フォルミニーの戦い 上

 しばらく前に火薬兵器に関するこんなツイッターまとめがあった。中を見るとツイッターでの議論というものがいかに徒労感の溢れるやり取りになるかを示している一例に見えてくるのだが、今回はその件についてではなく、議論の中で出てきたフォルミニーの戦いについて取り上げる。英仏百年戦争の末期にノルマンディーで行なわれた戦いだ。
 ツイッターのやり取りではWeapons and Warfareなるサイトに載っているこの戦いの記事くらいしかソースとして取り上げられていなかったのだが、議論のソースが論拠不明(脚注なし)のサイトしかないというのは実に現代のネット的と言える。お前らもっと真面目にソースを追求しようぜ。ネットは使い方次第で実に色々なものを探し出せるんだから。
 議論の中心になっていたのは、フランス軍がこの戦いで使用したとされる火器についてだ。まずはこの引用元不明な記事の記述を確認しよう。言及している部分は極めて短い。「クレルモン[フランス側指揮官]は砲車に乗せた長射程のカルヴァリン2門を前方に送り、イングランド軍の戦線を縦射した。これらの大砲は長弓の射程外から[イングランド軍の]密集した弓兵集団へ砲撃し、その発射速度と精度は敵の四肢や命を奪うには十分な速さだった。やけになった長弓兵たちは突撃してカルヴァリン砲を制圧した。だが酷い犠牲を出してしまったうえに、フランス軍にはイングランド軍陣地を叩く他の大砲があった」
 ここで重要なのは、フォルミニーの戦いでカルヴァリン(クルヴリヌ)という火器が使われたこと、それが砲車に乗せられていたこと、射程の長い兵器だったこと、戦闘の状況に合わせて野戦で使われていたこと(ツイッターではこの点が主に議論の中心となっていた)など。こうした一連の特徴を持つ火薬兵器が15世紀半ばの西欧で使われていた、とこの記事は主張している。
 この件について日本語wikipediaはシンプルで「2門の大砲も奪われてしまった」ことと「大砲が野戦に使われた嚆矢ともいえる」との記述があるくらい。英語wikipediaもあまり変わらず、2門のカルヴァリンがイングランド軍に向けて砲撃したこと、それがイングランド軍によって奪われたこと、そして大砲が中心的な役割を果たした最初の戦いと見なされていることなどを紹介している。一応脚注はあるが、最近になって出版された本からの引用であり、オリジナルのソースが分かるわけではない。
 こうした一般的な記述にはない情報が手に入るのが、こちらのblogだ。文章は短いが、この戦いで使われた大砲が「クルヴリヌあるいはセルパンティーヌと呼ばれる小さな大砲」であったこと、及びそれを指揮していたのが「ジェノヴァ人のジリボー」であったことが分かる。ただしソースは21世紀になって出版された本であり、これもオリジナルとは言い難い。

 結局のところオリジナルの史料は自分で探すしかない。せめて同時代史料がないだろうかと探した時に見つかるのが、La bataille de Formigny d'après les documents contemporainsという文献だ。この本自体の出版は1903年だが、採録されているのは題名の通り、フォルミニーの戦いが行われた同時代に書かれた文献をまとめたもの。まさに今回の目的にうってつけの書物と言える。
 まず載っているのは当時のフランス国王シャルル7世のお抱え歴史家であるジャン・シャルティエの書いた本だ。彼の記述には確かにクルヴリヌが登場するのだが、記述は短い。クレルモンがイングランド軍に酷く撃退された際に「彼らはいくつかのフランス軍のクルヴリヌを奪った」(p15)とあるだけだ。中世フランス語なので内容を完全に把握しているという自信はないが、言及が少ないのは間違いない。
 次に登場するのはマテュー・デスクーシー。彼もまた15世紀の歴史家だ。こちらは少し詳しく、クレルモンが「自軍のクルヴリヌをよりよく守るため」50~60組のランス(中世の戦術単位)と200人の弓兵を送り出したこと、そのクルヴリヌが「イングランド軍の戦線を激しく砲撃し、彼らは多大な損害と障害を受けた」ことが記されている。「これらのクルヴリヌに圧迫された」イングランド軍の指揮官は「600人の弓兵にクルヴリヌの奪取を命じた」。弓兵たちはこれを成し遂げ、フランス軍は火器を放棄せざるを得なかった(p23)。
 3人目はこれまた15世紀の歴史家、ロベール・ブロンデル。こちらの記述は結構詳しい。まず最初の攻撃が撃退されたフランス軍は「砲兵親方の1人であるギローがイングランド軍に対し2門のクルヴリヌで砲撃した。だがフランス軍弓兵に向けて怒りに任せて突進した敵は、大砲2門を奪い、それを宿営地に引っ張っていった」。それに対し、ピエール・ド・ブレーゼはフランス軍を再編し、700人の弓兵からなるイングランド軍の戦線中央を突破してクルヴリヌを取り返したそうだ(p30)。クレルモン以外の関係者の名前がこれだけ出てくる史料は珍しい。
 続いてクルヴリヌに関する記述が出てくるのは、リシュモン大元帥の従者であるギヨーム・グリュエル。こちらでは飛び出してきたイングランド軍によって彼らと戦っていたクルヴリヌ(複数)が奪われた件のみが記されている(p41)。同時代の聖職者だったトマ・バサンが残した記録はラテン語なのであまり正確には意味が取れないのだが、セルパンティーヌと呼ばれる火器をフランス軍が使用していたことなどへの言及がある(p44)。
 15世紀から16世紀初頭の詩人であるマルティアル・ドーヴェルニュの詩にも、クルヴリヌを取り戻したという記述が出てくる(p53)。エロー・ベリーの名で知られる文筆家ジル・ル・ブーヴィエも、イングランド軍が激しく突撃し、彼らと戦っていた2門のクルヴリヌを奪ったとの記述を残している(p58)。彼は1455年に死去しているので、この記録はかなり同時代性が高そうだ。
 15世紀の歴史家ジャック・デュ・クレルクの年代記にはイングランド軍がフランス軍戦線からクルヴリヌ2門を奪い取ったこと、しかし戦いが終わった際にはフランス軍がその2門を取り返したことが書かれている(p63-64)。そして15世紀のユマニストであるロベール・ガギンの記述にも、やはりイングランド軍がフランス軍のクルヴリヌを奪ったという話が載っている(p67)。
 15世紀から16世紀の人物でブルターニュの年代記を書いたアレン・ブシャールの記述には、少し違った表現が出てくる。彼によれば、フランス軍の前衛部隊に襲い掛かった400人のイングランド軍は敵を壊走させ、「数門のファルコンと大きなクルヴリヌを奪った」(p76)ということになる。今まで出てこなかったファルコン(faulcons)という名称の火器が出てきたのは注目点だろう。
 以上、この本の中で私が見つけ出した火器の記述がある同時代の記録は、計10種類に及ぶ。クレシーの戦いで火器について触れている記録(4種類)に比べるとかなり多い数だ。これらの結果を踏まえ、この本の筆者Charles Joretは、フォルミニーの戦いにおけるフランス軍のクルヴリヌについて以下のようにまとめている。
 クレルモンはイングランド軍とフランス軍の戦線(クロスボウで3射程分くらい離れていた)にランスを送り込んだが撃退された。続いて「砲兵親方ジローが2門のクルヴリヌでイングランド軍を砲撃し、彼らの隊列を混乱させた」。だが立て直したイングランド軍弓兵はフランス軍砲兵に襲い掛かり、「2門のクルヴリヌを奪って宿営地まで引っ張っていった」。それに対してピエール・ド・ブレーゼが騎兵部隊とともに駆け寄り、イングランド軍を追い散らしてクルヴリヌ2門を取り返した(p81-82)。
 このまとめ内容がどのくらい妥当なのかについて確認しておきたいのだが、話が長くなったので以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント