3つのファクターのうち大衆の困窮化についても色々な代理変数がある。Turchinが
Population Immiseration in America でも触れているように、ウェルビーイングを測る方法は、経済的、生物学的、社会的などの方法があるわけで、それぞれごとに代理変数を引っ張り出すことで大衆の困窮化の流れをより全体的に把握しようとしている。
問題は過去の永年サイクルまで適用できる古い代理変数を探す必要がある点だろう。Turchinは身長や平均余命、初婚年齢など、比較的遡りやすそうなデータを色々と見つけ出し、それを使って19世紀後半の米国で大衆のウェルビーイングが悪化していたことを立証しようとしている。例えば身長の推移(
こちらのレビュー にある2つ目のグラフ)を見ると、身長が1830年以降に低下し、1890年に底を打った様子が分かる。平均余命は少し時期がずれているがやはり19世紀の低下とそこからの上昇を記録しており、この時期が永年サイクルにおける解体局面だったことを裏付けるようなグラフとなっている。
19世紀後半といえば米国で産業革命が本格的に進展した時期だ。普通に考えると産業革命で生産性が大きく向上しているタイミングで、大衆のウェルビーイングが低下するのは奇妙な話に見えなくもない。だがここでTurchinが引用したのと同じような傾向が、同じく産業革命期の英国でも存在したとの主張が存在する。
こちらの記事 にはオクスフォード大のカール・フレイによる、18世紀から19世紀にかけての英国の環境についての説が紹介されている。それによると庶民が産業革命の恩恵を受けられるようになるには70年の時間を要し、1850年生まれの身長は1760年生まれよりも低かったという。
この話はCarl Benedikt Freyの
The Technology Trap に載っているようだ。それによると英国における平均的な食料消費は1840年代まで上向くことはなく、世帯の贅沢品消費は減っていた。1850年代初頭生まれのコホートは19世紀のどの生まれよりも身長が低く、この時期まで英国の大衆が栄養不足に陥る状況が続いていた様子が窺える(p114)。
しかし、データの論拠が分かったところでめでたしめでたし、とは行かない。Freyが書籍の中で指摘しているように、実はこの手の古いデータについては色々と論争が存在していたのだ。本当に身長に代表されるウェルビーイングが悪化していたかどうか、必ずしも研究者の見解が一致しているわけではなさそうに見える。
どうやら代理変数に何を選ぶかによって、大衆のウェルビーイングがどう推移していたかに関する見え方は違ってくるらしい。1810年代までは健康面での改善が中心的に進み、その後になって平均余命は急速な都市化の影響で頭打ちになったが、今度は実質賃金の向上がウェルビーイングの改善につながった。産業革命の進展に伴う労働需要の増加が、賃金にプラスに働いたのかもしれない。
つまりTurchinが米国で描いてみせた傾向とは異なり、英国の産業革命期にはウェルビーイングの代理変数は必ずしも歩調を合わせた動きを見せていなかった、そして全体としてはウェルビーイングの改善が続いていた、ということになる。Goldstoneによれば19世紀前半の英国における政治ストレス指数(psi)は、変動はあったものの基本的に右肩下がりが続いており、こうした結果と平仄が合っている。代理変数を使った分析が常にうまく行くとは限らない事例が、19世紀の英国なのかもしれない。
グラフを見ると分かる通り、米国では1830年から1880年にかけて身長が5センチ低下している。他の国では(伸びの鈍いフランスも含め)こんなに大きく低下した事例はない。おまけにこの時期に実質賃金は米国で伸びており、Komlosは生物学的な生活水準と経済的生活水準が「分岐」を起こしていたのではないかと想定しているという。
だがそうではなく、別の理由があったのではないか、というのがこの記事の指摘。要はサンプリングに問題があったという考えだ。古い時代の身長データは基本的に軍隊の入隊記録を使って集められることが多いのだが、基本的に志願兵制を取っていた米国の場合、このデータは必ずしも米国人一般の傾向を示したものとはならない。当時、軍隊にやってくるような面々は、民間人として雇用機会をつかむことのできないような人物たちだった。例えば、一般人より体格が小さく、仕事には向かないと思われていたような者が多かった可能性がある。
一方、米国以外の国々は19世紀の時点で既に徴兵制を敷いていた。これらの国では兵隊の身長データが即ち若い男性全体をサンプリングした身長データとして使える可能性が高い。母集団の違うデータを並べると違う結果が出てくるのはある意味当然。同時にまた、米国同様に志願兵制を取っていた英国のデータが、米国と同じように産業革命期に身長の低下を示しているのも、やはりサンプリングの違いに由来する可能性が浮かんでくる。
実際、米国における身長低下を示すデータの多くは、サンプリングに偏りがあったり母数が小さかったりといった問題のあるものだったそうだ。これらの統計がもし実態を表していないものだとしたら、それを大衆のウェルビーイングの代理変数として使うのはあまり適切でない、ということになる。もちろんTurchinが示しているウェルビーイングの代理変数は他にも色々とあるし、この件をもって彼の主張が100%間違いになるわけではないが、それでも気になる指摘であることは確かだ。
Turchinの理論やモデルについては、
以前ちょっとした疑問点を書いた 。とはいえ理論やモデルは実態に合わなければまた見直せばいいだけだと個人的には思っている。でもデータはそうではない。現実を把握するうえでデータは重要だし、データそのものの信頼性がどのくらいあるかもきちんと調べる必要がある。他ならぬTurchin自身、例えば実質賃金というデータの持つ問題点を指摘している。
Turchinが自分の説を補強するために使っているデータに対しても、同じように厳しい視線を向けるべきだろう。19世紀の身長問題はほんの1例にすぎないが、無視できない1例だと思う。
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