●ピレネー方面軍(1)
1792年10月1日、国民公会の布告により創設、南方軍右翼から編成
・司令官
セルヴァン将軍、10月3日から12月31日。10月28日までモンテスキュー将軍の南方軍から担当区域を分けられず、12月半ばまで司令部に赴いていない
・担当区域
創設時:ブーシュ=デュ=ローヌからジロンド河口まで、第9、第10、第11及び第20軍管区
・備考
(1)この軍は割り当てられた担当区域に残された各守備大隊及び新たに招集された大隊で構成された。1792年末時点ではまだ集まっておらず、組織化が始まったばかりだった。
p489-490
●国内軍(1)
1792年9月4日創設、9月22日、完全に組織化される前に北方軍と中央軍に融合された。10月21日、前日に廃止されたパリ城下宿営地の支援を得て再編成
・司令官
ラブルドネ将軍、9月4日から22日
事態によって組織化を妨げられたこの軍は9月22日には事実上なくなり、レピヌのノートル=ダム宿営地を指揮していたスパール将軍と、ランスで指揮を執っていたダルヴィユ将軍はデュムリエの指揮下にとどまった、デュムリエは10月7日と8日にこれらの兵をアルデンヌ方面軍に組み込んだ
ベリュイエ将軍、10月21日から12月31日
・担当区域
9月9日、司令部がシャロン=シュール=マルヌに設置され、新たに招集された大隊がそこで組織化され、武器と装備を与えられた
10月21日、司令部がパリに設置され、パリ、ヴェルサイユ、クルブヴォワ、コンピエーニュ、ポントワーズ、フォンテーヌブロー、ナンジ及びリュエイユの兵舎が兵たちの住居として割り当てられた
・備考
(1)この軍は、危機にあると宣言された祖国を守るために呼び集められた連盟兵及び国民志願兵の全大隊で構成されていたはずだ。
p490
1793年
●北方軍
3月1日、行政会議の布告により再編、旧北方軍と(ベルギー方面軍の名で知られる)アルデンヌ方面軍左翼から形作られた。9月8日の布告により、中間軍と呼ばれる予備が後方で編成される(3)
・司令官
ミランダ将軍、1月1日から2月1日、実働各師団を臨時指揮。ラブルドネ将軍、担当区域を指揮。1月12日、ミランダ将軍はアルデンヌ方面軍の上位指揮権を自らの指揮権と統合
ミランダ将軍、2月2日から28日、北方軍全体の臨時指揮と、2月22日までのアルデンヌ方面軍に対する上位指揮権。3月1日から10日、デュムリエ指揮下で北方軍副司令官となったが、彼が不在の間は事実上の司令官だった
デュムリエ将軍(1)、2月2日から3月9日までオランダ遠征。3月11日から4月4日まで北方軍とアルデンヌ方面軍指揮。3月21日までミランダは彼の指揮下で北方軍副司令官
ダンピエール将軍、4月6日から5月8日、2軍をまとめて指揮(2)
ラマルシュ将軍、5月8日から27日、2軍をまとめて暫定指揮
キュスティーヌ将軍、5月28日から7月16日、2軍をまとめて指揮。6月16日から7月16日、ルヴヌール将軍が彼の指揮下で北方軍を指揮
キルメーヌ将軍、7月17日から8月10日、2軍をまとめて指揮。ルヴヌール将軍、7月28日まで副司令官
ウシャール将軍、8月11日から9月23日、2軍をまとめて指揮、9月8日から中間軍の上位指揮権。ブレア将軍、12月31日まで部下として中間軍を指揮(3)
デュケノワ将軍、9月24日から25日、臨時指揮
ジュールダン将軍、9月25日から11月9日、2軍をまとめて指揮
デュケノワ将軍、9月[ママ]10日から11月14日、臨時指揮
ジュールダン将軍、11月15日から12月31日
・担当区域
1月1日:北部国境、ダンケルクからモブージュまで(第1及び第16軍管区)
3月1日(同日の布告):ダンケルクからジヴェを含むところまでの国境、ムーズ河までの占領したベルギー地域全体、そして第1及び第16軍管区
4月30日(同日の布告):ダンケルクとモブージュを除いたところの国境と町
・備考
(1)ベルギーで活動している全軍(北方軍とアルデンヌ方面軍)の最高司令官に任じられ、2月2日にアントワープに戻ってきたデュムリエ将軍は、自身でオランダ方面軍と名付けた1万8000人の部隊を組織化するために働いた、彼は事実上の北方軍とアルデンヌ方面軍の司令官としてミランダ将軍を残し、2月後半を使って、北方軍の1個師団にすぎないいわゆるオランダ方面軍の司令官として、オランダへの遠征を実施した。3月9日、彼は指揮権をフレール将軍に任せ、急いで北方軍及びアルデンヌ方面軍のところへ戻った。
(2)4月4日、反乱を起こしたデュムリエはなお軍の司令官としてモールドの宿営地にいた。5日、いくつかの大隊が彼を見捨ててヴァランシエンヌへ向かい、派遣議員のコションとルキニオがヴァランシエンヌからロンウィまでの司令官の地位を与えたばかりのダンピエール将軍の周囲に集まった。デュムリエ将軍とヴァレンス将軍は5日に戦線を越えて逃げ、全兵士はダンピエール将軍に合流し、6日に彼が事実上の北方軍とアルデンヌ方面軍2軍の司令官となった時、4月4日の行政委員会の命令が到着して彼の司令官の地位を確認した。
(3)9月8日付の行政委員会布告はブレア将軍にいわゆる予備もしくは中間宿営地、及びエーヌとソンム両県に位置する全兵士の指揮権を与えた。この重要な指揮権は、ヴァランシエンヌの奪取によって警戒した首都を安心させるため、さらに北方軍の予備として使われる目的で創設され、中間軍という名称になった。ブレア将軍は完全に北方軍及びアルデンヌ方面軍の司令官の部下となり、いわゆる中間軍は特定の軍を形成してはいなかった。だがこの部隊は、共和国の14個軍の中にあるマインツ方面軍やトゥーロン正面の軍と同様に数え上げられており、またこの14個軍は9月8日から10月6日まで存在しなかった。
p491-493
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