兵士の健康

 ナポレオン戦争期の考古学については以前、ワーテルロー事例いくつか取り上げたことがある。もちろん、同じような取り組みはワーテルロー以外でも行われている。最近だと1809年に行なわれたアスペルン=エスリンクの戦い、及びヴァグラムの戦いの舞台となった戦場で、発掘調査が行われている。
 アスペルンでの調査は2008年から2016年にかけて実施されたようで、結果をまとめた論文がこちらこちらにある。内容についてはSkeletons From Napoleonic Battlefield Shed Light On Soldiers' Healthという記事にざっくりまとめられているので、そちらを参照すればいいだろう。
 アスペルン=エスリンクの戦いにはフランス兵7万7000人とオーストリア兵9万人近くが参加し、おそらく7000人ほどの兵士が戦場に倒れ、そこで埋葬されたという。今回、発掘されたのは30人ほどの兵士だったが、研究者たちはその骨を調べ、兵士たちが戦死する直前の状態だけではなく、その子供時代の健康状態まで調べたのだそうだ。
 調べた30人は全員男で、その大半は18歳から35歳までの若者たちだった。このあたりは戦場で埋葬された兵士たちのプロフィールとして不思議でも何でもない。徴兵制で動員されていた兵士たちは最低限の健康状態を保持していると見られるため、彼らの子供時代の栄養状態は悪くないだろうと研究者たちは想定していたようだが、実際に彼らの大腿骨は同時代の他の人々と比べてもかなり高く、おそらく子供時代の栄養状態がいいことを示していた。
 だが一方、彼らの半数は歯のエナメル質形成不全も起こしていたそうで、これは子供時代の環境あるいは代謝ストレスが存在していたことを意味している。兵士たちの子供時代は、一様に肉体的なストレスと無縁であったとは言い難いようだ。このあたりも、彼らが生きていた時代のフランスがまだ産業革命以前の社会だったことを考えるなら違和感はない。その年の作況によっては、子供時代に苦しい生活を強いられる場面があったことは十分に考えられる。
 若いころはともかく、軍に徴兵された後の彼らの生活がかなり苦しいものであったことは、調査前から想定されていた。手紙や回想録などを見ても、軍隊生活の苦しさは明白である。ましてこの時代は兵士たちに強行軍を強いるのが普通だったし、またテントなどを使わず野営させることが一般的でもあった。今よりも寒冷だった時代にそのような生活を続けていたのでは、兵士たちの健康に影響が出ないわけがないだろう。
 実際、兵士たちの4分の1は鼻炎を患っており、およそ5分の1は肺に炎症を起こしていた。その原因は「火薬、タバコあるいは明かりや暖を取るための焚火、戦場の煙、そしてマスケット銃や大砲が生み出す硝煙」などだ。改めてこう並べられると、この時代の兵士たちは確かにばい煙まみれの労働環境で延々と仕事をしていたようなもので、そりゃ肺が真っ黒になっても仕方ない。それ以外にも軍隊生活の厳しさは骨に表れていたようで、一例がストレスによる中足骨のひび、いわゆる「行軍足」だそうだ。研究者は「軍隊生活は兵士たちの生活に有害」と結論づけている。ナポレオン戦争の兵士たちは血色のいい英雄たちではなく、体がボロボロになった病気の若者であった。

 ところがヴァグラムの戦場後を発掘したところ、アスペルンの兵士たちの方がまだマシという結論が出てくるのだから恐ろしい。前者についてはArchaeologists Dig Up Mass Grave of Soldiers Crushed by Napoleon's Troopsという記事を参照してほしい。オーストリアが戦場跡地に高速道路を建設することになり、その前段階として発掘調査が行われたのだが、見つかった兵士たちの骨はさらなる戦争の厳しさを示すものだったという。
 Archeological Excavation in Wagram Reveal Insights into the Conditions of Napoleonic Soldiersという記事を見ると、この発掘調査では8000点以上の出土品が発見されたという。その中には2000発のマスケット弾丸、400発の砲弾、さらに500枚のコインなどがあり、さらには薬品の瓶、きれいな装飾が施されたポケットナイフ、さらに1000個以上のボタンがあった。
 このボタンが、ヴァグラムの戦場で見つかった者たちの判別に役立った。衣服の織物などは痕跡がほとんど残っていないが、金属製のボタンは残っているため、埋められた者の素性がある程度は推測できるという。実際、あるフランス軍士官の死体については、それが具体的に誰であるかも特定したそうで、戦いから200年が経過していることを考えるなら見事なものだ。
 見つけだした50人の死体は、その大半が16歳から30歳の若い男で、これまた不思議でも何でもない。彼らはイタリア方面軍の第1、第2、第29及び第52連隊、そしてウディノの第2軍団所属の第9、第23、第94、第96連隊に所属していたようだ。彼らの健康状態もやはり厳しく、ビタミンCの不足による壊血病の痕跡や、重い荷を背負っての長い行軍による関節の炎症、そして密集した軍の宿営地で広まった肺炎や他の病気への感染の証拠が見られた。
 実はこのヴァグラムの発掘に携わった人物は、アスペルン発掘と同一人だった。そしてその人物によると、アスペルン=エスリンクから6週間が経過したヴァグラムの死体は、前者の死体と比べて呼吸器系の病気が増えていた証拠を示していた。この6週間、フランス軍とオーストリア軍はドナウを挟んでにらみ合いを続けていたが、兵士たちにとっては健康を悪化させるような状態が継続していたのだろう。(軍隊での)労働は健康に悪い、というわけだ。

 軍隊生活の兵士たちが体調の悪化に苦しんでいたとはいえ、アスペルン=エスリンクやヴァグラムの戦いがあった1809年はそれほど病気が深刻な影響を及ぼした戦役とは認識されていない。ナポレオンの戦役で病気が多くの兵を殺した例と言えば、例えばシリア遠征(ペスト)やサン=ドマング遠征(黄熱)、そして何よりも発疹チフスで大量の兵が倒れたロシア遠征だろう。
 軍隊生活が疫病に対して脆弱なのは間違いない。特に当時は今のような発達した輸送手段がなく、補給が困難だったこともあって、軍隊は非常に不健康な場所になっていた。ただでさえ集団生活によって疫病が蔓延しやすいうえに、不十分な補給によって栄養状態が悪化し、病気に対する耐性が低下しやすいことも影響しただろう。食料を運ぶのが難しい環境下では兵の駐留する現地から調達するしかないが、これも駐留期間が長引くと食料を食い尽くす傾向が見られたことはクレフェルトの本などで指摘されている。運ぶ手段があったとしても補給が簡単でないことは、以前カタロニアの例を取り上げた
 加えてこの当時は現代医療が確立されていなかった。いまだに瀉血のような方法が使われていたし、簡単に負傷した四肢を切断するような時代だった。そもそも何が原因でペストやチフスのような病気になるのかもわかっていなかった時代だろう。隔離のような方法は既に存在していたので、疫病が感染するということは理解していたはずだが、それに対する合理的な対抗策を作り上げられるような知識はなかった。
 その意味ではアスペルン=エスリンクやヴァグラムの戦場で見つかった兵士たちの健康状態が悪かったのは、想定の範囲だったと言える。もちろん当時はフランス人の平均寿命が30歳台だった時代。子供の死亡率の高さは当然あっただろうが、大人になったからといって一気に栄養状態が良くなったわけでもないだろう。200年前が今よりずっと人命の軽かった時代であることは間違いない。
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