歴史と還元主義

 Peter Turchin激おこ一連のツイートをほぼそのままblogに落とし込むという、彼にしては珍しく手抜きなエントリーだが、まあそんだけ頭にきていたのだろう。彼を怒らせたのはForeign Policyに載っていたThe Past Doesn't Tell Easy Stories About the Westという記事である。
 この記事では、歴史データを使った新しい説に対していろいろと批判を浴びせている。対象となっているのは、肖像画を使って社会的信頼の変化をたどった論文(日本語ではこちらの記事が簡単な内容を紹介している)、Turchinらが唱えているCliodynamics、そして以前こちらのエントリーで触れたことがある、いとこ婚と近代化との関係について論じた論文だ。これらの主張はすべて誤っている、というのがこの記事の結論だ。
 ただ、中身をよく見るとわかるのだが、筆者が主に叩こうとしているのは実は最後の論文、つまりカトリック教会による近親者の結婚禁止が西欧人の心理に影響を及ぼし、最終的には西欧の民主制や個人主義を生み出したという主張の部分だ。これに対する批判は非常に微に入り細を穿っており、それだけ説得力があるように見える。私自身もこの論文についてはかなり雑な分析に基づく人種偏見的な主張だと思っていたので、その点でこの記事に異論はない。論文筆者がこの説に基づいた本まで出版しているのには驚いたが、読む際にはかなり注意が必要な本だと思う。
 ちなみにこちらのツイートによれば、いとこ婚論文で西欧の文化的例外主義を示す言葉として使われていたWEIRDは、元々は心理学での西欧中心主義を修正するための概念だったそうだ。
 話を戻そう。Turchinらと、最初に出てきた肖像画の話は、実のところこの「いとこ婚」論文に対する批判のとばっちりを受けたようにしか見えない。肖像画の論文については、こちらのツイートのように記事内容を批判する声もあるが、どのくらい妥当なのかは私は詳しくないので判断できない。だがCliodynamicsへの批判は、正直いってすごく雑。書かれているのは「大きな神」仮説の関係者からの異論(Turchinがblogで紹介している例)と、後は「南北戦争を統計的な例外として切り捨てた」という部分だけだ。
 前者についてはTurchin自身の反論を見てもらうのがいいだろう。道徳的な神に関する論文は、記事の筆者が批判しているような歴史家の話を聞かずに作り上げられた主張ではなく、多くの歴史家に確認したうえで書かれたものであり、「大きな神」仮説関係者からの異論に対しては自分たちも反論して、新しい論文も書いている。一方の主張ばかりを取り上げてこちらの反論に全く触れていないのは「著しく偏り、欺瞞に満ちている」というわけだ。
 後者の、南北戦争が統計的な例外だという部分については、正直何を言っているのかよくわからない。あの時代が永年サイクル、あるいは父息子サイクルにおける例外だとTurchinが主張しているのならまだ問題視するのも理解できるが、Turchinは南北戦争以降を米国の「第1次不和の時代」だとしているし、また父―息子サイクルで見ても1860年代はほぼ理論通りに社会政治的不安定性が増した時代だ。むしろ例外について批判するなら1820年代の方が適切ではなかろうか
 いずれにせよTurchinに対する批判は片手間だし、中身も薄い。「大きな神」仮説関係者の反論にかなり頼っている部分を見ても、記事の筆者自身がきちんと調べて書いた様子はない。正直、最初からいとこ婚論文についての批判に絞り込み、後は一般論として「歴史データを基に調べる場合にはいろいろ注意すべきことがある。最近はそういう主張も増えているが、中身はきちんと精査すべきだろう」くらいで終わらせていれば、Turchinもここまで憤慨することはなかったのではないか。ネット時代では雑な批判はすぐに詳しい人間から総ツッコミを受ける。炎上マーケティングが目的ならともかく、学問的な話をしたいのなら控えた方がいい。

 この記事特有の問題点はともかく、もっと難しい問題が実はここから派生してくる。一つは記事筆者がいとこ婚論文に対して厳しく批判している「西欧中心主義」的な価値観を巡る問題だ。確かにあの論文は西欧中心主義的、西欧特殊説的であり、イスラム圏に対する偏見を助長しかねない内容であった。だが西欧中心主義や西欧こそが特殊であるという考えを批判するあまり、そういう主張をしている説をすべて否定してしまうのは、逆の意味で歴史を偏見のレンズで見ていることにつながる恐れがある。Scheidelなどはある意味で「欧州が特殊」という説を唱えているのだが、場合によってはこの説も否定すべき対象となってしまう。
 いとこ婚論文は相関と因果が明確でない点や、記事で指摘されているような様々な歴史的事実に関する解釈のおかしさなど、それ自体に問題点があるから批判されるべきだ。だがいとこ婚論文が「西欧中心主義」や「西欧が特殊」という主張をしているから批判すべきだという、記事の結論部分については、むしろ間違っていると指摘すべきだろう。政治的正しさによって歴史論文の正否が決まるのは、マルクス主義に合っているかどうかでルイセンコ仮説を評価するのと同じ過ちを犯していることになる。どうも最近の欧米では、人文や社会科学分野にポリティカルコレクトネスやwokenessの視点が無批判に使われがち。気をつけた方がいいと思う。
 もう一つはもっと微妙な問題だ。こちらのツイートがその点を指摘している。今回の記事は大きな原則を唱えても「細部にこだわらなければ意味はない」と言っているに等しいのだが、それはあまりに狭量ではないか、という批判だ。「還元主義的」であることが記事では批判されているのだが、一方で研究者の中にはまさに還元主義的に研究することに意味があると見ている人もいる。物事を説明する「オッカムの剃刀」を探し出すことこそ研究の醍醐味、という見方は確かにあるだろう。
 実際問題、科学の歴史においては還元主義的な取り組みによって多くの成果が得られてきたことは否定できない。ニュートンが運動方程式という極めてシンプルな物理法則を見つけたことが人間社会にもたらしたものは大きい。現実に物の運動を考える際には空気抵抗や摩擦についても考慮する必要があるが、それを理由に運動方程式がもたらした恩恵を否定するのは間違い。実際の生物の行動や進化は非常にバリエーションにあふれているが、それでもダーウィンが見いだした原則は進化を理解するうえで大いに役立つ。
 自然科学の分野ではそうした「細部を省略した還元主義」が認められているのに対し、それを歴史の分野では認めないというのでは、歴史は科学にはなり得ない。ただのエピソード集となってしまうだろう。それでもいいと歴史家が考えているのなら別に構わないのだが、それで満足できるのだろうか? 理論の妥当性はともかく、歴史に何らかの法則性があるのならそれを探そうと努力することには認められていいと私は考えている。重要なのは還元主義か否かではなく、それが説得力のある還元主義かどうか、であろう。
 細部を知っている人間からすれば苛立たしい間違いが散見されるのが我慢ならない、という気持ちはわかる。私自身、そうした細かい間違いをくどくどと指摘してきたし、これからも間違いを見つければ指摘するだろう。それはそれとして休むことなく続ければいい営みだ。一方で、多少の細部には目を瞑り、オッカムの剃刀として使えそうなルールを還元主義的に探す人もいていい。重要なのは、それぞれの説得力がどのくらいあるかについてきちんと評価することだ。
 そうやって発見されたルールなるものが、例えばR自乗で0.5以上の説明能力を持つのなら、それは使える「剃刀」だと見なしてもいいだろう。残る部分について異論はあるとしても、とりあえず一定の割合で機能することが期待できる法則だからだ。逆にその説明能力が低いのであれば、その事実を指摘して仮説を棄却すればいい。A仮説よりB仮説の方がR自乗が高いからこちらを見るべきだ、という論争なら意味がある。だがR自乗が1にならなければ意味がないという主張は、やはりあまりに狭量だろう。
 いずれにせよ大切なのは客観的な説得力だ。かつてよくあった歴史叙述ではエピソードを並べる形で説明することが多かったが、最近はデータを使った説明が増えてきている。それも客観的な説得力を増すための工夫だろう。歴史データの使用に注意すべきという指摘はその通りだが、歴史データそのものを否定するのはかえって客観性を損なうのではないかと思う。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント