Pike and Shot

 欧州に火薬兵器が伝わった中世末期において、軍の編成は非常に多様であった。フランスは重騎兵が有名だったが、イングランドは長弓兵が大きな活躍を見せた。長柄を使った兵としてはスコットランドのシルトロンがあり、同じようにハルバードを持ったスイス兵も有名だ。火薬兵器が伝わった後だが、ハンガリーの黒軍は歩兵の中に重歩兵、盾兵、軽歩兵、銃兵などを抱えていたそうだし、ヴァロワ・ブルゴーニュ家の軍勢には銃兵、パイク兵の他に、弓兵、弩兵や騎馬弓兵などがいた。
 Omanが指摘しているように戦力の中心が騎兵だったという点はおそらく事実だろう。また火薬兵器が伝わると各国がその導入を順次進めていったのもおそらく間違いない。だがそうした大きな流れを別にすると、細かい部分では色々と国別、地域別に違いがあったのではなかろうか。Chaseが述べるように、中央アジアの乾燥地帯に近いInner Zoneではフス戦争のようなラーガーの使用例もある。あるいはイベリア半島のように騎兵による季節的襲撃が中心だった地域もある。多様な兵科、多様な戦い方があちこちに存在していたのが、中世欧州の実情だったように思われる。
 だがこの流れは近代に入ると変化した。それまで様々な「定石」が色々な地域で使用されていたのに、1500年頃を境に欧州では決まった戦い方が他のやり方を蹴散らして広まり、どの国も似たような戦闘法を採用するようになっていった。つまり1つの「定石」を誰もが採用するようになっていったのだ。その定石が、最初はPike and Shotであり、それに取って代わったのが戦列歩兵だった。

 Pike and Shotの時代は15世紀末から17世紀後半まで続いたとされている。最初にこの戦い方のノウハウを確立したのはスペインのゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバであり、それを発展させてつくられたのがテルシオだ。火薬兵器を大々的に使いつつ、その弱点をカバーするためにパイク兵を生かすというPike and Shotの考えを具体化したものと言える。
 テルシオと言えばこちらの最初の図像に出てくる隊形が有名だ。中央にパイク兵の密集部隊がおり、その周辺に銃を持るアルケブス兵やマスケット兵が展開する。銃兵の位置取りは実際には他の格好もあったようだが、重要なのはパイク兵がいざという時の銃兵の避難場所になっていたこと。パイク兵の周囲を銃兵が囲んでいるという格好は、こちらのページで紹介されている様々な図像にも共通した特徴となっている。
 15世紀末から16世紀前半にかけて、Pike and Shotは改革者の手によって進化した。オランダのマウリッツやスウェーデンのグスタフ・アドルフの手になる改革が有名で、彼らの取り組みは軍事革命と呼ばれているほど。ただ、実際に彼らがやったのはPike and Shotの修正というレベルにとどまっていたのは否定できない。
 マウリッツにせよグスタフ・アドルフにせよ、火薬兵器の効果を高めるような改革を行った。有名なのは前者が行った、最前列が斉射して後方へ下がる"という戦術。また彼らの改革を通じて正方形に近かったテルシオから隊列はもっと薄く横に広がったものに変わっていった。The Archaeology of the Battle of Lützenによると、オランダ軍は6列の深さを持つ横隊を組み、スウェーデン軍は時に深さを3列まで減らしたという(p98-100)。
 だが彼らはパイクをなくすところまでは行かなかった。The Archaeology of the Battle of Lützenのp103にはスウェーデンとスペイン、神聖ローマの隊形が載っているが、いずれもパイク兵が銃兵と一緒に展開したものが記されている。こちらのサイトにはオランダ、スウェーデン、さらにルイ14世のフランスにおける隊形が紹介されているが、これまたいずれもパイク兵を含んだものになっている。Pike and Shotの修正にとどまっている、と指摘したのはこの点だ。
 グスタフ・アドルフとほぼ同時代の英国でもPike and Shotは続いていた。Civil Wars in Britain, 1640-1646でも、パイク兵の比率が銃兵に比べて減っていたという指摘は書いているが(p59)、パイク兵がなくなったとは書かれていない。ネーズビーの戦いを描いたという図を見ても、両軍の中央にはパイクを並べた兵の姿が描かれている。
 ただこの時期の歩兵は、テルシオのようにパイク兵の周囲を銃兵が囲むような感じにはなっておらず、彼らの両サイドに銃兵を並べるという隊形が一般的になっていたようだ。上に紹介したスウェーデン軍も、あるいはスペイン軍、神聖ローマ軍、フランス軍といった軍勢も、いずれも似たような隊形に収斂している様子が窺える。1つの「定石」が戦場を席巻する流れは、兵科だけでなく隊形にまで広がっていたということだろう。
 もう一つ、パイク兵についてはStrategy and Tactics in the Thirty Years' Warの指摘も無視できない。パイク兵というと密集した兵士が長柄を突きだす「槍衾」や、あるいはpush of pikeと呼ばれる白兵戦のイメージがあり、双方の兵士がおしくらまんじゅうのように密になっている状況を思い浮かべやすいところがある。だが実際はそうではなかったそうだ。
 Strategy and Tactics in the Thirty Years' Warによると、確かに16世紀初頭のスイス兵は密集して戦っていたようだが、時がたつにつれてパイク兵はもうすこし「ディスタンス」を取るようになっていたそうだ。当時のマニュアルによると「密集隊形」であっても兵たちの間には1.5ペース(112.5センチほど)は開いておくようになっていたそうだ(p10)。前に指摘したRobert Barretによればパイク兵は少なくとも幅3フィード(91センチ)は開けるようにしていたとあり、そこそこの隙間が空いていたのは確かだろう。
 実際、この隙間がなければ銃兵たちがパイク兵の間に逃げ込むことはできない。Pike and Shotのキモと言えるのがこの両兵科の連携にあるのだとしたら、そうした隙間の存在はむしろ当然だろう。後に銃剣を使った戦列歩兵たちは肘を接するほど密集して隊列を組み、槍衾ならぬ銃剣衾を構えて騎兵に備えたことは確かだろうが、そういった戦術は別の武器が使えるようになった時代になってようやく採用可能になったと思われる。

 17世紀後半に銃剣が本格的に使われ始めると、Pike and Shotの時代も終わりを告げることになる。続いて訪れた戦列歩兵の時代は19世紀の半ばまで続くが、今度は火器の射程と威力が増したことによって、散兵の時代に取って代わられる。ちょうど同じころに産業革命が英国以外にも広まり始め、近代初期(近世)という時代も終了する。
 欧州においては、近代初期は分かりやすくPike and Shotと戦列歩兵の時代だったが、世界各地を見ると少なくとも前半のPike and ShotはChaseの言うOuter Zone(及び新大陸)にとどまり、Inner Zoneではラーガーや騎乗用の動物に載せた火器の使用が中心だった。でも戦列歩兵の時代になると、欧州以外にもこの戦い方が広まっていったのは確かだ。少なくともオスマン帝国やインドは戦列歩兵を使う欧州列強に押されていた。Pike and Shotでは足りなかったInner Zoneでの戦闘力が、戦列歩兵には備わっていたのかもしれない。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント