6月16日の戦い 下

 承前。DupuisのLes opérations militaires sur la Sambre en 1794に書かれている1794年6月16日の戦いについて。前回は主にこの戦いとフルーリュスの似ている部分を紹介したが、大きな違いもあった。それはシャペル=エルレモン、トロワ=ブラ(キャトル=ブラ)、ソンブルフ方面に連合軍が集まっていることに気づいたジュールダンの対応だ(p292)。
 まず左翼のクレベールだが、彼は配下の2個師団でグイとモルランウェル方面で遭遇した敵全てを攻撃するのに加え、フランス軍がキャトル=ブラの敵と戦うべく前進している間に「バンシュ及びメルブ=ル=シャトー(いずれもシャルルロワ西方)方面から来る全てに対峙する」こととなった。モルロ師団はブリュッセル街道をトロワ=ブラへ、シャンピオネ師団も同じルートをヴィレ=ペルワン経由で前進する。ルフェーブル師団はフルーリュスとサン=タマンを右に見ながらマルベへ向かい、マルソーはソンブルフを目的地として進む。騎兵はシャンピオネ及びモルロの背後をついていく。
 フルーリュスの戦いの際に、フランス軍は構築した野戦陣地を活用して連合軍を迎え撃つ形で戦った。だがこの16日の戦いでは、彼ら自身が前進して連合軍へ攻撃を仕掛ける格好となっている。しかも各部隊がそれぞれ放射状に広がるような動きを指示されており、結果として両軍とも各縦隊がバラバラに移動しながらの遭遇戦に巻き込まれることになった。おまけに16日の朝は深い霧が戦場を覆っており、全体の状況がはっきりしないまま孤立した戦闘がいくつも展開される格好になった。

 実際の経過は以下の通りだ。まず連合軍左翼のボーリュー縦隊は午前5時にはヴレーヌとシャペル=サント=バルブの丘を占拠。さらにフルーリュスに向かった部隊とも合流し、そこからカンピネール高地へと向けて前進した。マルソーの部隊はこの時も連合軍を支えきれず、ランビュサールを捨ててテルニェー渡河点近くの森まで後退を強いられた。
 彼の左にいたルフェーブル師団は午前4時半にはフルーリュスの背後でボーリューの右翼側部隊と接触。本格的な交戦が始まったが、マルソーの部隊が退却し、その砲兵が配置されていた拠点を放棄したために、右側面が敵の砲撃に晒されるようになった。加えて、ルフェーブルによると彼らの左翼にいたシャンピオネもランザール正面の陣地を捨ててしまったため、彼は両側面からの砲撃に囲まれるようになった(p293-294)。
 濃霧のためにルフェーブルの砲兵が連合軍騎兵の奇襲を受け、大砲と弾薬車を奪われたほか、敵騎兵に囲まれて辛うじて突破した部隊もあったという。ルフェーブルによれば彼の部隊は7時間半にわたって執拗に戦いながら「誰も後退しようとはしなかった」(p294)。だがそこまでカンピネールの陣地で踏ん張っていた彼らも、最終的に弾薬が尽きたところで退却を余儀なくされた。
 シャンピオネの部隊は「サン=フィアクルへ前進して敵を攻撃し、ニヴェールからナミュールへ至る街道を奪うよう命令を受けた」(p294)。この街道は1815年のリニ―とキャトル=ブラの戦い当日にウェリントンがブリュッヒャーとの会合のために使った道である。だがこの前進は霧のために速度が落ち、彼が攻撃準備をした時にはサン=フィアクル方面から逆に射撃を受けたうえ、メレを占拠したクォスダノヴィッチの部隊がその左翼から回り込もうとしていた。
 シャンピオネは攻撃をいったんやめてアッピニーの森(北西部にある小川沿いの森か)に退却した。当初は用意していた逆茂木などで時間を稼いだフランス軍だったが、濃霧の中で連合軍の進出を止めることができず、4時間抵抗した後で彼らはアッピニーを放棄しランザールへと後退した。彼は「前衛部隊[ルフェーブル師団]が弾薬不足で退却を強いられなければ、我々はランザールを保持できただろう」(p294)と書いている。つまりルフェーブル師団の退却後はランザールも放棄したことが分かる。かくして正午頃にはフランス軍右翼は完全に敗北し、連合軍はシャルルロワまで到達できる状態となっていた。
 一方、中央のモルロ師団はポン=タ=ミニュルーの出口で、霧を利用してリベルシーとメレからフランス軍の哨戒線を追い払ったクォスダノヴィッチの縦隊と遭遇した。彼はクォスダノヴィッチの攻撃に対してポン=タ=ミニュルーを守った。
 クレベールは右翼の師団とともにトラズニーに前進し、そこでヴァルテンスレーベンの縦隊と霧の中で交戦を始めた。クレベールは1個旅団で正面を支える一方、左翼師団がフォルシー及びピエトン方面で行っている攻撃の結果を待った。こちらではピエトンには一発も撃つことなく入ることができたが、フォルシーに向かった部隊はその前面で足止めされた。やむを得ずクレベールはジュメから駆け付けたベルナドット旅団を使い、ヴァルテンスレーベンの左側面に対する攻撃を仕掛けた。この攻撃は成功し、ヴァルテンスレーベンは多くの弾薬箱を残して退却した(p296)。
 左翼の成功を知ったジュールダンは、ここでかなり大胆な作戦を考える。マルソー、ルフェーブル及びシャンピオネ師団を軸として、全軍を右へと旋回させるというものだ。彼は騎兵の一部とともにモルロ師団のところへ向かい、またクレベールにたいしてもそこへ騎兵をいくらか送るよう指示した。だが彼がポン=タ=ミニュルーに到着した時、クォスダノヴィッチが既にここを奪ってそこから出撃しようとしていた。ジュールダンは騎兵に突撃を命じ、連合軍を打ち破って村の奪回に成功した。
 同じ頃、クレベールはローマ街道(これまた1815年戦役で何度か言及される)に配下の2個師団を並べ、ピエトン川を渡ってポン=タ=ミニュルーへ向かおうとする準備をした。だがこの時点、正午頃に、ジュールダンはルフェーブル師団がカンピネールを放棄してシャトレへ退却したとの知らせを受け取った。アトリはシャルルロワ攻囲を解いてマルシエンヌでサンブル対岸へ後退し、シャトレの渡河点は脅かされていた。ジュールダンは退却を命令せざるを得なかった。
 ランザールから退却したシャンピオネは兵をジュメ付近に集めた。当初はシャトレを経由して対岸へ引き下がるつもりだったが、移動を始めるやすぐにシャルルロワから出撃してきた連合軍と遭遇した。この時点でシャンピオネはシャトレの橋が遮断されたと判断し、マルシエンヌへと退路を変えた。この方面にも敵はいたが、フランス軍はそれを排除しながらマルシエンヌでサンブルを渡河し、アトリ師団と一緒に退却に成功した(p297-298)。
 モルロ師団もシャンピオネ師団に続き、モンティニー=レ=ティニュへと後退した。クレベールの左翼部隊はフォンテーヌ=レヴックとピエトン川沿いを経由してサンブルへ向けて移動し、モンコーの橋(正確な場所は分からないが、マルシエンヌのすぐ上流か)でサンブル右岸へと引き上げた。以上、16日の戦闘は連合軍の勝利に終わり、フランス軍が試みた2度目のシャルルロワ攻囲は失敗した。

 Dupuisはこの日の戦いについて、午前11時頃まではフランス軍が優位だったと記している。個人的にはマルソーとシャンピオネがそれ以前に敵に押されていたのを見てもそこまで優位だったかどうかは怪しいと思うが、クレベールやモルロが奮闘していたのは事実であり、ルフェーブル師団が退却を強いられた正午までは五分五分の戦いだったとは言えるだろう。しかし正午の時点ではこれ以上の抵抗が難しくなっていたのも事実だ。
 ジュールダンが考えたクレベール師団のポン=タ=ミニュルーへの投入についてはDupuisは批判的だ。戦線のある個所で交戦していた部隊が交戦をやめて異なるところへ移動するには時間がかかるため、敵に決定的な一撃を与えるのは難しい。本来ならその役目は予備部隊が担うべきであり、それができなかったのはジュールダンの能力の限界だという理屈のようだ。たとえクレベールがこの移動を実行できたとしても、クォスダノヴィッチに対する攻撃が実行できるのは早くて午後2時であり、その時には望ましい攻撃のチャンスは失われていた、と彼は主張している(p300)。
 退却はしたもののフランス軍の士気は高かったそうだ。敗因は霧と弾薬不足のせいにされ、首脳陣は翌日の反撃を検討していた。実際にはすぐに反撃はできなかったが、派遣議員らをなだめるためにも負けていないという必要があったのだろう。一方、コーブルクはこの戦闘の結果、フランス軍は防勢を強いられるだろうと判断を間違えた。しかしそれよりも大きい判断ミスは、全戦線にわたって兵力を分散させる攻撃法が有効だと思ってしまったこと。フルーリュスの戦いでは、連合軍は広い戦線に均等に兵力を配置するという残念な作戦を実行し、そのほとんどで攻撃が行き詰った。
 後世から見れば6月16日の戦いは、決してメジャーとは言えないフルーリュスの戦いよりもさらにマイナーな存在にとどまっている。だがそういった戦いにも勝因や敗因があり、それがさらに後々まで影響を及ぼしている。本気で真面目に歴史を調べるつもりなら、そういう細かな話を追っていかなければならないわけだ。正直、いくら時間があっても足りるわけがない。
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