Lost at Nijmegen を入手した。いかにも自費出版本らしくたった71ページしかないうえにサイズも小さな本で、読み終わるのは簡単。一方、郷土史家が書いているためか、オランダの地名がほとんど説明なしにどんどん出てくるので、自分が今どこの話を読んでいるのか置いていかれないようにするのが結構大変だ。一応、地図も多数掲載されているのだが、文中に出てくる地名が全て地図に採録されているわけではないうえに、米軍が各地点に付した作戦上の番号なども容赦なく登場する。
この手の地図問題は、以前
フルーリュスの戦いについて紹介した 時にも述べた通り、軍事史について調べる場合は必ずついて回る課題だ。ナポレオン戦争期は大隊単位くらいで動き回ることが多いために細かいところに気を遣う場面は限定的で済むが、第二次大戦になると普通に小隊規模や分隊規模での動きが記録されており、把握しなければならない地形もより細かくなる。ましてマーケット・ガーデン作戦のように複数個所で同時並行的に事態が進行する戦役の場合、事態の把握はより面倒になる。
幸い、この本が焦点を当てているのは、マーケット作戦のうち米第82空挺師団の作戦のみだし、それも降下初日(1944年9月17日)と2日目(18日)がほとんどだ。あくまで焦点を当てているのは、降下直後の早い段階でナイメーヘンの橋を奪うことが可能だったかどうかという点のみ。だからこそこれだけ短いページ数で済んだのだろう。
コーネリアス・ライアンのように 作戦立案段階から英第1空挺師団の退却までをカバーしようとすれば、とてもこのページ数で収まるはずもない。
本は、冒頭の序文などや巻末にある付録を除いて、大きく3つのセクションに分かれている。第82空挺師団の具体的な作戦行動について紹介している部分が大半を占めており、次に郷土史家らしく地元オランダ人がマーケット作戦に関連してどのような行動を取ったかについて、何人かの人物に焦点を当てて紹介している。
ネット上で色々と論争を呼んでいる部分 、つまりマーケット・ガーデン作戦の敗因が同師団のギャヴィン師団長にあったというところについては、最後の方で簡潔にまとめている。
ギャヴィン責任説については、これまで紹介したネット上にある言説とそれほど大きく変わるところはない。第82空挺師団に与えられた命令は「ナイメーヘン南部に降下・着陸」し、「フラーフェにあるマース河の橋とナイメーヘンにあるワール河の橋を奪って保持」し、「ナイメーヘンとフルーズベークの間にある高地を奪い、組織し、保持する」ことだった(p60)。単純に読めば橋の奪取が先で、高地の確保はその次である。
だが第82空挺師団はナイメーヘンの橋よりもフルーズベーク高地の奪取と確保を優先した。この点について1945年7月17日に質問されたギャヴィンは「私がこの決断を下し、軍団長[ブラウニング]が承認した」と回答している(p60)。ギャヴィン責任説の最大の論拠はこれ。後は、降下直後に橋を優先して攻撃していれば容易に奪取できたであろう可能性を説得力のある形で示すだけで、この説の支持者を増やすことができる。
ではこの本を読めば「橋は容易に奪取できた」と納得できるのだろうか。実はちょっと難しい。というのもこの本は米軍の動きを中心に説明しているものの、ドイツ軍の動きについてはそれほどはっきり書いているわけではないのだ。確かに米軍の橋への攻撃開始が遅れたこと、それでも一部の部隊は橋のかなり近くに迫ることができた点は分かる。そのまま進めばドイツ軍の増援到着前に橋の南方にある敵を排除することもできたかもしれない。でもそれだけで十分だろうか。
ナイメーヘン橋を確保するためには、南岸を押さえるだけでなく北岸まで進出し、そこに橋頭堡を築く必要がある。なおかつその橋頭堡は、例えばグレープナーが率いた第9SS装甲師団偵察大隊などによる攻撃に対して、英第30軍団が到着するまで持ちこたえなければならない。アーンエムでは1個大隊でかなり長期間持ちこたえたではないかとの意見もあるだろうが、あれは北岸にある市街地に立てこもったからこそできたとも言える。ナイメーヘン橋の北端には
レント という小さな村があるだけだ。当時この村がどの程度の規模だったのかは分からないが、アーンエムほど守りやすい場所だったとは思えない。
北岸に橋頭堡がない場合、英第30軍団は狭い橋の上を自力で突破し、北岸のドイツ軍を排除しなければ、アーンエムに向かって前進することはできない。史実ほどではないとしても、その作戦には相当の時間を要するだろう。単に作戦の優先順位を戻すだけでなく、作戦そのものを見直す(具体的には最初からワール北岸に一部部隊を降下させる)くらいでないと、説得力をもって橋が確保できるとは言い難いように思える。
そう、少なくともフルーズベーク付近に降下した後でナイメーヘンに向かい、橋を奪取するというのは、そんなに手早くできるようには思えないのだ。ナイメーヘンに最も近いところに降下した
第508パラシュート歩兵連隊の報告 を見ても、第1大隊が最初に指定されたナイメーヘン南方の場所を占拠したのは1830となっている。彼らがそこからナイメーヘンに入ったのは2030であり、少なくともその間にはそれほど時間をかけているわけではない。
Lost at Nijmegenでは少し違うスケジュールが書かれており、1600に集結地に到着、1900にナイメーヘンの橋奪取の命令を受け、2100にやっとそこから出発したとある(p61-62)。この場合、ナイメーヘンへの出発を史実より5時間早めることは可能。また第1大隊ではなく、橋の東にある開豁地から接近しやすい第3大隊を向かわせていれば、もっと早めに橋に迫ることができたとも主張している。その第3大隊が橋から3マイルほど離れた集結地に集まったのは1630頃であり(p32)、それから2時間ほどかければ橋に到着できたかもしれない。
問題はその時点ですでに日中行われた降下(1330頃)から5時間も経過している点にある。「速さと奇襲」(p9)こそが空挺部隊の強みであることは間違いないが、5時間という時間はその効果をそれなりに弱めてしまうのではないかと懸念できるだけの時間だと思う。確かにフロスト大隊は6~7時間かけて橋にたどり着くことができたが、例えばフラーフェ橋が降下の20分後には米軍の攻撃を受け、2時間ちょっと後には両端を押さえられていたのに比べ、ナイメーヘンは時間がかかりすぎるのではなかろうか。
もちろん、そうした懸念があるとしても、優先順位を変えたことが問題なのは否定できない。ギャヴィン自身は後に、出撃前に橋の奪取を第508連隊のリンキスト大佐に命じたと主張している(1945年7月25日と1947年の書籍、p11)し、
こちらのサイト もおそらくその前提で書かれているが、リンキストは1945年9月14日に「降下時点ではそう言われていなかった」(p66)と否定している。
実際に
ナイメーヘンに向かった第1大隊の大隊長は2000になるまでそうした命令を受け取らなかったと書いている 。また第82空挺師団に同行していたオランダ人大尉は、降下後の1600の時点でギャヴィンが「道路橋を奪うことを考えている最中だった」(p50)と証言している。1945年時点でこの問題を調べたウェストオーヴァー大尉は、降下前の命令い関する証拠を見つけられなかった(p64)。こうした事実を踏まえる限り、ギャヴィンが降下前に橋の奪取をリンキストに伝えていたという話は怪しい。彼に一定の責任があるのは確かだろう。
それ以外にこの本にある最も興味深い話は、ナイメーヘン橋の爆破用ケーブルを切断したのではないかと見られるオランダ人レジスタンスの話だ。ヤン・ファン・ホーフという名のこの人物は、17日の降下をナイメーヘン付近で目撃し、おそらく18日にたった1人でケーブルを切断。だが19日にはドイツ兵に殺されてしまっている(p50-55)。実のところ彼が本当にケーブルを切断した人物であるかどうかは誰にも分からないのだが、映画「遠すぎた橋」でも描かれていたように
ドイツ軍がナイメーヘン橋の爆破に失敗した のは事実であり、その背後にはこの、今ではほとんど名も知られていない人物の隠れた活躍があったことになるのだろう。なお「遥かなる橋」の作者コーネリアス・ライアンの集めた史料は
こちら で見られる。
それも含め、一般にはあまり詳しく紹介されることのない第82空挺師団の細かい動きが分かるのは、この本のいいところだろう。なかなか楽しいひと時を過ごすことができた。
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