だがこれらの目標のうち、降下直後の奇襲で完全に奪取できたのはフェーヘルとフラーフェの2ヶ所だけだった。興味深いことにこの2ヶ所はどちらも河や運河の両岸に兵を降下させ、両端から攻撃して奪取している(
フェーヘル と
フラーフェ )。そして残る3ヶ所については空挺部隊は橋の奪取という目標を完全には成し遂げられなかった。
ソンの橋は米第101空挺師団が接近した際に爆破された。こちらは英第30軍団が到着し、架橋部隊がベイリー橋を架けるまで使用不能となった。ナイメーヘンの橋は南岸にドイツ軍が防衛拠点を築き、第30軍団と米第82師団による手漕ぎボートを使った渡河攻撃も含む攻撃によってようやく確保できた。最後にアーンエムの橋だが、北岸を英第1師団が押さえたものの南岸はずっとドイツ側の手に残っていたし、北岸の部隊も最終的にはドイツ軍によって蹂躙された。
成功できなかった3つの橋の奪取のうち、作戦全体にとって最も致命的だったのはどれだろうか。ソンの橋は確かに英第30軍団の足を止めたが、こちらは代わりの橋を架けることができた。そしてそこを通過した後の英第30軍団の進軍は素早く、彼らは9月19日の午前中にはナイメーヘンの橋近くまで到着していた。
英語wikipedia によれば「第30軍団は[当初予定の時間まで]6時間を残してアーンエムから8マイル(13キロ)のところまで来ていた。『最初の遅れは取り戻していた』」とある。
英第30軍団は攻撃開始から48時間以内にアーンエムに到着する予定になっていた。彼らが攻撃を始めたのは9月17日の昼過ぎであり、確かに19日午前の時点ではまだこの48時間は経過していなかった。およそ100キロを48時間で移動する計算だとすれば、残り6時間で13キロというのはほぼスケジュール通りの移動速度だと言える。ソン橋の破壊は当初の想定をずらすほどの被害ではなかったわけだ。加えて
19日の時点ではアーンエム橋北端の英軍はまだ持ちこたえていた 。彼らが破断界を迎えたのは翌20日の午後遅くになってから。
フロスト大隊の抵抗は翌朝までには終わっていた 。
第30軍団の戦車が本格的にナイメーヘンの橋を渡り始めたのは
この20日の午後7時過ぎだった という。明らかに彼らは遅すぎた。だがもしナイメーヘン橋が、フェーヘルやフラーフェのように降下初日の早い段階で奪取されていたらどうだっただろうか。英第30軍団は19日の早いうちに橋を渡ってアーンエムへと前進を始めていた計算となる。それまでと同じペースで移動できるなら、同日午後早いうちに彼らはアーンエム橋の南端に到着していただろう。そして彼らが英第1空挺師団のフロスト大隊との合流を果たし、ライン対岸に橋頭堡を築いていた可能性は、かなり高かったのではないだろうか。
即ち、作戦を破綻させた実行段階での最大の原因は、ナイメーヘンの橋を早期に落とせなかったことにある。いやそもそも、この橋の奪取を担当していた米第82空挺師団は、降下後の作戦優先順位において、この橋の奪取を一番最後に回していた。その決断を下したのは師団長である
ギャヴィン准将 。優先順位を間違えた彼の判断ミスこそがマーケット・ガーデンを失敗に導いた要因である……。
上記のような指摘が、オランダの郷土史家が書いた
Lost at Nijmegen に記されているという。本を記すに際して使った史料や一部内容の抜粋は、
こちらのページ で見られる。そこには、初日にナイメーヘン攻撃を命じられた第508連隊第1大隊に所属していた士官の記録などに基づく降下初日の動きが紹介されている。第1大隊は17日の13:28に降下を行い、最初は
フルーズベーク 高地に防御陣地を築いた。だが19時前後になってギャヴィン准将は連隊長だったリンキスト大佐にナイメーヘン橋の奪取を命令。リンキストは第1大隊のウォレン中佐にこの任務を与えたのだが、彼にとってこの命令は予想外だったという。
当初ウォレン中佐は分散していた兵の集結を待とうとしたが、あまりに時間がかかったため、諦めて21時には1個中隊のみでナイメーヘンへと向かった。だが降下直後には橋にごく少数の兵しか配置していなかったドイツ軍も、7時間半の時間が与えられたことにより準備を強化できた。米軍の攻撃は失敗に終わった。その後もドイツ軍はナイメーヘン市街に防衛部隊を送り込み、やがて橋は軽装備の米空挺部隊が単独で落とせる状態ではなくなっていった。最終的に英第30軍団の戦車と、彼らが持っていた手漕ぎボートを借りた空挺兵の協力によって、ようやくナイメーヘンを落とすことができたのは上に述べた通りだ。
この本に関するレビューは、amazon以外に
こちら にもある。読む限り、かなり評価は高い。また
こちらのblog では、前に紹介した
Beevorの本 と並べて感想が書かれているが、Beevorの本からは新しい知識がほとんど得られなかったのに対し、Lost at Nijmegenに対しては「優れた研究成果」とほめている。そのうえで、英第30軍団がほぼ時間通りに行軍していたこと、「英空挺師団の破滅をもたらしたのはギャヴィンの判断にある」といった書籍の内容を紹介している。
さらにマーケット・ガーデン作戦の解説を行った動画がYoutubeにも上がっている(
こちら を参照)のだが、その中で第82空挺師団の行動を説明している部分は、おそらくLost at Nijmegenに基づくものだと想定できる。そこではまず初日に彼らがナイメーヘン橋の奪取を優先しなかったこと、夜になってようやく1個中隊が攻撃を行ったことを紹介。橋の奪取こそがこの作戦で最も重要だったのに、それが成し遂げられなかったと指摘している。
2日目にはギャヴィンが部隊を集めていたフルーズベーク高地に対するドイツ軍の攻撃があった。ギャヴィンはフルーズベークに近いライヒスヴァルト方面に多数の装甲兵力があると想定してこの高地に兵力を集めていたらしいが、実際に攻めてきた第406師団は4個大隊程度の戦力しかなく、その攻撃で米軍側に出た死傷者は11人にすぎなかった。だがギャヴィンは第2次降下でやってきた戦力も投入して反撃し、ドイツ側の1000人以上を倒すか捕虜にした。フルーズベーク高地にいた第82空挺師団の戦力がドイツ側より圧倒的に優勢だったことを窺わせる数字だ。
そうやってギャヴィンが過剰な戦力をフルーズベーク高地に集めている一方、彼が奪取を後回しにしたナイメーヘンにはパンネルデンの渡し船を使った第10SS師団の増援がじわじわと届いていた。複数のKampfgruppeが街中に配置され、必要な防御の準備をした。米第82空挺師団の多くはナイメーヘンを放置したまま、弱体なドイツ軍「師団」の攻撃を1回跳ね返しただけで、あとは戦況にほぼ何の影響も与えないまま時間を費やしていたことになる。
3日目、英第30軍団と合流してようやくナイメーヘン橋への攻撃が始まったが、対岸からの砲撃も含めたドイツ軍の激しい抵抗に遭い、攻撃は失敗した。4日目もナイメーヘン南岸にとどまった約500人のドイツ兵を相手に苦戦した連合軍は、午後3時に手漕ぎボートを使ってワール河を渡るという危険な手段を使ってようやく北岸のドイツ軍を追い払った。続いて英軍の戦車がいくつか橋を渡ることに成功し、ここでようやくナイメーヘン橋が連合軍の手に落ちた。
長くなったので以下次回。
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