革命フランス軍組織 6

 承前。

1793年

●ライン方面軍
 3月15日、3月1日付行政会議の布告により再編、ライン方面軍とヴォージュ方面軍で形成

・司令官
 ドプレ=クラシエ将軍、1月1日から3月14日、臨時指揮、キュスティーヌの部下
 キュスティーヌ将軍、3月15日から5月17日、4月9日以降はモーゼル方面軍に対する上位指揮権を持つ
 ディートマン将軍、5月18日から29日、臨時指揮、ウシャールの部下
 ボーアルネ将軍、5月30日から8月17日、暫定指揮、8月2日までウシャールの部下
 ランルモン将軍(1)、8月18日から9月29日、8月23日まで臨時指揮、それ以降は暫定指揮
 ムニエ将軍、9月30日から10月1日、臨時指揮
 カルランク将軍、10月2日から26日、暫定指揮
 ピシュグリュ将軍、10月27日から12月31日、12月24日からオッシュの部下

・担当区域
 1月1日:第5及第6軍管区、アン県除く
 3月1日(同日の布告):マインツからバーゼルまでのラインの全戦線、ブザンソンまでの第5及び第6軍管区
 4月30日(同日の布告):ビッチュを含みポラントリュイを除くところまでの国境と町

・備考
 (1)ボーアルネ将軍は8月18日、病気でストラスブールにとどまり、彼に不満だった議員たちは8月23日に彼の辞任を受け入れてランルモンの軍しきけんを暫定的に確認し、彼は8月18日以降に臨時で指揮を執った。
p496-497

●アルプス方面軍
 8月8日から10月29日、リヨン正面宿営地とアルプス方面軍とに分割

・司令官
 ケレルマン将軍、1月1日から5月5日
 ドルナック将軍、5月6日から6月1日、暫定指揮
 ケレルマン将軍、6月2日から10月18日、イタリア方面軍への上位指揮権を持つ、ドルナック将軍、6月2日から11月2日、アルプス方面軍副司令官(1)。8月8日から18日、ケレルマンはリヨン攻囲(2)。19日から21日、彼は国境を訪れ、デュミュワ将軍がリヨン正面で指揮を執る。22日から31日、ケレルマンがリヨン正面で指揮を執る。9月1日、彼は国境を守る兵の先頭に自ら立ち、攻囲師団をギー・クタール=サン=ロー将軍の指揮下に残す
 ドッペ将軍、9月25日から10月28日(3)
 ドゥール将軍、10月29日から11月17日、暫定指揮
 カルト―将軍、11月18日から12月22日
 ペラプラ将軍、12月23日から31日、暫定指揮

・担当区域
 1月1日:第7及び第19軍管区、アン、ヴォークリューズ、下アルプ各県
 3月1日(同日の布告):ブザンソンからの第6軍管区、アルプスからアンブリュンまでの国境、モン=ブラン県、下アルプ県を除く第7軍管区
 4月30日(同日の布告):アン県を含みヴァール県を除くところまでの国境と町

・備考
 (1)ドルナックは、ドッペに知らせることなく、11月2日まで国境の副司令官の地位を保持。
 (2)リヨン攻囲とアルプス国境防衛をすることを余儀なくされたケレルマン将軍は、アルプス方面軍の歩兵12個大隊と騎兵6個大隊を、近隣諸県で徴兵された1万3200人の国民衛兵隊と統合し、8月8日にリヨン城下へ来て宿営し、そこの攻囲を始めた。ケレルマン指揮下でのアルプス方面軍指揮権を与えられたドルナック将軍は、国境護衛を任された兵たちの指揮官としてとどまった。それからケレルマンは状況に応じ、時にはアルプスに、時にはリヨンに向かった。
 (3)9月11日の布告でアルプス方面軍司令官に任命されたドッペ将軍は、25日にリヨン正面に到着し、攻囲の指揮を執った。議員から彼を解雇した布告にすぐ対応しないよう命じられたケレルマンは10月18日まで国境の指揮を続けた、それから彼は逮捕されパリへ連行された。
p497-498

●イタリア方面軍
 9月4日の布告でトゥーロン正面軍(1)と呼ばれる新たな軍が、派遣議員によってその担当区域で創設され、アルプス方面軍からとイタリア方面軍からの2つの強力な分遣隊により形成された、トゥーロン正面軍は12月25日と28日(共和国暦2年ニヴォーズ5月と8日)の布告で解散され、フランス南部、コルシカの守備隊、及びイタリア方面軍と東部ピレネー方面軍の間で分割された。

・司令官
 ブリュネ准将、1月1日から2月9日、臨時指揮
 ビロン将軍、2月10日から5月4日
 ブリュネ将軍、5月5日から8月8日、6月2日からはケレルマンの部下
 デュメルビオン将軍、8月9日から12月31日、暫定指揮、また10月18日までケレルマン将軍の部下
 カルト―将軍、トゥーロン正面軍、9月5日から11月6日(1)
 ラポワプ将軍、トゥーロン正面軍、11月7日から12日、臨時指揮
 ドッペ将軍、トゥーロン正面軍、11月13日から15日、デュゴミエ到着を待つ間の暫定指揮
 デュゴミエ将軍、イタリア方面軍司令官の称号とともにトゥーロン正面軍で11月16日から12月28日、しかし1794年1月5日にピレネーへ向かうまでトゥーロンを出発せず

・担当区域
 1月1日:ニース伯領、ブーシュ=デュ=ローヌとヴァール両県
 3月1日(同日の布告):下アルプ県、ヴァール国境、アルプ=マリティーム県、ローヌ河口までの地中海沿岸、第8軍管区とコルシカ
 4月30日(同日の布告):アルプ=マリティーム県を含みローヌ河口までの国境と町

・備考
 (1)8月28日に英軍の手に渡ったトゥーロン奪回の必要性から、南部各県とアルプス方面軍及びイタリア方面軍の派遣議員は、9月4日の布告で、イタリア方面軍担当区域にトゥーロン正面軍という名の特定の独立した軍を創設することを決めた。この創設の有用性を認めた公安委員会は、しかしトゥーロン正面軍に司令官を任命することでその創設を完了させようとせず、逆にこの新たな軍の指揮権を常にイタリア方面軍の名ばかりの司令官に与え、アルプ=マリティーム県の作戦指揮は臨時に補助的な将軍に委ねた。実際にはイタリア方面軍の付属物でしかなかったこの新しい軍は、一つはアルプス方面軍から7月4日に出発したカルト―指揮下の、他方はイタリア方面軍から8月20日に出発したラポワプ指揮下の、強力な2つの分遣隊を中核とし、マルセイユの蜂起勢を鎮圧することになっていた。
 イタリア方面軍から来た分遣隊に誤って与えられた補助軍という名称、及びアルプス方面軍から下って来た分遣隊に与えられたアヴィニョン軍、南方軍、カルト―軍という名称に関するあらゆる記録は採用してはならない。合流前のこれら2部隊の作戦は、アルプス方面軍よりもトゥーロン攻囲により直接かかわっていたため、イタリア方面軍に所属させるべきである。
p498-500
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