将軍に与えた。
p500-501

●西部ピレネー軍
 4月30日の布告で創設、ピレネー方面軍右翼から形成

・司令官
 セルヴァン将軍、5月1日から7月4日
 ラブルドネ将軍、7月5日から10日、臨時指揮
 デルベック将軍、7月11日から8月31日
 ドプレ=クラシエ将軍、9月1日から10月4日、暫定指揮
 ミュレ将軍、10月5日から12月31日、暫定指揮(1)

・担当区域
 創設時:ガロンヌ左岸に位置する共和国領土の部分を通じた国境と町

・備考
 (1)9月8日の行政会議の布告で西部ピレネー軍司令官に任命されたデュマ将軍は、10月28日にこの軍に合流した、だが派遣議員は彼が司令官になることに反対し、29日付布告で暫定的に指揮権をミュレ将軍にとどめた。
 12月初頭、行政会議の新しい命令により、デュマ将軍は指揮権を持つことなく西部ピレネー軍を離れ、増援縦隊を西部軍へと率いた。
p502

●国内軍
 3月1日の行政会議布告により予備軍となる、4月30日の布告でラ=ロシェル沿岸軍になる。ロワール=アンフェリウール県で作戦をしていたマインツ軍及びブレスト沿岸軍の一部と再統合し、共和国暦2年ヴァンデミエール11日(10月2日、施行は6日)の国民公会布告により名称が西方軍となる

・司令官
 ブリュイエ将軍、1月1日から3月1日
 予備軍
 ブリュイエ将軍、3月1日から4月28日、4月1日から右翼を直率、ボーフランシェ・ダヤ将軍が部下として左翼を指揮(1)
 レゴニエ将軍、4月29日から30日、右翼を直接臨時指揮、ボーフランシェ・ダヤ将軍が部下として左翼を指揮
 ラ=ロシェル沿岸軍
 レゴニエ将軍、5月1日から27日、右翼を直接臨時指揮、ボーフランシェ・ダヤ将軍が部下として左翼を指揮
 ビロン将軍、5月28日から7月16日、彼の出発後、ロシニョール到着まで、ラ=バロリエール将軍が右翼師団を、シャルボ将軍が左翼師団を指揮
 ロシニョール将軍、7月31日から8月24日
 サンテール将軍、8月25日から30日、暫定指揮
 ロシニョール将軍、8月31日から10月5日
 西方軍
 レシェル将軍、10月6日から27日(2)。クレベール将軍、マインツ及びナント軍の名で知られる師団を10月6日から8日まで臨時指揮、シャルボ将軍、部下としてラ=ロシェル沿岸軍の師団を10月9日から17日まで臨時指揮
 シャルボ将軍、10月28日から11月13日、暫定指揮
 ロシニョール将軍、11月14日から12月4日、西方軍とブレスト沿岸軍の2軍をまとめて指揮、12月2日から4日、ロワール右岸の3軍をまとめて指揮
 マルソー将軍、12月5日から25日、シェルブール沿岸軍の師団とともに臨時指揮
 テュロー将軍、12月26日から31日、シェルブール沿岸軍として知られる師団とともに指揮(3)

・担当区域
 1月1日:パリに司令部、パリ、ヴェルサイユ、クルブヴォワ、コンピエーニュ、ポントワーズ、フォンテーヌブロー、ナンジ及びリュエイユに兵舎
 予備軍――3月1日(同日の布告):国内各県、第17、第18、第19、第21及び第22軍管区
 4月1日:アングランデからのロワール右岸、海までの左岸、及びロワールとジロンド間の沿岸
 ラ=ロシェル沿岸軍――4月30日(同日の布告):ジロンド河口からロワール河口までとアングランデからの後者右岸の海岸と町
 西方軍――10月2日(同日の布告)、6日に施行:ジロンド河口からロワール河口まで、及びアングランデからの後者右岸とロワール=アンフェリウール県内の沿岸と町
 10月18日、ショレの勝利後、西方軍はラ=ロシュジャクラン率いるカトリック軍を追ってロワール右岸に渡る、軍担当区域内に散らばっていた守備隊はナント、リュソン、ニオール、ラ=ロシェルという名で呼ばれた4つの師団に分割された、後者2個師団は准将が指揮し、ノワールムーティエ島に後退したシャレットとヴァンデに対峙するためとどまった

・備考
 (1)3月25日、ロワール左岸の動揺を鎮圧する責任を負っていた予備軍は、オルレアンに集められすぐ2つの主力部隊に分割された、ブリュイエ将軍直率の1つはナント近くでロワールに拠り、ブリュイエの部下であるボーフランシェ・ダヤ准将が指揮する他方はヴァンデで行動する。後者は誤っているがその布陣ゆえにヴァンデ方面軍との名で呼ばれた、この名称は時に、常に不適切であったが、予備軍全体にも使われた。
 ラ=ロシェル沿岸軍のそれぞれの部隊に2人の派遣議員が存在したことは、それぞれが独立していると考えられた原因となり、誤ってそれぞれが軍に相当すると見なされ、時には司令官の名で、時には司令部が置かれた町の名で区別されることにもなった。かくして右翼の部隊はレゴニエ、アンジェ、ソミュール、シノン、トゥール軍と、左翼はダヤ、ヴァンデ、ニオール、フォントネー軍と呼ばれた。時に単なる分遣隊にも軍の名が与えられた。
 (2)西方軍を創設した共和国暦2年ヴァンデミエール11日の布告を受け取り、ロシニョール将軍、菅クロー将軍及びオーベール=デュバイエ将軍は全ての機能を停止された。司令官に任命されたレシェルは、ラ=ロシェル沿岸軍と一緒にいたため、西方軍のこの部分の指揮をすぐに執った。クレベール准将は派遣議員に要請され、マインツ及びナント師団の名で知られる他の部分を臨時に指揮した。レシェル将軍はラ=ロシェル沿岸師団の指揮をシャルボ将軍に命じ、8日夕に出発し9日にはマインツ及びナント師団に到着し、17日にはシャルボ将軍との合流を果たした。
 (3)12月15日にアンジェに到着したテュロー将軍は、西方軍司令官の称号を得たが、26日までこの軍の実働部隊とは合流せず、ようやくその後でマルソー将軍から指揮権を受け取った。
p503-505
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