サンプリング問題

 GoldstoneとTurchinの唱える構造的人口動態理論は、3つのファクターが相互に作用して永年サイクルを生み出すと指摘している。それぞれ大衆絡み(MMP)、エリート絡み(EMP)、そして政府関連(SFD)のファクターだ。Turchinによれば各ファクターの相互作用の結果、大衆のウェルビーイング悪化とエリートの過剰生産、政府の財政難はそれぞれ歩調を合わせて変動することになる。
 彼はその点について、例えば米国史を舞台に様々な歴史上の代理変数を使って立証を試みている。それぞれのデータについてどこから引っ張り出してきたかについては、Ages of Discordの中で論拠となった論文を示しており、疑問があればそれをチェックしてくれという形だ。自分の説に説得力を持たせるうえでは必要な対処だろう。
 3つのファクターのうち大衆の困窮化についても色々な代理変数がある。TurchinがPopulation Immiseration in Americaでも触れているように、ウェルビーイングを測る方法は、経済的、生物学的、社会的などの方法があるわけで、それぞれごとに代理変数を引っ張り出すことで大衆の困窮化の流れをより全体的に把握しようとしている。
 問題は過去の永年サイクルまで適用できる古い代理変数を探す必要がある点だろう。Turchinは身長や平均余命、初婚年齢など、比較的遡りやすそうなデータを色々と見つけ出し、それを使って19世紀後半の米国で大衆のウェルビーイングが悪化していたことを立証しようとしている。例えば身長の推移(こちらのレビューにある2つ目のグラフ)を見ると、身長が1830年以降に低下し、1890年に底を打った様子が分かる。平均余命は少し時期がずれているがやはり19世紀の低下とそこからの上昇を記録しており、この時期が永年サイクルにおける解体局面だったことを裏付けるようなグラフとなっている。
 19世紀後半といえば米国で産業革命が本格的に進展した時期だ。普通に考えると産業革命で生産性が大きく向上しているタイミングで、大衆のウェルビーイングが低下するのは奇妙な話に見えなくもない。だがここでTurchinが引用したのと同じような傾向が、同じく産業革命期の英国でも存在したとの主張が存在する。こちらの記事にはオクスフォード大のカール・フレイによる、18世紀から19世紀にかけての英国の環境についての説が紹介されている。それによると庶民が産業革命の恩恵を受けられるようになるには70年の時間を要し、1850年生まれの身長は1760年生まれよりも低かったという。
 この話はCarl Benedikt FreyのThe Technology Trapに載っているようだ。それによると英国における平均的な食料消費は1840年代まで上向くことはなく、世帯の贅沢品消費は減っていた。1850年代初頭生まれのコホートは19世紀のどの生まれよりも身長が低く、この時期まで英国の大衆が栄養不足に陥る状況が続いていた様子が窺える(p114)。
 実際にはこの研究はFreyのものではない。Freyらが2017年に記した論文、Political Machinery: Automation Anxiety and the 2016 U.S. Presidential Electionの脚注5(p8)を見ると、1760年生まれの方が1850年生まれより高かったという話はFloud et al.(1990)とKomlos(1998)が論拠になっていることが分かる。これと歩調を合わせたデータとして、1人当たりカロリー消費が1850年には1800年より減っていたというAllen(2005)らのデータも、ここでは紹介されている。

 しかし、データの論拠が分かったところでめでたしめでたし、とは行かない。Freyが書籍の中で指摘しているように、実はこの手の古いデータについては色々と論争が存在していたのだ。本当に身長に代表されるウェルビーイングが悪化していたかどうか、必ずしも研究者の見解が一致しているわけではなさそうに見える。
 英国の状況についてそう指摘している一例が、British wellbeing 1780-1850: Measuring the impact of industrialisation on wages, health, inequality, and working timeという記事だ。それによれば実質賃金と労働時間から見た英国大衆のウェルビーイングは1810年代まで停滞し、それから成長している。一方、平均余命は1810年代までは成長し、そこから停滞している。
 どうやら代理変数に何を選ぶかによって、大衆のウェルビーイングがどう推移していたかに関する見え方は違ってくるらしい。1810年代までは健康面での改善が中心的に進み、その後になって平均余命は急速な都市化の影響で頭打ちになったが、今度は実質賃金の向上がウェルビーイングの改善につながった。産業革命の進展に伴う労働需要の増加が、賃金にプラスに働いたのかもしれない。
 つまりTurchinが米国で描いてみせた傾向とは異なり、英国の産業革命期にはウェルビーイングの代理変数は必ずしも歩調を合わせた動きを見せていなかった、そして全体としてはウェルビーイングの改善が続いていた、ということになる。Goldstoneによれば19世紀前半の英国における政治ストレス指数(psi)は、変動はあったものの基本的に右肩下がりが続いており、こうした結果と平仄が合っている。代理変数を使った分析が常にうまく行くとは限らない事例が、19世紀の英国なのかもしれない。
 そしてもちろん19世紀後半の米国におけるウェルビーイングの代理変数についても、Turchinが紹介したような説に対する異論がある。Biased samples yield biased results: What historical heights can teach us about past living standardsという記事では、そのあたりを詳しく紹介している。最大の疑問は、オランダ、イタリア、スウェーデンといった他の産業革命中の国で見られなかった身長の低下が、なぜ米国で観測されたのかという点だ(Figure 1)。
 グラフを見ると分かる通り、米国では1830年から1880年にかけて身長が5センチ低下している。他の国では(伸びの鈍いフランスも含め)こんなに大きく低下した事例はない。おまけにこの時期に実質賃金は米国で伸びており、Komlosは生物学的な生活水準と経済的生活水準が「分岐」を起こしていたのではないかと想定しているという。
 だがそうではなく、別の理由があったのではないか、というのがこの記事の指摘。要はサンプリングに問題があったという考えだ。古い時代の身長データは基本的に軍隊の入隊記録を使って集められることが多いのだが、基本的に志願兵制を取っていた米国の場合、このデータは必ずしも米国人一般の傾向を示したものとはならない。当時、軍隊にやってくるような面々は、民間人として雇用機会をつかむことのできないような人物たちだった。例えば、一般人より体格が小さく、仕事には向かないと思われていたような者が多かった可能性がある。
 一方、米国以外の国々は19世紀の時点で既に徴兵制を敷いていた。これらの国では兵隊の身長データが即ち若い男性全体をサンプリングした身長データとして使える可能性が高い。母集団の違うデータを並べると違う結果が出てくるのはある意味当然。同時にまた、米国同様に志願兵制を取っていた英国のデータが、米国と同じように産業革命期に身長の低下を示しているのも、やはりサンプリングの違いに由来する可能性が浮かんでくる。
 実際、米国における身長低下を示すデータの多くは、サンプリングに偏りがあったり母数が小さかったりといった問題のあるものだったそうだ。これらの統計がもし実態を表していないものだとしたら、それを大衆のウェルビーイングの代理変数として使うのはあまり適切でない、ということになる。もちろんTurchinが示しているウェルビーイングの代理変数は他にも色々とあるし、この件をもって彼の主張が100%間違いになるわけではないが、それでも気になる指摘であることは確かだ。

 Turchinの理論やモデルについては、以前ちょっとした疑問点を書いた。とはいえ理論やモデルは実態に合わなければまた見直せばいいだけだと個人的には思っている。でもデータはそうではない。現実を把握するうえでデータは重要だし、データそのものの信頼性がどのくらいあるかもきちんと調べる必要がある。他ならぬTurchin自身、例えば実質賃金というデータの持つ問題点を指摘している。
 Turchinが自分の説を補強するために使っているデータに対しても、同じように厳しい視線を向けるべきだろう。19世紀の身長問題はほんの1例にすぎないが、無視できない1例だと思う。
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