専門家の書評

 こちらの匿名ダイアリーが面白かった。取り上げられているのは学術書ではなく一般啓蒙書ではないかとの意見はその通りだが、まあ見出しも学術書「の類」とあるので、あくまでそうした一般向けの学術っぽい本を読むときの注意点として理解すべきだろう。そう考えればなかなか役に立つ。関連する専門家のセカンドオピニオンに目を通しておいて損することはない。
 むしろこんなエントリーをアップした最大の理由は「近年のポップな人類歴史書の怪しさ」に対する匿名筆者の苛立ちにあるんじゃなかろうか。個人的には同感で、話の枕に挙げられているこちらの書評なども、そういった怪しげな人類歴史書に簡単に踊らされている例の1つに見える。ここではおそらく「道徳主義の誤謬」が生じているのだろうが、そうした誤謬を犯さぬようリテラシーを高める手段として専門家の書評が役立つのは確かだと思う。

 で、それはそれとしてこのエントリーよりも面白いのは、実はそこで紹介されている一連の書評だ。まず最初に出てくるのは上記の怪しげな人類歴史書に対する人類学者の手厳しい評価だ。冒頭に「懐疑的なレビュー」とあるくらいで、最初から最後までこの本に関する批判的な記述で埋まっている。私は元になっている本を読んでいない(こちらのレビューを見た時点で読む気が失せた)のでこの書評がどれだけ正しいかは判断しかねるが、ヒトの社会について知るうえではなかなか役に立つ情報が含まれている書評だと思う。
 基本は最初の方に書かれている「協力と競争は同じコインの表裏」という指摘に集約されている。つまり性善説か性悪説かという切り口自体が成立しないと考えるべきなのだが、この本は性善説をやたらと持ち上げているそうで、その時点で昔から、それこそ何百年も昔(ホッブスやルソーの時代)から言われていることを蒸し返しただけの本であろうと想像がつく。これから歴史を学ぶ初学者が副読本的に読むのならともかく、いい大人が時間と費用をかけるようなものには見えない。
 実際、書評を見てもこの人類歴史書がルソーとホッブスの古臭い枠組みを持ち出す一方で、狩猟採集社会や農業社会の実態がどうであったかという人類学者が積み上げてきた知識を一切無視している(というかそもそも知らない)様子が浮かび上がる。勉強不足の半可通が、僅かに学んだ知識のみを基に一方的な見解を、それも最近は多すぎて手垢がついている「狩猟採集社会ユートピア論」をまたまた取り上げたのか、あるいは最初から間違いであることは承知のうえで、リベラル的価値観を振り回す競争で勝つためわざと道徳主義の誤謬をしでかしているのか、そのどちらかだろう。
 そもそも書評によると、実は少数の集団による移動型の狩猟採集社会は、定住型の社会よりもずっと社会的な関係性が流動的であり、そして暴力の度合いが高いという。つまり密接な人間関係のない社会はそれだけ暴力的な関係に至りやすい傾向があるそうだ。それを示すいくつかの例が書評内で紹介されているし、またそうした社会の暴力に由来する死亡率が、例えば第二次大戦中の独ソ両国よりも高いといったデータも載っている。
 これ、実は現在の都会的な社会に存在する潜在的な問題点を浮かび上がらせる重要な話だと思う。関係が流動的で、かつ薄いという共同体は、特に都会では目立つ。これは田舎的な「密接だが息苦しい」人間関係と対照的であり、そうした自由さを好む今のリベラルな価値観においてはより望ましいものと見られることも多い。だがそうした社会には脆弱性があるとの指摘も存在する。もしかしたら産業社会は都市化の進展を通じ、農業社会よりずっと暴力的だった狩猟採集社会への回帰をもたらしているのかもしれない。
 なおこの本に対する研究者の批判的なレビューとしては、こういうものもある。

 次は過去にも批判したことがあるハラリの本について。同じ人類学者が、これまた手厳しい書評を書いている。
 特に力点を置いて批判しているのが、ハラリの本で言えば序盤にあたる部分。認知革命によってヒトが大きく変わったという部分について、筆者はハラリの説明が実際の研究結果と一致していない点をしつこく取り上げている。この序盤の部分は、ハラリ批判派の評価でもそれなりに「面白かった」とされている部分なのだが、残念ながらたとえ面白くても事実との整合性に欠けているのでは論じる価値もない。こちらで指摘した通り、面白さはフィクションにとってはともかく、歴史書では評価対象にはならない。
 批判は評者が詳しく知っている狩猟採集社会や初期の国家に関する部分だけでなく、科学革命関連の記述ついても浴びせられている。科学革命をもたらしたギリシャ以来の欧州の伝統をほぼ無視していることへの批判であり、また学者と職人、商人と他の上流階級との間にあまり差別や区別がなかった欧州ならではの特徴を理解していないという批判だ。学者と職人の間に差がなかったために知識層が自ら実験に取り組み、商人と上流階級が同じだったために科学の成果を実益に結び付ける流れが強く、それが欧州の飛躍に貢献したという見方だろう。
 このあたりは中国との比較で出てきた概念かもしれない。中国だと学者層は文献を読むだけになってしまったし、支配階級である士大夫たちは商人の活動をむしろ抑制していた(過去だけではなく現在も)。ただ、中国以外の地域も含め、欧州に存在した上記のような特徴がなかったのかどうかについては、もう少し知りたいところだ。
 最後にこの評者はハラリに対し、「重要なトピックの大半について彼が驚くほど少ししか読んでいない」点を指摘している。これは以前に私自身も感じたところであり、ハラリの本を読む必要がないことを示す最も重要な論点だ。要するにこいつはとことん勉強不足にしか見えないのである。これほど勉強しない人間を「知の巨人」と呼ぶのは、ジョークだとしてもシュールすぎて笑えない。もっと彼にふさわしい表現は「思而不学則殆」だろう。

 そして匿名ダイアリーに紹介されている最後の書評は、ピンカーの21世紀の啓蒙を取り上げている。こちらの内容については、個人的に上2つの書評ほど同意するわけではないが、面白い指摘もしている。
 評者はまずピンカーの主張のうち、数字をメインで取り上げている部分を批判。そのうえでいずれは「データ、測定基準、統計分析への誤った信頼を21世紀の呪いと見なす」時代が来るだろうとしている。その論拠となっているのが医学や心理学の分野で問題となっている「再現性の危機」であり、人文科学がこの路線に陥らなかったのは救いの1つだとしている。
 残念ながら評者の認識とは異なり、定量化を重視する流れは歴史学でも再度勃興しつつあるようだ。また評者は、再現性の危機の原因がデータを信頼したこと自体にあるように書いているが、問題はデータそのものではなくデータの不適切な取扱いにあったわけで、要するに統計学に対して無知だった心理学者や医学者の資質の問題だったと見るべきだろう。統計分析への「誤った信頼」ではなく「誤った統計分析」への信頼が拙かったのだから、今後は「誤っていない統計分析」を使えばいいだけだ。そうではなく、相関係数が1でなければ一切意味がないという主張であるなら、それは日本語では「羹に懲りて膾を吹く」と言う。
 次に、評者の指摘で微妙な感想を抱くのが、啓蒙主義についての議論だ。評者はピンカーの言う啓蒙主義が、歴史上の啓蒙主義とは異なる「俺様定義」になっていると長々と批判している。そうなのかもしれないが、こうしたレッテル張りを巡る議論は正直あまり意味があるとは思えない。ピンカーのが俺様定義だとしても、ではこの評者の定義が「俺様定義」でない証拠はあるのか、という問題になるし、どちらの定義がより望ましいものかを知るためには客観的基準が必要になる。定量化を批判している評者に客観的基準を示すことが可能だろうか、とうい疑問が浮かんでくるわけだ。
 一方で最後に書かれている、ピンカーの歴史観が「歴史上の出来事は一つの方向に向かって必然的に展開していく」というものではないか、との指摘には一理あると思う。確かに彼や、マット・リドレーといった人々の観点には、一方的な発展への盲目的な信仰があるように見える。彼らの視点は、過去を振り返って現在がどういう位置にあるかを知るうえではとても役に立つのだが、これまで発展が続いたから将来も続くという保証はない。このあたりは注意して読んだ方がいいのかもしれない。
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