La Bataille de Formignyというサイトを見ると、Du rôle croissant de l'artillerie(砲兵の役割の増大)という項目がある。そこには百年戦争末期に「ジャン・ビュローとガスパール・ビュローが組織した野戦砲兵」という新たな戦場のテクノロジーによってフランス軍が優位を得たことが書かれており、そのうえで「ジェノヴァ人の技術者、ルイ・ジリボーが(中略)クルヴリヌを機動させる車両を発明した」としている。これが機動的な軽砲兵の誕生であり、それまでは車輪を持たない固定した攻城砲しかなかった、というのがこのサイトの主張だ。
このジェノヴァ人のジリボーについては、前々回に紹介したblogでも言及されていた。そちらでも、またLa Bataille de Formignyのサイトでも、このジリボーこそがフォルミニーの戦いでクルヴリヌでの砲撃を行った当人であると書いている。一体このジリボーなる人物は何者であろうか。
ジリボーについては英語文献だとCharles the Seventhの中に簡単な記述がある。彼はフランス王のために1449年8月から1450年2月までトゥールで新しい砲車の開発に当たった。目的は馬匹が引くのではない砲車を開発し、大砲の輸送にかかるコストを下げることにあった。ジリボーは1450年の2月から3月にかけ、国王と一緒にルーアンからトゥール、ベルネー、アランソンへと移動したという。
彼の活躍はそれだけにとどまらなかったそうだ。Oeuvres de Robert Blondel, Tome Premierの脚注には彼に関する記述が色々と紹介されている。それによると、モン=サン=ミシェル年代記には「大砲親方であるジェロー親方」が1465年にモンレリでブルゴーニュの砲兵を沈黙させたとの記録があるほか、1462年にも「ジロー親方」がカタロニアで砲兵を率いていたという(p356-357n)。この脚注ではジェローあるいはジローが、ジェノヴァ人ジリボーだとしている。
こうしたいくつかの記録に基づいてジリボーという人物について記しているのが、Ernestの記したHistoire de Franceだ。彼は「砲兵を引くための新しいシステムを見つけた」(p100)人物であり、ビュロー兄弟はこの外国の発明家に支援されていたという。ジリボーはフォルミニーの戦いで「彼ら[イングランド軍]にクルヴリヌの恐ろしい砲撃の火蓋を切り」(p106)、カスティヨンの戦いでは彼の「300門の大砲が砲弾によってイングランド軍を圧倒した」(p110)という。
……と結論付けてしまいたくなるが、話はそう簡単ではない。もしもこの時代に砲車が既に一般に普及していたのであれば、ジリボーとは関係なく「砲車に載っていた」可能性が高まるからだ。もちろんLa Bataille de Formignyが主張している「それまでは固定した攻城砲しかなかった」という主張は間違いになるが、前にも書いたようにそもそも火器は対人兵器として最初に開発されたのだから、元から説得力のない主張だったことになる。
実際、フス戦争の頃から2輪の砲車に火器を載せるのは当たり前になった、と書いている本もある(Medieval Costume, p60)。ブルゴーニュ公の記録によれば14世紀後半から既に火器を台の上に載せることは普通に行われており、それらは通常、車輪がついていたという(The Artillery of the Dukes of Burgundy, p257)。14世紀から存在したリボードカンのように、車両に火器を載せる取り組みは初期の頃から見られ、だから15世紀半ばに砲車のようなものに乗せた火器があっても不思議はない。
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