フォルミニーの戦い 下

 フォルミニーの戦いで使われたクルヴリヌの特徴がどんなものだったかについて、同時代史料から想定できる話を前回記した。この戦いでクルヴリヌが使われていた可能性は高く、またそのクルヴリヌは小さく取り回しの便利なものであったとも思われる。一方、射程が長い兵器であったかというとそこは怪しく、別時代のカルヴァリンと混同しているのではないか、という結論だった。
 この戦いで使われたクルヴリヌについて、前々回に紹介したWeapons and Warfareの記事ではもう一つの特徴を記していた。「砲車」に載っていたという話だ。実のところLa bataille de Formigny d'après les documents contemporainsに載っている同時代史料には砲車に関する記述は見つからなかった。だからこの件についても論拠なし、と言ってしまえれば簡単なのだが、そうは行かない。
 La Bataille de Formignyというサイトを見ると、Du rôle croissant de l'artillerie(砲兵の役割の増大)という項目がある。そこには百年戦争末期に「ジャン・ビュローとガスパール・ビュローが組織した野戦砲兵」という新たな戦場のテクノロジーによってフランス軍が優位を得たことが書かれており、そのうえで「ジェノヴァ人の技術者、ルイ・ジリボーが(中略)クルヴリヌを機動させる車両を発明した」としている。これが機動的な軽砲兵の誕生であり、それまでは車輪を持たない固定した攻城砲しかなかった、というのがこのサイトの主張だ。
 このジェノヴァ人のジリボーについては、前々回に紹介したblogでも言及されていた。そちらでも、またLa Bataille de Formignyのサイトでも、このジリボーこそがフォルミニーの戦いでクルヴリヌでの砲撃を行った当人であると書いている。一体このジリボーなる人物は何者であろうか。
 ジリボーに関する同時代史料を残しているのはマテュー・デスクーシーだ。と言っても彼がフォルミニーの戦いについて言及した場面に出てくるわけではない。ジリボーへの言及はChronique de Mathieu d'Escouchy, Tome Troisièmeに載っている(p381-382)。そこには確かにルイ・ジリボーという人物への言及がある(ただしジェノヴァ人ではなくGenevoysつまりジュネーヴ人となっている)。
 ジリボーについては英語文献だとCharles the Seventhの中に簡単な記述がある。彼はフランス王のために1449年8月から1450年2月までトゥールで新しい砲車の開発に当たった。目的は馬匹が引くのではない砲車を開発し、大砲の輸送にかかるコストを下げることにあった。ジリボーは1450年の2月から3月にかけ、国王と一緒にルーアンからトゥール、ベルネー、アランソンへと移動したという。
 彼の活躍はそれだけにとどまらなかったそうだ。Oeuvres de Robert Blondel, Tome Premierの脚注には彼に関する記述が色々と紹介されている。それによると、モン=サン=ミシェル年代記には「大砲親方であるジェロー親方」が1465年にモンレリでブルゴーニュの砲兵を沈黙させたとの記録があるほか、1462年にも「ジロー親方」がカタロニアで砲兵を率いていたという(p356-357n)。この脚注ではジェローあるいはジローが、ジェノヴァ人ジリボーだとしている。
 こうしたいくつかの記録に基づいてジリボーという人物について記しているのが、Ernestの記したHistoire de Franceだ。彼は「砲兵を引くための新しいシステムを見つけた」(p100)人物であり、ビュロー兄弟はこの外国の発明家に支援されていたという。ジリボーはフォルミニーの戦いで「彼ら[イングランド軍]にクルヴリヌの恐ろしい砲撃の火蓋を切り」(p106)、カスティヨンの戦いでは彼の「300門の大砲が砲弾によってイングランド軍を圧倒した」(p110)という。
 つまりこういう理屈だ。(1)フォルミニーの戦いにはギローもしくはジローという砲兵親方がいた(ロベール・ブロンデル)(2)同時期に国王に雇われて砲車の改良に携わっていた外国人技術者のジリボーという人物がいた(デスク―シー)(3)ジローやジェローという名の親方は他の戦場でも活躍しており、歴史家は彼をジリボーと同一人物だと見ている(4)フォルミニーの戦場にもジリボーがいたとすれば、彼がそこで発明品(砲車)を使ったとしても不思議はない――。
 おそらくはこのような思考過程を経て、フォルミニーの戦いでフランス軍が「砲車」に載せたクルヴリヌを使った、という議論が出てきたのだろう。ジリボーが作っていたのは馬に引かせない砲車なので、おそらくは人が引いたのだと思われるが、前回も述べた通り当時のクルヴリヌがとても軽量小型(10キロほど)であったことを考えるなら、人が引いて機動性を持たせることもできなくはなかったと思われる。
 問題はジリボーとフォルミニーをつなげた上記の理屈がどこまで正しいかだ。まずそもそも、フォルミニーの戦いについて「砲兵親方」の名に言及しているのはブロンデルしかいない。彼以外の史料で砲兵親方に触れているものは、少なくとも私は見つけられなかった。またブロンデルが書いている名前はあくまで「ギロー」であり、ジリボーではない。似ている名前であるが、どこまで同一視していいのかは不明。もしかしたら両者は別人であり、ジリボーが開発していた砲車はフォルミニーで使われなかった、かもしれないのだ。
 慎重なスタンスで臨むのなら、砲車がフォルミニーで使われたと断言するのはやめた方がいいように見える。少なくともジリボー経由の論拠は遠回りであり、途中の推測が間違っていればその時点で両者をつなぐ理屈が成り立たなくなると思われるからだ。というわけでこの件は「長射程」説と同様に事実である可能性は低い。

 ……と結論付けてしまいたくなるが、話はそう簡単ではない。もしもこの時代に砲車が既に一般に普及していたのであれば、ジリボーとは関係なく「砲車に載っていた」可能性が高まるからだ。もちろんLa Bataille de Formignyが主張している「それまでは固定した攻城砲しかなかった」という主張は間違いになるが、前にも書いたようにそもそも火器は対人兵器として最初に開発されたのだから、元から説得力のない主張だったことになる。
 15世紀半ばに砲車が存在したかと言えば、既に存在していた可能性はそれなりにある。前にこちらで紹介したフス戦争関連サイトには、フス戦争と同時代(15世紀前半)の図像がいくつか載っているのだが、その記述を信用するなら当時既に砲車に火器を載せるのは珍しくなかったことになる。
 例えばこちらの図は上が1400年頃のドイツのもので、下は15世紀前半に書かれたものだそうだ。こちらもドイツの1400年頃の図で、こちらは1420~1440年のものとされている。トラニオンのようなものはまだ見当たらないが、車輪付きの台に載っているのは間違いない。
 実際、フス戦争の頃から2輪の砲車に火器を載せるのは当たり前になった、と書いている本もある(Medieval Costume, p60)。ブルゴーニュ公の記録によれば14世紀後半から既に火器を台の上に載せることは普通に行われており、それらは通常、車輪がついていたという(The Artillery of the Dukes of Burgundy, p257)。14世紀から存在したリボードカンのように、車両に火器を載せる取り組みは初期の頃から見られ、だから15世紀半ばに砲車のようなものに乗せた火器があっても不思議はない。
 結論として、フォルミニーの戦いで使われたクルヴリヌが砲車に載っていた可能性は「そこそこある」と考えても、大きな間違いではないだろう。以上でこの話については終わり。
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