さらに遡った証拠らしきものもある。
アウストラロピテクスの歯を分析した研究だ。180万~220万年前の歯の化石についてストロンチウムの同位体を調べたところ、男性のものと思われる歯の同位体は現地のものとほぼ一致していたのに対し、女性のものと思われる歯は半分未満しか一致しなかったという。成人した女性が家族の元を離れ、別の場所で暮らすようになったと考えれば辻褄が合う研究結果だ。
一方、父系ではなく昔は母系や双系的な社会だったのではないか、という説もある。一例は
前にも紹介した古代日本の話だ。
こちらのblogでは、こうした原始社会における母系制論の存在を紹介しつつ、実際にはヒトの社会は元から父系的な構造であり、それが後に多様化したのではないかとの見方を示している。ここまで紹介した事例を踏まえる限り、そうした考えにも一理ある。
さて、ここから先は思い付きだ。もしヒトの社会がチンパンジーとの共通祖先以来ずっと父系社会だったとして、600万~700万年もそうした社会が続いたということは、ヒトにとって父系社会には何らかのメリットがあったのではないか、と考えられる。父系社会、つまりオス同士の血縁度が高い社会がヒトの包括適応度を高めた可能性があるわけだ。おそらく群れの仲間同士が協力して活動するうえで、父系社会の方が、例えば母系社会や双系社会よりメリットが大きかったのだろう。
どんなメリットがあるのか。ヒトの社会において、特にホモ・エレクトゥス以来、
狩猟が大きなエネルギー確保源になっていたという話は前に紹介した。特に最初は大型動物が狩猟の対象になっていたのだが、その際に狩猟に当たったのは主にオスだったと考えられる。当時のヒトは確かに頂点捕食者だったかもしれないが、だからといって狩猟に何の危険も伴わなかったとは考え難い。社会の再生産に必要不可欠なメスをそのようなリスクに晒すことは、オスにとっても包括適応度を下げる行為だったと思われる。メスはもっと安全な採集活動を中心にしていたのだろう。
互いに危険を分かち合いながら狩猟を行ううえでは、ヒトのオス同士によるある程度利他的な行動が必要になっただろう。それを支えたと思われるのが、
血縁選択と
互恵的利他主義。この両方を機能させるうえで、父系クランという集団は効果的だったのではなかろうか。オス同士の血縁度が高い集団が、いつも一緒に狩猟をする。彼らは相互に血縁同士なので、自分を犠牲にして集団の他のオスを助けることが包括適応度向上につながりやすい。もちろん互恵的利他主義が働く場面もあっただろう。狩猟がうまくいったときは、失敗した仲間を助け、代わりにこんどは自分が失敗した時に仲間に助けてもらう。2つの機能が父系クランによるヒト集団の成功を支えたのだと思う。
だがこれが、例えばニホンザルのような母系制の社会だったら、どうなっただろうか。この社会のオスは互いに血縁度が低い、いわば他人同士で構成されるグループとなっている。彼らが協力して狩猟を行う場合、互恵的利他主義は働く余地が十分にあるが、血縁選択はほとんど機能しなくなる。自分が危険になっても血縁者を助けることで包括適応度が上がる、という場面はほとんど訪れないはずだ。結果、このグループによる狩猟では、相互の協力が十分に働かないと考えられる。
双系制の場合はどうか。単純にオス、メスとも群れから離れて新しい群れをつくる場合を考えるなら、やはり群れのオスの血縁度は低くなる。母系制社会と同様、狩猟において血縁選択の機能が働きづらくなりそうだ。もしチンパンジーとの共通祖先時代から父系社会なのだとしたら、ヒトが父系社会になったのは単なる経路依存性、つまり偶然にすぎない。だがその偶然が、ヒトの包括適応度を高めるような偶然だったため、父系クランはヒトの社会に定着し、長続きした可能性が出てくる。
一方、父系制の場合、メス同士は血縁度が低い。つまりヒトの社会において大人のメスは赤の他人同士で群れをつくっていたことになる。このグループには血縁選択はほとんど働かず、あくまで互恵的利他主義のみで結びついたグループになるわけだ。このグループがうまくやっていき、適応度を高めるだけの協力関係を築き上げるためには、メンバーが互恵的利他主義を徹底して実践するのが望ましい。幸い、彼女らは命の危険が高い狩猟にはあまり加わらなかったと見られるため、そうした実践に取り組むだけの余裕があったのだろう。
ヒトのメスはウン百万年前から、生まれた群れとは全然違う群れに入り、同じく別の群れからきたメス同士で力を合わせながら協力する能力に基づいて、徹底して選別されてきた。そうした群れがうまく機能し、構成員たちの包括適応度を上げるためには、互恵的利他主義に磨きをかけるしかない。そして互恵的利他主義を上手く機能させるうえで、重要な役割を果たしたのがヒト同士のコミュニケーションであった、とは考えられないだろうか。
一方、狩猟の場にいたオスは、互恵的利他主義だけでなく、父系クランならではの血縁選択にも支えられていた。彼らの協力関係は、互いに血縁にあるという前提に大いに寄りかかっていたのであり、だから包括適応度を上げるべく協力するのは当たり前だったのだろう。結果、互いの利益を考えつつ協力関係を維持するといった面倒な作業をウン百万年にわたって免除されてきたオスは、メスに比べて圧倒的にコミュ障になってしまったわけだ。
父系クラン自体は狩猟の協力という側面を通じてヒトの成功につながった。だが農業が始まって以降になると、父系クランのメリットは薄れたと考えられる。オスもメスも農作業というほぼ似たような作業に従事するようになり、オス同士の協力が持っていた重要度が薄れた。加えて農業を通じて社会が大型化し、血縁以外との協力関係の方がより重要な意味を持つようになっていった。戦争のようにオス同士が協力しなければならない場面は引き続き存在したし、その際には
疑似的な血縁関係が称揚されたが、それはあくまで疑似的なものでしかなく、包括適応度を高めるような血縁選択はあまり働かなくなっていったはずだ。
農業社会から産業社会になり、いよいよ血縁選択が機能しなくなっている。今やオスであっても、互恵的利他主義を機能させるため、当たり前のように高いコミュニケーション能力が求められる時代となった。だがこの能力においてオスはメスから数百万年も遅れている。このところ話題になっている
「弱者男性論」なるものも、もしかしたら数百万年分のツケを払わされそうになっているオスたちの悲鳴、なのかもしれない。
スポンサーサイト
コメント