永年サイクルと陰謀論

 陰謀論は一部の人だけでなくすべてのヒトに親和性のある発想法だ、という話を前に紹介した。理由は何であれ、陰謀論が人間の思考法と相性がいいのは確かだろう。もちろん、実際に身近な人間が陰謀論に嵌った人にとっては、相性の良しあしどころではなく、解決しなければならない問題になることも事実。それでもヒトの社会が付き合っていかざるを得ないのが陰謀論なのだろう。
 上記のエントリーでは米株式市場における陰謀論を紹介したが、足元では別の「陰謀論」に見える話が復活してきている。Covid-19のウイルスが中国の研究所から流出したという説に対して、米大統領が情報機関に対して調査を命じたという報道が大きなきっかけだ。昨年の時点で既にそうした話題は出ていたが、その時点では論拠に乏しい陰謀論という主張が多かった。それが足元になって改めて注目を集めている。
 一つのきっかけになったのは、Wall Street Journalが報じた「19年秋に武漢ウイルス研究所の職員が体調不良で通院していた」という話だろう。これに合わせてWSJは「ウイルス流出説の信頼性が高まる」との社説まで掲載し、明白にウイルス流出説に傾いた。
 同じようにウイルス流出説を唱えているのがNewsweekのこちらの記事。正直、「素人ネット調査団」という言い回しはむしろ信頼度のなさを示すための表現ではないかと思えるのだが、記事を見る限りNewsweekはこの「素人調査団」の言い分を明らかに称賛している。それ以外にWashington Postのファクトチェッカーでも、この説の信頼度が高まったと書いている。
 もちろん、あらゆるメディアが安易にウイルス流出説に飛びついているわけではない。少なくともWIREDは「昨年春時点から証拠は変わっていない」と指摘。過去の例を見る限りウイルス感染は流出よりも動物を介したものである可能性が高く、流出の可能性は「おそらくないが、あるかもしれない」というレベルのものだという。National Geographicの解説でも流出説の可能性はかなり低いと見られている。何よりその答えは出るとしてもずっと先の話になるし、そもそも答えが出てこない可能性もある
 今回の騒ぎに対してもっと批判的な論調なのはNatureだ。Divisive COVID ‘lab leak’ debate prompts dire warnings from researchersという記事には、サイエンス誌に載った科学者たちの主張が紹介されている。科学者たちは流出の可能性についてもっと深く調査すべきだと述べていたのだが、彼らは別に流出の可能性が高まったからそう主張していたわけではない。その可能性も踏まえて調べた方が次のパンデミック防止に役立つと考えていたためだ。にもかかわらず流出説の支持者がネット上で他の説を唱える人を攻撃している点や、流出説がもたらす米中対立の激化、さらにはアジア系に対する差別など、様々な影響が広がっていることに対し、この記事は懸念を示している。
 ウイルス学者が書いているこちらの記事では、ウイルスそのものに焦点を当てた説明を行い、これまでに集まった証拠の大半が自然を起源としたものであると指摘している。もっとはっきり「流出説は科学ではなく陰謀論」と指摘する記事もあり、そこでもやはりウイルス自体の特徴から動物由来の感染である点を指摘している。さらにサイエンス誌で流出説の調査をするよう主張した科学者たちを「薄っぺらい」と批判している。
 何よりこの話が「陰謀論」に見えてしまうのは、上に紹介した「素人ネット集団」による「発見」なるものの中味が実に陰謀論っぽい構成をしていること。ゲノム解析などウイルス自体の研究から流出の可能性が見つけられたという内容なら検討に値しただろうが、そこで唱えられているのは流出説をもみ消した「大物」がいただとか、中国側が証拠を隠したとか、記者の取材を拒んだといった話ばかり。積極的な証拠はなく、読者の疑惑を煽るための「ネットde真実」的な記述ばかりに満ち溢れている。煽情的だが説得力があるようには見えない話が中心だ。
 その「もみ消し」た大物と非難されている人物は、コロナウイルスの専門研究者だ。この人物は2005年からコウモリとコロナウイルスについての論文の共同執筆者となっており、要するにこの分野について長く研究を続けてきた専門家だと考えられる。以前こちらで書いたのと同じく「ただの学者、象牙の塔の住人」を、怪しげな陰謀の首魁にたとえるような主張であり、普通に考えてそうした説に出会った際には眉に唾をつけておいた方が安全。正直ただの誹謗中傷とどこが違うのか分からず、本人から名誉棄損で訴えられれば負けてしまうのではないか、と余計な心配をしたくなる。
 株式市場を巡る陰謀論が出てきた際にはそれを否定していたWSJをはじめ、ただのタブロイド紙ではないいくつかの「高級紙」とされるマスコミがこの話を肯定的に捉えているのが、流出説が改めて浮上してきた背景にあるのだろう。だがWSJは経済問題については詳しいだろうが、ウイルス学についての専門媒体ではない。彼らのような媒体と、科学雑誌やコロナウイルスを専門に研究してきた人物のどちらを信用するかと言われれば、私は後者を選ぶ。だが世の中には前者を選ぶヒトが大勢いるようで、それが今回の動きにつながっているのだろう。

 最初にも述べた通り、陰謀論はヒトの思考法と親和性が高い。そして前にも指摘したが、「陰謀論」が政治と結びつくと、危険度が大きく増す。前政権の際にもそのことが大いに批判され、それもあって「流出説」は陰謀論だと指摘する声が大きかったのだが、政権が変わったところで再びこれが復活してきたあたり、政治との絡みで言うとより深刻な状況になっているように思われる。
 この「流出説」は野党に転じた共和党支持者が政権批判のために持ち出している可能性がある。Financial Timesのこちらの記事では、政権が中国に対して弱腰なら共和党はそれを批判しようとするはずであり、だから政権は情報関係者の見解が一致すれば中国への非難を躊躇わない姿勢を示したのだ、と解説している。たとえ批判の内容がただの陰謀論であっても、政治的にそれを唱える方が有利なら、与党も野党も躊躇せずそれに便乗する、というわけだ。
 理屈で言えば筋悪の主張に与野党とも極めて安易に飛びついてしまうのは、それが米国民の間で幅広く支持される(少なくとも支持するふりをしてもらえる)と考えているためだろう。実際のところ、陰謀論者や考えの浅い非専門家を除いて、この「流出説」が真実だと心の底から信じている人間は限られていると思う。特に政治家たちは、それが自分の政敵を攻撃し、支持者の賛同を得る手段になると思っているから、真偽は関係なしにこの主張を受け入れているのではないか。トランプが主張していた不正選挙説についても同じで、これを巡ってアリゾナで行われている監査や票の再集計は、実際には単なる「党派心に基づく異端審問」と化している。
 目的は敵味方を判別し、味方を糾合して敵を攻撃することにある。そのための方便になりさえすれば、話の真偽はどうでもいい。おそらくCovid-19の流出説もそうした扱いになっているのだろう。共和党にとっては民主党攻撃の材料だし、現政権にとっては米国民の支持を得る手段として安直に便乗し、中国を攻撃するネタとして使うものでしかない。陰謀論かどうかなどは関係ないし、むしろ陰謀論の方が支持者を信じさせやすいのなら、それを使うのは当然と言わんばかりの状況だ。
 陰謀論はいつの時代も存在する。でもそれが政治と結びつくと危険になる、というのが前に紹介した本の主張だった。そして足元でもこの陰謀論は実際に憎悪犯罪の急増という現象をもたらしていると思われる。ヘイトクライムの増加の根本原因は、大衆の困窮化やそれを扇動する対抗エリートの増加にあるのだろう。構造的な問題の解決に正面から向き合わず、陰謀論に便乗して他者への憎悪を煽るような政治が大手を振ってまかり通っている事態は、非常に危険だと思う。
 ある意味でこれもまた「不和の時代」に表れる特徴なのだろう。前に「保元物語はとても陰謀論的ではないか」という話を紹介した時に、あの時代が永年サイクルにおける危機局面だった可能性があると指摘した。もちろんあの話は妄想に近いものだが、不和の時代と陰謀論が重なっていたかもしれないという意味では興味深い。過去に陰謀論が猖獗を極めた時期と、その国のPSI(政治ストレス指数)とを比べたら、もしかしたら相関関係が見つかるかもしれない。
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コメント

つね
こんばんは。
研究所からのウイルス流出説に確たる証拠がないのはその通りだと思いますが、WHOの調査を1年も拒否したり、オーストラリアがコロナ期限の国際調査を訴えたのに対し報復したりといった中国自身の態度が状況証拠として、ウイルス流出説にもっともらしさを与えているように見えます。
調査拒否が疑わしさを増すのは共産党政府も分かっているはずなのに、なぜこうも頑ななのでしょうか。

desaixjp
おっしゃる通り頑なすぎるのは確かでしょうし、それが他国の不信感を招いているのも事実です。
あくまで個人的な考えですが、中国が典型的な「権威主義的国家」であることが、こうした他国に対する非協力的態度の背景にあるような気がします。
彼らのメンタルは基本的に田舎のヤンキー(古いか)と同じで、よそ者に妥協するのはメンツが潰れることだと認識しているのではないか、ということです。
よそ者がずかずかと入り込んできたという印象を国民に持たれると、普段国民に対して強圧的な態度に出ている自分たちのメンツが潰れる。それは彼らの権威に大きなダメージをもたらす事態なのではないでしょうか。
もちろん、実は本当に研究所から流出していたから、という可能性も(かなり低いと思いますが)まだ残されてはいるでしょう。

つね
お答えありがとうございます。
中国がメンツの国とは昔から聞いてましたし、頭ではそう思っていても得失考えると失うもののほうが大きいように感じてしまいます。まあ対外信用よりも国内のほうが大事なのは確かにそうでしょうが。むしろ外に敵を作って国内まとめようとしてるのかも。そのうち「我が代表堂々退場す」なんて言い出しそう。
ただ、以前の中国外交はもっと老獪さがあったように思います。今の体制になってからは「戦狼外交」と言ってますが余裕のなさを現わしているように見えます。経済発展した自信もあるんでしょうけど、それももう少し待ってから野心を露わにしたほうがもっと上手くやれたでしょうに。

desaixjp
中国もアメリカの後を追うように余裕を失いつつあるのかもしれません。
https://desaixjp.blog.fc2.com/blog-entry-2850.html
中が不穏になってくると外に対して強硬な態度を取ってみせるというのは、どの国でも変わらない政治家の行動原理なんでしょう。
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