前回に続き、Lost at Nijmegenを参照したと思われる動画からナイメーヘンに関する解説を確認しておこう。空挺兵による渡河作戦でナイメーヘン橋を奪った連合軍だったが、そこからすぐ英第30軍団がアーンエムへと前進することはできなかった。渡った戦車はたった4両だけだったし、また米の空挺兵も戦車とともに前進するような余力は存在しなかった。
HastingsのArmageddonによれば、ギャヴィンはこの時のことについて、「もしリッジウェーが指揮を執っていたなら、あらゆる困難にもかかわらず、我々はアーンエムの兵を救うために進むよう命じられただろう」と日記に書いたらしい。だがNeillandsのThe Battle for the Rhineには、第30軍団当事者の発言として「空挺部隊はみな我々の支援を見てとても喜んでいた。誰もアーンエムへ押し出すべきだなどと提案しなかった」というものが載っている。
動画の最終盤では、マーケット・ガーデン作戦の敗因についての分析が行われている。1つは前にも紹介している計画の不備だ。ここでは主に批判されるのは英国側(計画を主導したモントゴメリー、英第1空挺師団の様々なミス、英第30軍団の遅い動きなど)。2つ目はこれも前に紹介したが、ドイツの勝利という説だ。ドイツ側の巧妙な戦いこそ連合軍の敗因というわけで、これまた一理ある主張だろう。そして3つ目の説として取り上げられているのが、Lost at Nijmegen、ナイメーヘンでの失敗だ。
もっと細かくギャヴィンの責任について解説しているのが、同じ人物によるGavin wasn't to blame?という動画。第82空挺師団の優先順位としてナイメーヘン橋の奪取をフルーズベーク高地確保より後回しにしたのはギャヴィンではなく、彼の上官であるブラウニングだという主張に対し、その論拠となっている1945年10月に書かれた史料と、それ以外の史料とを比較している。結論として、優先順位を決めたのはやはりギャヴィンであり、上官のブラウニングはそれを受け入れてそのように行動するようギャヴィンに指示したたのではないか、と動画では述べている。
加えて第30軍団がナイメーヘンまでは計画に「遅れ」ることなく進んでいたことも指摘。ギャヴィンによる戦いの後の発言は「自己正当化」の一種であると結論付けている。橋を奪うことが最優先であったはずのこの作戦において、彼はそれを後回しにし、加えて上司のブラウニングもそれを承認した結果、連合軍は敗れた。主張内容を見るに、もしかしたらこの掲示板の書き手は後にLost at Nijmegenを記したオランダの郷土史家本人かもしれない。
奇しくもアーンエム橋で必死に戦っていたフロスト中佐自身、後に「最悪の失敗はナイメーヘン橋の奪取を優先しなかったことだ」(A Drop Too Many, xiii)と指摘している。そして、フルーズベーク高地にギャヴィンの上官であるブラウニングが司令部を置いたこと、近くにあるライヒスヴァルトにドイツ軍の装甲部隊が集まっているとの噂があったこと、などが原因ではと推測している。アーンエム橋で待たされた挙句に敵に蹂躙された彼にとっては、このミスは致命的に思えたことだろう。
もう一つ気になるのは、ギャヴィンが正しい判断を下して降下当日にナイメーヘン橋を落としていた場合、作戦の結果はどうなっていたかだ。こちらのツイートにある通り、もしナイメーヘン橋が初日に落ちていれば、連合軍はアーンエムで河を渡るばかりでなく、そこからゾイデル海まで到達し、オランダにいるドイツ軍をドイツ本国から切り離したであろう、というのがLost at Nijmegenの指摘。さらにはクリスマスまでに戦争を終わらせることもでき、数多くの命が救われただろうともある。
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