マーケット・ガーデン作戦 下

 前回に続き、Lost at Nijmegenを参照したと思われる動画からナイメーヘンに関する解説を確認しておこう。空挺兵による渡河作戦でナイメーヘン橋を奪った連合軍だったが、そこからすぐ英第30軍団がアーンエムへと前進することはできなかった。渡った戦車はたった4両だけだったし、また米の空挺兵も戦車とともに前進するような余力は存在しなかった。
 HastingsのArmageddonによれば、ギャヴィンはこの時のことについて、「もしリッジウェーが指揮を執っていたなら、あらゆる困難にもかかわらず、我々はアーンエムの兵を救うために進むよう命じられただろう」と日記に書いたらしい。だがNeillandsのThe Battle for the Rhineには、第30軍団当事者の発言として「空挺部隊はみな我々の支援を見てとても喜んでいた。誰もアーンエムへ押し出すべきだなどと提案しなかった」というものが載っている。
 話を動画に戻すが、橋を奪ったとしてもまだワール南岸のナイメーヘン市街にはドイツ軍の残党が残っていた。後方に敵を残したまま前進を続けることは困難であり、英軍は彼らを排除する作業に追われていた。彼らがナイメーヘンから最後の残党を一掃した時には既に翌21日になっていた。前にも述べた通り、この段階で既にアーンエム橋北端の英軍部隊は敵によって蹂躙されている。コーネリアス・ライアンの本では英軍がティータイムには休んで茶を飲んでいたと書いていた場面があったと記憶しているが、明白な論拠があるかどうかは疑った方がいいのかもしれない。
 動画の最終盤では、マーケット・ガーデン作戦の敗因についての分析が行われている。1つは前にも紹介している計画の不備だ。ここでは主に批判されるのは英国側(計画を主導したモントゴメリー、英第1空挺師団の様々なミス、英第30軍団の遅い動きなど)。2つ目はこれも前に紹介したが、ドイツの勝利という説だ。ドイツ側の巧妙な戦いこそ連合軍の敗因というわけで、これまた一理ある主張だろう。そして3つ目の説として取り上げられているのが、Lost at Nijmegen、ナイメーヘンでの失敗だ。
 もっと細かくギャヴィンの責任について解説しているのが、同じ人物によるGavin wasn't to blame?という動画。第82空挺師団の優先順位としてナイメーヘン橋の奪取をフルーズベーク高地確保より後回しにしたのはギャヴィンではなく、彼の上官であるブラウニングだという主張に対し、その論拠となっている1945年10月に書かれた史料と、それ以外の史料とを比較している。結論として、優先順位を決めたのはやはりギャヴィンであり、上官のブラウニングはそれを受け入れてそのように行動するようギャヴィンに指示したたのではないか、と動画では述べている。
 そもそもギャヴィンは1945年7月に、優先順位を決めたのは自分であると証言していた。またその際に軍団長(彼の上官であるブラウニング)の了承を得たとも話したそうだ。一方、1945年10月の史料には「ブラウニングが命じた」とあっても、「ギャヴィンがそれに反対した」とか「最初にそう思いついたのはギャヴィンではない」とは書かれていない。従ってギャヴィンが自ら決め、それをブラウニングも認めたという説を否定するものではない、というのがこの動画解説者の解釈だ。
 ちなみにギャヴィンは1945年7月と1947年の2回にわたって、降下前にリンキストに対してナイメーヘン橋を奪うよう命令を出していた、と主張しているそうだ。ただし、こちらの証言についてはリンキストが否定している。この動画解説者は、他にもマーケット・ガーデン関連で色々と動画をアップしているようで、色々と参考になるところが多い。
 さらにこの「敗因はナイメーヘン」という主張は、実は本が出版されるより前の2008年にある掲示板で主張されている。そこではまず降下地域を選ぶ段階で、なぜナイメーヘンの両岸に兵を下ろさなかったのかと指摘。また降下直後に攻撃していれば、その時点では橋を守っていたドイツ兵は19人しかいなかったのに、ギャヴィンはその機会を逃したとしている。
 加えて第30軍団がナイメーヘンまでは計画に「遅れ」ることなく進んでいたことも指摘。ギャヴィンによる戦いの後の発言は「自己正当化」の一種であると結論付けている。橋を奪うことが最優先であったはずのこの作戦において、彼はそれを後回しにし、加えて上司のブラウニングもそれを承認した結果、連合軍は敗れた。主張内容を見るに、もしかしたらこの掲示板の書き手は後にLost at Nijmegenを記したオランダの郷土史家本人かもしれない。
 奇しくもアーンエム橋で必死に戦っていたフロスト中佐自身、後に「最悪の失敗はナイメーヘン橋の奪取を優先しなかったことだ」(A Drop Too Many, xiii)と指摘している。そして、フルーズベーク高地にギャヴィンの上官であるブラウニングが司令部を置いたこと、近くにあるライヒスヴァルトにドイツ軍の装甲部隊が集まっているとの噂があったこと、などが原因ではと推測している。アーンエム橋で待たされた挙句に敵に蹂躙された彼にとっては、このミスは致命的に思えたことだろう。

 さて、この指摘が正しいのだとしたら、マーケット・ガーデン作戦の失敗は主にギャヴィンとその上司であるブラウニングに帰せられることになる。この解釈は、果たして正しいのだろうか。オランダの郷土史家の本を読まないと判断はできないだろう。異なる時代の話になるが、同じように通説に反する主張が出てきたものの、後から「やはり通説の方が妥当」という結論になった例もある。うっかり結論に飛びつくのは控えた方が賢明だ。
 ただ、この説が成り立つためには、なぜギャヴィン(とブラウニング)がフルーズベーク高地の防衛にこだわったのかを説明する必要があるだろう。色々と勘繰るなら、ギャヴィンが上官であるブラウニングに媚を売るため彼の司令部をガチガチに守ることにした、という解釈も可能。だがこれは、ブラウニングが英国の、ギャヴィンが米国の将軍であることを考えるとちと苦しい。ブラウニングがギャヴィンの昇進に影響を及ぼす度合いは限定的と考えるべきだろう。
 ライヒスヴァルトに多くの敵がいるという噂をギャヴィンが本気で信じていた可能性もある。数多くの装甲戦力がこの方面にいるのなら、用心するに越したことはない。そうではなく、逆にドイツ軍を甘く見すぎており、橋の1つくらいいつでも落とせると考えていた可能性もある。ただしその場合は、フラーフェの橋を落とすために両岸に兵を降下させた事実をどう説明するかが難しくなる。敵を見下していたのならそんな慎重な策を取る必要はなかったはずだ。
 もう一つ気になるのは、ギャヴィンが正しい判断を下して降下当日にナイメーヘン橋を落としていた場合、作戦の結果はどうなっていたかだ。こちらのツイートにある通り、もしナイメーヘン橋が初日に落ちていれば、連合軍はアーンエムで河を渡るばかりでなく、そこからゾイデル海まで到達し、オランダにいるドイツ軍をドイツ本国から切り離したであろう、というのがLost at Nijmegenの指摘。さらにはクリスマスまでに戦争を終わらせることもでき、数多くの命が救われただろうともある。
 果たしてそんなに簡単に行っただろうか? マーケット・ガーデン作戦が行われたのは補給難の中で前進を続けたいという狙いもあったはずだが、そうした補給問題を無視してゾイデル海まで、果てはドイツの敗北まで行きついてしまうことが可能だったのか。補給を改善するうえではアントワープまでの海路の両岸を掃討することが必要だったが、そのために必要な戦力をこの作戦後にどうやって捻出するのか。正直、ラインを渡ったからといってその先にバラ色の未来が広がっていると想定するのは、さすがに安直に過ぎると思う。
 とはいえ、これまであまり注目されていなかった視点をもたらしたという意味で、この「敗因はナイメーヘン」説はなかなかに面白い。作戦終了から70年以上が経過した段階で改めてこうした議論が盛り上がるあたり、歴史の奥深さを感じる動きだ。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント