ミーム跋扈

 少し前にこんな話が話題になっていた。以前、火薬兵器がらみのフィクションとして紹介したこの作品のタイトルロールの親が誰であるかについて1つの考えを示したものだ。内容については賛否両論だったが、こちらの記事で「公式側が発表している設定と照らし合わせると、無理がある」との指摘で話としては収束した感じがある。
 ただしこの指摘をしているblogでは、同時に「作品は作者の手を離れた時点で、受け手のものになる」とも書いている。フィクションである以上、どのように受け取ってもいいという考えはおそらく妥当なものだろう。結局のところフィクションは嘘八百であり、ここで話題になっていた登場人物も実在した人間ではないわけだ。彼ら彼女らがどんな由来をもって何をしていたかなど、各人が勝手に想像しても何の問題もないし、誰にも迷惑はかからない。
 むしろフィクションにとって重要なのはそれが「面白いか否か」だ。そもそも嘘八百にわざわざつきあうメリットは、面白い暇つぶしができるという点以外にはない。フィクションやその解釈については、面白いと思えば受け入れればいいし、つまらないと思えば黙って去るのがいい。別に公式の設定に従わなければならないというルールはなく、その中身が「ぼくのかんがえたさいきょうのなんちゃら」であっても一向に構わない。自分にとって面白いかつまらないかだけが判断基準だ。
 もちろん自分にとって面白いからといって他人にとっても面白いという保証はどこにもない。だから自分の解釈を他人に押し付けるべきではないし、自分が正しいなどとズレたことを言うのはやめた方がいい。自分と同じく面白いと思った他人とは解釈を共有すればいいし、そう思わなかった者と無理に絡む必要もない。所詮は単なる暇つぶしなのに、その暇つぶしのためにわざわざ他人と対立するなど馬鹿げている(よそから見ればただのギャグ)。くり返しになるが、フィクションの解釈違いに対しては黙って背中を向けるだけで十分だ。

 ただしこの原則が問題なく当てはまるのは、あくまでフィクションを相手にする場合だけだ。フィクションでない言説と向き合うさいに「面白いかつまらないか」を言い出すと、拙いことになる可能性がある。面白いが事実に反している話の方が高い評価を受け、事実に即しているがつまらない言説はつまらないことを理由に否定されてしまう恐れがあるからだ。
 例えばこちらのblogで紹介されているピンカーの書評。本の内容紹介とその評価とが書かれているという意味では普通の書評だが、前著に比べて「工夫」が必要とされなかったためか、作中では「延々とグラフやデータが示され続ける」ことになり、結果として「新鮮味がほとんど感じられない」との指摘がその中にある。結果「全体的にはあまり評価できない本」というのが評者の判断となっている。
 こうした書評はおそらく珍しいものではない。私自身もこれに類した話を書いていることは多分あっただろうし、そもそも本の中身とは関係ない話(例えば物理的に重いとか)を記すこともあるわけで、書評としてこうした書き方に問題があるというつもりはない。つもりはないのだが、それでもフィクションではない書物に対して「読み物としての面白さは数段劣る」という評価が成り立ってしまうところに、大きな問題を感じてしまう。
 ピンカーの書物において重要なのは、彼が主張する「人類は進歩してきて、世界はどんどん平和になってきた」という話が事実かどうかである。それが事実であると立証するため多くのグラフやデータを提示するのは、フィクションではない書物にとっては重要な手順だし、それを誠実に行っていることの証拠だとも考えられる。一方、それがつまらなさをもたらしていることもおそらく事実だろう。ピンカーの本において面白さやつまらなさは本来の評価基準ではないはずだが、一方そういう評価ができてしまうのも確かだ。
 以前シュミルの本を紹介した時に、フィクションではない書物で、事実に基づき多くの情報を載せてはいるが読んで面白いとは言えない(退屈だというレビューがたくさん出てくるような)ものがある一方、事実を雑に扱いつつ極端な結論を打ち出すことで「読み物としての面白さ」を確保しているものもあると話した。個人的には前者の方が誠実な書物である一方、後者は残念ながら質の低い書物だと思っている。でも、世の中は必ずしもそう捉えてはいない。
 ドーキンスが唱えたミームという概念がある。最近では単なるネット上の流行、というか「ネタみたいなものでユーモラスなインターネットのユーザーによって急速にコピーされて広がっている画像、ビデオ、文章のこと」と認識されているようだが、元々は遺伝子のように脳から脳へと伝わる文化の単位という意味だった。遺伝子がそうであるように、ミームの中にも上手く広まるものと、広まることなくやがて消えていくものが存在するというわけだ。
 ここで重要なのは、ミームの優劣はその中身や価値とは関係なく、「いかにうまく広がるか否か」で決まってくるという点だ。利己的な遺伝子という概念の類推から生まれたものであるため、自己の複製をできるだけ多く効率よく作れるミームこそが「優れたミーム」となる。ミームの自己複製のために効果的な方法としては、例えば「危険、食べ物、生殖を含む」ものが他のミームより速く広まるといった説がある。
 おそらく書物という切り口で言えば「面白さ」こそが優れたミームなのだろう。もちろんフィクションの場合はそれで構わない。だが読者である我々ヒトは、フィクションでない書物に対してもついそれを適用してしまう。書かれている内容が事実かどうか、それを説得的に提示しているかどうかではなく、「面白いか否か」という切り口で書物を受け取り、それを広めていく。面白い本こそがヒトの社会に広く適応したミームであり、一方「事実を丁寧に」記すことはミームとしての力はほとんど持っていないのだと思われる。

 しかしながらフィクションでない、何が事実かが重要な意味を持つ書物を評価するうえで、この「面白さ」というミームはむしろ書物に対する間違った評価をもたらしかねない。以前ビッグヒストリーについて触れている最近の書物について、「採録されている表やグラフ」が充実しているほど評価すべきではないかと書いたことがあるのも、そうした懸念があったからこそだ。面白さだけで選ぶと間違った道に入り込む恐れがある。
 でも現実においてはミームの強さが引き続き目立っている。つまり、退屈だが事実を丁寧に追った言説よりも、たとえ事実認定が怪しくても面白さが際立っているものの方が多くの反応を集め、注目され、そして評価を受けている。書物だけではない。株式市場における陰謀論や、Covid-19絡みの言説は、いずれも事実認定としては怪しいにも関わらず、話の面白さから広く受け入れられた。ヒトはこういったミームを受容し、広めてしまうような性質を持っており、それはそう簡単には変わらないのだろう。
 そう考えると、「リテラシー」の重要性を訴えることへの徒労感が募ってくる。間違いなくリテラシーは重要だし、他人より高いリテラシーを持つことはおそらくその人物に大きなメリットをもたらす。たとえ他人のリテラシーが向上しないとしても、自分だけでもリテラシーを高める努力をするのは無駄ではない。でも一方で、リテラシーの高い人であっても「空間除菌」されている場に行かねばならない場面が発生するなど、社会全体のリテラシーの高低が自分自身に跳ね返ってくるケースもある。もちろん、そもそも自分自身のリテラシーが実は足りていなかった、という事態も常に発生し得る。
 おそらく自分自身と社会全体のリテラシーを高める努力は、皆が地道に続けるしかない。向上心を失った時が最も危険だ。徒労だと思っても、新しく出てくる「優れたミームかもしれないが事実に反している」言説を、モグラたたきのように批判し続けなければならないのだろう。ピンカーの言う通り、昔より人類が賢くなりリテラシーも上がっているのだとしたら、これまでの努力をこれからも継続することが今に生きる者の義務だ。
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